My beloved, thank you for...
“結婚しような”
そう僕達は約束した。
だが、その約束は彼女の手によって破られてしまう。別に彼女が浮気したとかそういう汚い話じゃない。むしろ、そういう話の方がマシだったのかもしれない。
結婚を前に同棲しようということになり、僕達は当たり前のように幸せに暮らしていた。
そのまま数ヶ月過ぎ、彼女は風邪っぽさと怠さを訴えるようになった。それがしばらく続くようで、僕は病院へ行くように促した。病院の処方箋である風邪薬を貰ってきて、また寝込む。数日してから僕に元気になったような姿を見せ、また数週間すると風邪のような症状を見せる。この頃から僕は何かがおかしいと思っていた。
ある日、僕達は大学病院の方へ顔を出した。あまりにも風邪の症状が続きすぎている。それはおかしいということでやっと彼女は病院に行くことを決意した。
彼女なりにもいろいろと調べていたらしく、何かを予感していたように見えた。
検査の様子は痛々しかった。ただの血液検査で終わるかと思っていたのだが、それでは収まらなかったのだ。何かの疑いがあったらしい。車で帰っている途中も彼女は痛みに顔を歪ませていた。
もちろん結果はよろしくなかった。早期発見にはならず、即行入院という結果になった。僕はすぐに荷物をまとめて、病院までそれを届けに向かった。
彼女の入院生活が始まった。彼女の親にも連絡をし、僕も自分の親に話をした。
僕達はそのとき既に婚約をしていた。それもある程度進んでしまったこの病気の前では無駄になるのかもしれない。そういう思いが僕の中を駆け抜けた。考えてはならないことを考えてしまったと、後から僕は自分を責めた。
急性骨髄性白血病。進んでしまっては取り返しがつかない病気だ。僕なりに家で勉強したんだ。
「潤一。ごめんね、本当に」
「治るんだから“ごめん”なんて言うなって」
「だって死んじゃったら言えないじゃん」
「遺言が“ごめん”だったら僕、どうしたらいいんだよ」
壁も天井もベッドのシーツも枕も、真っ白だ。ここは個室の病室なのである。
入院し始めた頃は窓から見える木々には緑色の葉がたくさんついていた。それが今ではもう枝だけになっている。あれから五ヶ月は経っているようだ。
あれから抗がん剤治療を受けたが、彼女の容態にあまり変化はなかった。目の前には顔を窶れさせた、髪の毛の少ない彼女がいる。強気であった目は少し弱々しくなっているが、それでも生きたいという意思が目の奥に感じられる。
五ヶ月前、医者からは余命一年と言われた。だが、それはこのまま放置しておけば余命一年だという意味だと説明された。今、治療をしているから、まだ命はあるんだと僕は信じている。
「ねぇ潤一」
「ん?」
いつもと変わらぬ声の調子で彼女は僕を呼んだ。
「もう髪、剃っちゃダメかな」
僕はその言葉に驚きを隠せなかった。今まであえて何も言わなかった。カツラでも被ったらどうだ、とかを言う勇気がなかったのだ。むしろ、彼女から言ってくれるのを待っていたのかもしれない。
女性に髪の毛がない。
その事実が一瞬だけ受け入れられなかった。
「びっくりしたんでしょ」
くすりと彼女が笑う。
僕は呆気にとられて何も答えることができなかった。
「でもねー、こういう微妙な感じで残ってる方が嫌なのよ」
「いや、君がいいならいいんだ。君から言うとは思わなかったから」
「言えないでしょー。潤一は」
彼女は僕を理解している。つくづくそう感じることが最近多々とある。
この三年間で彼女は僕をしっかりと見てきた。そういうことになるのだろう。僕の良い所も悪い所も癖も、全てを。
それに代わって、僕はどうなのだろうかと自問自答することがよくある。彼女が僕のことをどのように思っているのか、僕がどのように見えているのか、わからないことがある。彼女を理解することができないと自分を責める夜が毎日続く。
そう毎晩思っていても彼女には話すまいと必死に耐えている。
彼女は遠くを見るようにしてぼーっとしていた。その彼女を見ながら、僕は彼女の身の回りを整理していく。
「明日持ってくるか?バリカン」
「うん。お願い」
短い会話のあとに沈黙が続く。この沈黙も最近では当たり前になってきている。昔のように会話が続かなくなってきていた。彼女の精神が若干不安定だということ、僕自身も精神的に身体的に疲れてきているということ。それらが原因なんだと僕は決めつけている。
沈黙が続いて、いつの間にか窓の外は暗くなっていた。僕が窓のカーテンを閉めようと窓に近づいていく。
「今日は閉めなくていいよ」
沈黙を遮るように彼女の声が通った。
「外が見たいから、閉めなくていい」
「わかった」
時間はすでに六時を過ぎている。看護士達が帰れと患者の見舞い客を追い出す時間が近づいてきている。僕は自分の荷物をまとめ始めた。
「潤一」
帰ろうとする僕に声をかけてきた。
「辛かったら言っていいのよ。誰かに」
「僕よりも君の方が辛いだろ」
彼女はううんと顔を横に振った。その後に自然を装うように笑ってみせる。
僕を安心させようとする笑顔だ。何かがある度に彼女はそのような表情をする。何かを我慢しながら笑う。そういう表情。入院してからはそういう笑顔をしか見ていない。そして今、またその笑顔を見ている。
「私にとって、それは私であってほしいけど、私じゃ話しづらいことあるでしょ」
「でも」
「別に誰でもいいのよ。ご両親でも、友達でも、お医者さんでも、私でも。辛そうにしてる潤一を見るのが一番悲しいから」
彼女の強さをまざまざと見せつけられた気がした。優しさも強さも温もりも、全てが入り交じった何かを感じた。
僕は彼女のベッドの傍の椅子にもう一度戻る。そこに座り、彼女の表情をもう一度見つめてみた。その視線を受け入れるように彼女は笑う。その笑顔はやはり、何かを我慢するような表情だった。
「君は、僕をよく見ていると思う」
僕自身、そんなことを口にすると思っていなかった。ふと滑った言葉がそれだった。僕が心の奥底で思っていたことがふと出てきたのかもしれない。
彼女がクスリと笑う声がした。その声に僕は顔を上げる。目の前の彼女は穏やかな表情で僕を見つめている。
「そんなことないよ。全然潤一のことわかってないと思ってる」
「いや、だって」
「そりゃこんだけ一緒にいればわかることもあるよ。潤一が自分の思ってること素直に言えないってことも、人に迷惑をかけまいといつも頑張ってることも、ボロボロのこんな私のことをまだ見てくれてることも」
「わかってるじゃん」
それだけだよ、と彼女は呟き、俯いた。
「それ以外のことは全然わかんない」
「何がわからないの?」
それだけわかっていれば十分じゃないかと思った。今の彼女にそれ以上をわかろうとする必要はない。これ以上は彼女の負担にしかならない、気がする。
「なんか、わかんない。具体的になんないの」
これは彼女の悩み方だ。いつも問題が具体的にならない。その具体的にならないという事実に彼女は悩み悩んで悩みまくる。考えて考えて考えまくる。
こんなとき、僕には傍にいることしかできないんだ、と思い知らされる。傍にいるだけで悩みが緩和しているのだろうか、と不安にさせられる。僕の存在は彼女のためになっているのだろうか、と思ってしまう。
これが悪循環だということにはずっと前に気づいていた。気づいていながらも、いつも僕は何も言わずに彼女に寄り添ってきている。彼女に寄り添うことに意味があるのだと自分に言い聞かせてきた。
「なぁ、負担にならないのか」
「何が」
「全体的にさ。考え込んで」
僕はいつも本題が口に出せない。
「…うーん、なんて言うのかな」
彼女と込み入った話はそこまでしたことない。喧嘩らしい喧嘩をしなければ、些細なことでもめることもなかった。一緒にいたらいつの間にか時間が経っていたというような感覚だ。
なぜか、彼女の口から出る言葉が怖かった。
「あなたのこと考えてる方がずっと楽なの。だから負担になんかなってない。大丈夫よ」
「…僕は、君のためになってる?」
「そりゃあもう十二分なくらい。…不安だった?」
大人に諭される子供みたいに僕は頷いた。
ずっと今まで不安だったことだ。彼女のために何ができるのかと思考してきた。どんなに考え込んでも、彼女が僕には何も話さないからどうしようもなかった。考えてきたことは全て無駄になっていく。無駄になっていくとわかっていても、彼女のために思考し続けた。
「私が病気だから、不安になってたの?」
「違う。ずっと前から。いっつも一人で考え込んでるように見えたから。僕、どうしたらいいかわからなくなって」
彼女の少し驚いたような表情が目に見えた。暫しの沈黙が部屋を支配する。
「潤一」
「何」
「一人で考え込んでるってお互い様だと思うよ」
よくよく考えてみる。
「どうしたらいいかわからなくなって、一人で考え込んでたんでしょ」
「うん」
「もしかしたら、私達、同じようなことで考え込んでたのかもね」
時間はすでに七時を過ぎている。
「私もね、そうだったの」
彼女は腕を上げて伸びをした。元気だった頃によく見た彼女の仕草だ。何かを吹っ切ったかと思うと、彼女はこのような伸びをする。どこか清々しく凛々しい。
「潤一のために何ができるかって、ずっと考えてた、昔から」
僕達は思っていることを口に出してこなかった。今になって僕達は、本当のことを言い合っている。
とても今更なことだ。普通だったら本音で話すということは当たり前なはずだ。僕達はそれでも相手を想うあまり、本音を言わずに過ごしてきた。愛を伝えて、くだらないことに笑って、喧嘩一つなく過ごしてきた。
今思えば、喧嘩一つなく過ごすことができたのは奇跡だったのかもしれないとも思える。
「すごいな。僕達」
「奇跡だね」
僕達が思っていることはいつも同じだった。
「私、いつまでも、潤一の傍にいるよ。でもね」
「“でもね”、どうした?」
彼女は視線を僕からそらして、表情を曇らせた。
今にも泣きそうな表情を僕はそっと見守る。久しぶりに見た彼女の涙だった。僕は彼女を急かさずに、言葉を待ち続けた。
とっくに面会時間は過ぎていることはわかっている。だが、今、帰ってはいけない気がした。
「もし私が死んだら、私のこと忘れて、すぐに新しい彼女作ってほしいの」
予想外の言葉が彼女の口から出てきた。
僕は唖然とせざるを得なかった。もっと別の言葉を言われると思っていた。“自分のことを忘れないでほしい”などと言った言葉を言われると思っていた。
「どうして?」
そう言った僕の声は震えていた。いつの間にか僕の目からは涙が流れ落ちている。震えていた声で、僕は泣いているのだと自覚させられた。
「どうして、忘れなきゃいけないんだ?」
僕の中で何かが溢れた。
僕が彼女と出会ったこと、彼女に片思いしたこと、彼女と一緒に帰るたびにドキドキしたこと、彼女にふられるのを覚悟で告白したこと、彼女との初デートで水族館に行ったこと、二人で行った旅館やレストラン、彼女にプレゼントで貰った腕時計、彼女と交わした他愛のない言葉、愛の込められた言葉、その他にあったたくさんの出来事、それらを忘れろと彼女は言うのだ。
無理に決まってる。僕は忘れたくない。絶対に忘れたくない。
「忘れられるわけないだろ。ふざけるなよ」
「違うよ。そういう意味じゃないの」
僕はすでに冷静を失っていた。僕の中で彼女との出来事が走馬灯のように駆け巡る。彼女の言う言葉が僕を更にいらつかせる。
「潤一はこれからも生きられるでしょ。私一人のことを想い続けても、潤一が幸せになれないじゃない。結局潤一は独りぼっちなままじゃない。私、潤一の幸せだけを願ってる。幸せになってほしい。だから、だから…」
「だからって忘れろって」
「無理なのはわかってる。でもいつか、潤一が愛せる人に会えるかもしれないでしょ。そのチャンスを逃しちゃ駄目でしょ」
彼女は僕よりずっと大人だ。
それでも僕は納得できない。絶対に彼女の病気は治るんだ。彼女とこれからも暮らし続けるんだ。彼女を支え続けるんだ。そう勝手に意気込む。
「潤一がそう言ってくれてすごく嬉しい。そう想ってくれてたんだって、すごく今嬉しい。でもね、私の病気は治らないでしょ。末期だもの」
「治るよ。絶対に治るよ」
僕は子供みたいに泣きながら、彼女にすがった。
「治らないよ」
「治るって言ってるだろ」
「治ら――」
「頼むから!それ以上治らないって言わないでくれよ!」
彼女の言葉を遮って、僕は声を強めて彼女に言った。もう聞きたくない。彼女の弱気な言葉は、事態を悪化させるだけだ。
僕の中で溢れていく何かはただただ流れていく。彼女の前で子供みたいに泣きすがりながる。ただ泣く。
涙がなかなか止まってくれない。止まることを知らないかのようだった。
病院の白いシーツが涙が濡れている。思ったより大きなシミになっていた。この涙の痕は僕達の本気の名残だ。できることならこのシーツを洗わずに僕の家に持って帰りたい、そんなことを一瞬思っていた。
落ち着いてきた頃には僕は彼女に頭を撫でられていた。まるで母親が子供を諭すかのような絵になっていた。
「潤一、落ち着いた?」
「うん。ごめんな」
「そんなことないよ」
もっと、忘れる前にもっと、彼女を感じていたい。
「今日、泊まっていっていいかな」
「もちろん。私が拒否するはずないでしょ」
きっと彼女も同じことを思っているに違いない。
僕に忘れられる前にもっと僕を感じていたいと。僕達が本当に似た者同士ならきっとそう思っているはずだ。これは自惚れではない。そう思いたい。
「できるだけ多く、一緒にいたい」
僕達は同時にお互いの顔を見た。どちらもきょとんとした顔をしている。一瞬の間のあと、僕達は微笑む合う。
それから1ヶ月半後、春の訪れと共に彼女は息をひきとった。
最後の最後まで辛いなどと言わずに、彼女は僕に看取られ、亡くなった。僕にとっては最愛の人を失ってしまったということになる。
「ごめんね」
「“ごめん”なんて言うなよ。“ごめん”じゃなくて“ありがとう”の方が気持ちいいだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「…今までありがとう、潤一」
「こちらこそ本当にありがとう―――」
―――…佳織。
後半、あたしは泣きながらキーボードを叩いていました。
あたしだったら何と言うでしょうか。
「あなたに幸せになってほしいから、私のこと忘れて」など言えるのでしょうか。