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太陽も沈みかけ、西の空は一面橙色に染まる夕方。
ピョールルルーピョールルルー
「はぁ〜、変な鳥もお山に帰るって言うのになんなのよ。こっちはまだまだ仕事だ。ばーかばーか!あほーどーりー!」
少女は取り込んだ洗濯物がたくさん詰まった大きな籠を抱えながら、意味不明な悪態をつく。なにせ今日は朝から目が回るほど急がしかった。
なんでも少女、ネティーの奉公先ピピト男爵家で明後日、大事なお客様をお招きしたパーティーを開くそうなのだ。そのために不備があってはいけないと、御領主様は部屋の大掃除だのなんだのを使用人に命令した。いきなりのことであったのでお屋敷の中は上へ下への大騒動。そもそもこんな辺境の土地のいち領主に、そんな立派な方が来る事があろうか、いやない。
「うちの御領主様は何をやらかしちゃったのよー……」
ネティーは不安になった。18歳の誕生日を迎えたこの春、お世話になっていた教会の伝で、領主のお屋敷に奉公するようになったのだ。なんとか自立できると思った矢先に失業など笑えない。
「何をぶつぶつ言っているんだい。仕事をするんだ、仕事を」
失業したらどうしようと言う妄想にふけっていたネティーは飛び上がった。
「うっ……、申し訳ございません、マルジ様」
マルジ様はこのお屋敷の使用人のボス……もとい、使用人長だ。今の御領主の乳母だった方だからかなりのお年をめしているが現役でとても恐ろしい。それに、とても大柄なので小柄なネティーより頭ひとつ分大きい。
「さっさとシーツを取り込んでベットメイクをするんだよ。その後は南廊下の掃除だ。終わるまで家に帰れないと思いな」
「えっ、でも……、今日中に南廊下全部を掃除するのは不可能です」
「うるさいよ。ごちゃごちゃ言ってる暇がありゃ出来るだろうよ。さっさとしな黒猫が!」
マルジはネティーを汚いものでも見るような目で見下ろしながら、ふんっと鼻息ひとつ残し、のしのしとお屋敷の方に去って行った。
ふぅ〜やっとおわったー!!
心の中で大きくガッツポーズをする。外を見るともう真っ暗で、時計を見ると2時を大きく回っていた。
「さー帰ろ、帰ろっと」
紺の一色の使用人服からこれまたシンプルな薄緑色の私服に着替え、丘の上に建つお屋敷を出た。家は丘の麓にある繁華街の裏路地にある。ぼろアパートだったが、住めば都。ネティーの城だ。春からだからもう1ヶ月になる。
悠々自適の一人暮らしだった。そう、三日前までは。
「ただいまー」
「おかえりー」
「はぁ……,あんたのせいでただいまって言う癖までついちゃったじゃないのよ」
「もぅ、そんな事言っちゃって実はうれしいくせにぃ〜、本当に素直じゃないんだから僕の黒猫ちゃんは」
男はへらへらとした喋り方でネティーの神経を逆撫でする。
「その黒猫って言い方やめてくれる?胸くそ悪いんだけど。差別用語ってやつなんでしょ、この世界では」
「まぁねぇ〜、黒はこの世で魔族の証だし?人間で黒目黒髪だと使い魔扱いだもんねぇ。皆に嫌われててもいいじゃないか、僕だけの黒猫ちゃん、ふふ」
ぞわわと背中を何かが走った。ダメだこいつ本当に気持ち悪い。こんなのがこの国一番の聖者なんて笑わせる。確かに顔は超がつくくらい整ってるし、髪は最上位色の銀色。瞳は輝く太陽みたいな金色だ。顔だけじゃない、地位も名誉も持っている人。
何故こんなこの国の重要人物が一般人のお宅にいるかというと、ネティーが一般人では無いからだ。
「ちょっと! へらへらしてないで方法は見つかったの?早く日本に返してよ!只でさえあんた半年も私の事放置してたでしょ。教会の人たちがいい人たちだったから良かったものの、そうじゃなかったらどうなってたと思うの?え?答えなさいよぉお」
「うぐっ……くるしっ……」
気づけば聖者ーーアシエルの襟を掴み揺すっていた。
「あ、ごめんなさい。つい興奮して。でも早く日本に返してよ。異世界トリップでこんな差別される身分なんてまっぴらよ」
「けほけほっ。まあまあいいじゃないか、黒を身にまとう人間が魔族の使いだなんて迷信みたいに思ってる人の方が多いって。現に隣の大陸には黒髪の民が居るらしいし今じゃ年寄りや頭の固い連中しか本気で信じちゃいないよ。」
ニコニコしながらネティーの鎖骨ほどまでの黒髪を玩ぶ。
「じゃあせめてそのサローニャ大陸に連れて行ってよ。そこで暮らすから」
アシエルの手から髪を取り返し一歩下がる。
「ダーメ」
「なんでよ。いいじゃない、あんたならそれくらい直ぐ出来るでしょ、ケチ」
「ペットがご主人様の目の届かないところで暮らすなんて聞いた事がないね。サローニャ大陸って別名暗黒大陸だよ。ここよりも危険だと思うなー僕ぅ」
「だから私はあんたのペットでも何でもないって言ってるでしょーが!それと私の名前は山根寧々だぼけなすー!」
こんな会話が三日前から何度も繰り返されている。アホが間違えてネティーを召還して返す方法が分からないとぬかした時には、目の前が真っ暗になった。しかもこんなふざけた性格で本気でどうにかしようと思ってくれているようにも見えない。逆にどこか面白がっている節がある。その証拠にトリップから半年も放置され、三日前ようやく現れたと思ったらこの有様だ。
「まあまあ、自分で付けた偽名に文句いわないのー。理不尽に怒ってる君も可愛いけどね」
ふふと笑いながらネティーの頬を白魚のような手で撫でる。
「でもぉ、そろそろ移動するのもありかなーって思うんだよね。ここは空気だって悪いし、飼育環境に向かないと思うんだ。だからお引っ越ししようね?可愛い小屋を用意してあげるからね」
顔は相変わらず微笑んで美しいが、頬を撫でていた手は唇、首へと移りネティーの肌を撫で回す。
「きっきき……気持ち悪いって言ってんでしょぉおお!変態!」
アシエルの手を叩き落とす。
「焦らすなぁ、じゃあ続きは次回ね。ではまた明日、僕の黒猫ちゃん」
叩かれた手をさすりながらアシエルはすぅーっと消えていった。
「何時見てもファンタジーな世界ね……」
はぁ〜、と深くため息をつき時計を見るともう4時だ。そろそろ寝ないと明日の仕事に遅刻してしまう。寝る支度をさっと整え、明日こそは事態が好転しますようにと願いながらネティーは眠りに落ちた。