告白……
誰かを想うということは、その人を手に入れることだけじゃない。時には、ただ手放すことなのだと気づいた瞬間。
薔薇に宿った水滴が滑り落ちて地面に落ちる。その瞬間、特別変わったことは何も起こらないが、同時に薔薇はその花びらを一枚失う。それは風の流れに乗り、流れるままに近くの道路の脇の水たまりへと落ちていく。水の静寂がそれによって乱れることはなかったが、その時、誰かの足音がその静寂を消し去ってしまう。
一人の少年が、自分の乗るべき列車にかなり遅れそうになっていた。道路の脇のベンチに座っていた彼女が、彼の焦る姿を見つめていた。少年は走って駅に到着し、改札の近くに立ち、深く息を吸いながら前に進む。前方には確かに列車が見えていたが、そこに辿り着いた瞬間、彼は気づいてしまった。これは自分が待っていた列車ではない、と。それはとっくに出て行ってしまっていた。
少年は深く息を吐き出し、目を閉じて頭を垂れる。
「行っちゃった……」
そう呟きながら彼が顔を上げると、目の前に停まっている列車も彼をハッとさせる。彼がほんの少し振り向いたその時、一人の少女が目に留まる。彼女もまた、あの走り去る列車に遅れてしまったようだった。そして彼女も、ただその場に立ち尽くしていた。少年が歩き出そうとした、その時……彼は足を止める。
彼はその少女を知っていた。
彼の瞳は潤み、身体から力が抜けていく。言葉では言い表せない、奇妙な感覚が彼を包み込んだ。
「ミズハ……」
ミズハはそこから去っていった。少年は確かに少し前に進み出したが、足を止める。あの感覚はもう冷めてしまっていた。ミズハが駅から去っていく。少年もまた、それをただの幻(気のせい)だと思い込んで歩き出そうとするが、心の中で、その現実はどうしても幻にはなってくれなかった。
外に出て彼は携帯をチェックしようとするが、携帯を自分が見ていない(持っていない)ことに気づく。
「今日も忘れた……」
そう呟いて、彼は歩き続ける。
「これが始まってから今日まで、どうして僕の記憶は一度も薄れなかったんだろう? みんなは僕のことを忘れてしまったかもしれないけれど、僕は違う……」
心の中で自分自身と葛藤しながら、彼はNTT(公衆電話ボックス)へと辿り着く。そして、そのドアを開けようとした瞬間、まるで彼の思考が停止したかのようになった。駅を出た時、駅からも電話をかけることはできたはずなのに、あの瞬間の光景が彼の心をあまりにも激しく締め付け、彼はそれを忘れてしまっていたのだ。しかし、再び深く息を吸い込み、ドアを開けて前に進もうとした時、彼の背後から一人の少女の声が聞こえた……。
「あの、すみません、もしお仕事が終わったのなら、中に入ってもいいですか……?」
少年が振り返ると、そこにはミズハが自分のバッグを持って立っていた。ミズハも少年を見て、すぐに気づいた。
「ミカヅキ……ずいぶん久しぶりだね。たぶん、学校を卒業して以来かな」
ミカヅキは少し躊躇する。彼の心は静寂を失い、頭は真っ白になって、何を話せばいいのか全く分からなくなっていた。
「あ、うん……僕も」
そう言って頭をかきながら、彼はドアの脇へと退く。ミズハは少し微笑む。
「相変わらずだね……」
そう言って彼女はボックスの中に入り、誰かに電話をかける。ミカヅキは彼女の手にはめられた結婚指輪を目にし、心がすっと切なくなる(弱り果てる)。突然、心の中に何とも言えない未完の虚しさがこみ上げ、彼は背を向けて自分の道を歩き出す。ミズハは彼の後ろ姿を見ていたが、電話で話している最中だったため、そこまで深く気を留めることはできなかった。
少年はただ、前へと歩き続ける。雨が降り始め、地面に落ちる水滴が、その輝きを物語っていた。
「結局、すべてを諦め(手放さ)なきゃいけないのかな……?」
7年前…… (2013)
すでに午前7時10分を過ぎているというのに、目覚まし時計が鳴り響いていた。ミカヅキはアラームを止め、時計を見るなり、跳び起きるようにしてベッドから這い出し、バスルームへと駆け込んだ。
歯を磨きながらも、一分一秒でも早く準備を整えようと必死になっていた。制服を着ながら階段を駆け下りる。あと一段で下りきるというその時、足が滑ってしまった。
その頃、キッチンではトマトの輪切りがトントンと切られていた。料理をしていた母親が、音に気づいてミカヅキに声をかける。
「ミカヅキ……!今何時だか分かってるの? それに、今の何の音?」
ミカヅキは立ち上がり、「なんでもないよ、母さん」と言いながらキッチンへと向かう。母親がちょうどお皿を置いたその瞬間、まるで地震でも起きたかのような衝撃が走り、彼女は驚きで身の毛がよだった。ミカヅキが猛スピードで突っ込んできて、ボトルを掴み、大急ぎで朝食を口に放り込んでいたのだ。
その時、ミカヅキは背後からの視線に気づいた。母親がじっと彼を見つめていたのだ。その鋭い眼光を帯びた笑顔に圧倒されながら、ミカヅキはなんとか一口飲み込んだ。
気づけば、彼はすでに自転車に乗って家を飛び出していた。爽やかな風に服をなびかせ、満面の笑みを浮かべながら突き進む。
ある静かな場所で自転車を止めると、まずあたりを見回し、深くため息をついた。その時、自分の手首に目が留まる。時計を忘れてきてしまったのだ。
「嘘だろ……どうしよう? 時間が分からないのに、ここでぼーっと待ってるわけにはいかないよな」
しばらく悩み込んだ末、彼はついに諦めて出発することにした。
「今日は来ないのかな? それとも、僕が遅刻したのかな……?」
そうして落ち込みながらペダルを漕いでいると、突然、後ろからクラクションを鳴らしながら、一台のバンが猛スピードで彼の横を通り過ぎていった。通り過ぎざま、彼は車内にいるミズハの姿を捉えた。
その瞬間、まるで時間がゆっくり流れるかのように感じられた。彼女の笑顔を見たミカヅキの頬が、ぽっと赤く染まる。しかし、バンはあっという間に走り去ってしまい、我に返ったミカヅキは電柱に激突してしまった。
地面にひっくり返りながらも、彼はただ嬉しそうに微笑みながら走り去るバンを見つめていた。そして、自転車を起こすと、再び学校へと向かって走り出した。
2015年……ある日のこと
ミカヅキはまたあの道に立っていた。しかし、その日、彼女は来なかった……。
長い間待ち続けても、あのバンが通り過ぎることはなかった。彼はその場所を離れようと振り返り、かすかな望みを抱いてもう一度後ろを振り向いたが、何も起こらなかった。彼は家に戻ると、部屋に閉じこもり、窓のそばにぽつんと座り込んだ。
ただ風が吹き抜け、雲が流れていく。気づけば、すっかり日は暮れていた。
「ミカヅキ、ご飯ができたわよ……」
母親の声に一瞬視線を動かしたものの、どうしても立ち上がることができない。しばらくして彼が下におりていくと、母親は今まで彼を待って、何も食べずに座っていた。彼女はミカヅキの姿を見ると、優しく微笑みながら食事を勧めた。
その瞬間、ミカヅキの心の中で何かがぷつりと切れた。しばらくの間、彼はただ母親を見つめていたが、何の音も耳に届かなかった。そして最後に、うつむいたまま食卓についた。
母親は一瞬、何かがおかしいと察したようだったが、それでもまた微笑みを浮かべた。
食事を終えてベッドに入っても、どうしても眠れなかった。心に広がる空虚感と、ひどい後悔。彼はただ天井を見つめていたが、やがて起き上がると、床に座り込んで窓の外を眺めた。
その時、ハッとした。いつの間にか、彼の目から涙が溢れ落ちていたのだ。顔に手を当てると、その涙が月の光に照らされてきらりと輝いた。彼はただ、とりとめもない思考に耽りながら、いつの間にか眠りについていた。
朝、目覚まし時計が鳴り響いたが、彼はそれより前にすでに目を覚ましていた。体を起こしてバスルームへ向かい、歯ブラシを手に取ると、そのまま歯を磨き始めた。だが、どこか違和感を覚える。鏡を見ると、歯磨き粉をつけ忘れていた。
制服に着替え、下におりていくと、母親が朝食をテーブルに並べているところだった。彼女は、今日のミカヅキにいつもの慌ただしさがないことに気づく。
「学校の時間が変わったの?」
母親の問いかけに、彼はただ静かに首を横に振り、無理に微笑みながら朝食の席についた。母親の心に不安がよぎる。彼は急ぐことなく、落ち着いて学校へと出発した。母親はただ、引きつりそうな笑顔を浮かべようとしていたし、ミカヅキもまた同じだった。
道を歩きながら(自転車を押しつつ)、彼は長い間、あの日の記憶をずっと思い返していた。すると突然、彼の自転車が止まった。
あの場所、あの時間。
彼は少し呆然とした。時間は正確だったが、運命が味方してくれなかったのだ。彼は前を向き、再び学校へと向かって進み出した。
キーンコーンカーンコーンと学校のチャイムが鳴り、生徒たちが次々と校門をくぐっていく。彼もやってきて自転車を停めると、そこへ友人が声をかけてきた。二人は並んで教室へと向かう。
廊下を少し進んだところで、一人のクラスメイトが他クラスの女子生徒に告白している光景が目に飛び込んできた。女の子も、その告白を嬉しそうに受け入れていた。
「あんな自信、一体どこから湧いてくるんだろうな……」
ミカヅキは友人に尋ねたが、友人からの返事はなかった。その時、彼はクラスメイトがその女子生徒に高級な腕時計をプレゼントしているのを目撃する……。
「他はともかく……あんなに高いものをプレゼントしておいて、『全然高くないよ』なんてよく言えるよな……?」
ミカヅキが心の中でそんな風に独り言をつぶやいていると、二度目のチャイムが鳴り、みんなが一斉に教室へと入っていった。教室に入り、ミカヅキが自分の席に向かうと、そこには一人の女子生徒が座っていた。
「あの、すみません……」
それはミズハだった……。ミカヅキは思わず息をのんだ。まるで失くしていた宝物を見つけたかのような感覚。安堵の波が押し寄せ、心地よい冷たさが体を駆け巡る。ミズハはミカヅキに席を譲ろうとする(詰める)。しかし、ミカヅキは驚きのあまり、その場に釘付けになって動くことすらできなかった。その時、後ろから「ちょっと通して」と声をかけられる。よく見ると、ミズハが席を空けたのは彼のためではなく、彼女の友達のためだったのだ。
すかさずミカヅキの友人が彼に合図を送り、ミカヅキは我に返って友人の隣の席へと移動した。
彼の頭の中は、今でもそのことでいっぱいだった。一体、いつになったらその時が来るのだろうか。そんなことを考えているうちに、一日が終わりを告げた。
放課後。ミカヅキは彼女の姿を探しながら校門を出た。彼女の後を追うように歩いたが、気づいた時にはすでに彼女の姿はなかった。友人が「じゃあな」と手を振って去っていく。ミカヅキはただその後ろ姿を見送り、反対側を振り向いたが、やはり彼女はもういなかった。彼は深くため息をつき、家路につき始めた。
少し歩いたところで、彼はハッとした。彼女がカフェの窓際に座っているのが見えたのだ。彼女の眩しい笑顔を見た瞬間、ミカヅキはその場に凍りついた。胸の奥に心地よい涼しさが広がる。自分の心臓の鼓動が、はっきりと、ドクドクと聞こえるようだった。その時、一台のバスがやってきて信号で止まり、彼女の姿を遮った。ミカヅキは小さく頷くと、そのまま家へと歩き出した。
翌日、学校のチャイムが鳴る。朝、生徒たちがそれぞれの教室へと向かう中、今日のミカヅキは一人だった。教室に到着すると、彼の友人は別の新しい生徒と一緒に座っていた。彼は軽くうつむきながら、自分の席についた。
キィ、と黒板にチョークが走る音がして、パキッと折れた破片が床に落ちる。先生は手を止め、書くのをやめた。その頃、ミカヅキは席に座ったまま、退屈そうにペンを指で弾いていた(ペン回しをしていた)。
「皆さん、これが今回の『後生動物』のトピックです。急いでノートを取りなさい……」
その声を耳にした瞬間、彼の手からペンが滑り落ち、床の向こうへと転がっていった。彼はまず机の上を見つめ、それから床を見下ろすと、少し離れた場所にペンが落ちているのを見つけた。彼がそれを拾おうと手を伸ばしたその時、同時に誰かがそのペンを拾おうと屈みこんだ。
ミカヅキが顔を上げると、一瞬で息が止まった。
ミズハが、すぐ目の前で彼を見つめていたのだ。彼女は彼のすぐ隣の席に座っていた。ミカヅキの顔は一気に真っ赤に染まり、体は完全にフリーズしてしまった。すると、ミズハはそっと手を伸ばし、拾い上げたペンをミカヅキの方へと差し出した。彼女の手が動いた瞬間、まるで心地よいそよ風がふわりと吹き抜けたかのように感じられた。
彼は震える手を伸ばし、そのペンをしっかりと握りしめた。ただ、握りしめることしかできなかった。
「あの、すみません……」
それはミズハだった……。ミカヅキは思わず息をのんだ。まるで失くしていた宝物を見つけたかのような感覚。それはミズハだった……。ミカヅキは思わず息をのんだ。まるで失くしていた宝物を見つけたかのような感覚。安堵の波が押し寄せ、心地よい冷たさが体を駆け巡る。ミズハはミカヅキに席を譲ろうとする(詰める)。しかし、ミカヅキは驚きのあまり、その場に釘付けになって動くことすらできなかった。その時、後ろから「ちょっと通して」と声をかけられる。よく見ると、ミズハが席を空けたのは彼のためではなく、彼女の友達のためだったのだ。
すかさずミカヅキの友人が彼に合図を送り、ミカヅキは我に返って友人の隣の席へと移動した。
彼の頭の中は、今でもそのことでいっぱいだった。一体、いつになったらその時が来るのだろうか。そんなことを考えているうちに、一日が終わりを告げた。
放課後。ミカヅキは彼女の姿を探しながら校門を出た。彼女の後を追うように歩いたが、気づいた時にはすでに彼女の姿はなかった。友人が「じゃあな」と手を振って去っていく。ミカヅキはただその後ろ姿を見送り、反対側を振り向いたが、やはり彼女はもういなかった。彼は深くため息をつき、家路につき始めた。
少し歩いたところで、彼はハッとした。彼女がカフェの窓際に座っているのが見えたのだ。彼女の眩しい笑顔を見た瞬間、ミカヅキはその場に凍りついた。胸の奥に心地よい涼しさが広がる。自分の心臓の鼓動が、はっきりと、ドクドクと聞こえるようだった。その時、一台のバスがやってきて信号で止まり、彼女の姿を遮った。ミカヅキは小さく頷くと、そのまま家へと歩き出した。
翌日、学校のチャイムが鳴る。朝、生徒たちがそれぞれの教室へと向かう中、今日のミカヅキは一人だった。教室に到着すると、彼の友人は別の新しい生徒と一緒に座っていた。彼は軽くうつむきながら、自分の席についた。
キィ、と黒板にチョークが走る音がして、パキッと折れた破片が床に落ちる。先生は手を止め、書くのをやめた。その頃、ミカヅキは席に座ったまま、退屈そうにペンを指で弾いていた(ペン回しをしていた)。
「皆さん、これが今回の『後生動物』のトピックです。急いでノートを取りなさい……」
その声を耳にした瞬間、彼の手からペンが滑り落ち、床の向こうへと転がっていった。彼はまず机の上を見つめ、それから床を見下ろすと、少し離れた場所にペンが落ちているのを見つけた。彼がそれを拾おうと手を伸ばしたその時、同時に誰かがそのペンを拾おうと屈みこんだ。
ミカヅキが顔を上げると、一瞬で息が止まった。
ミズハが、すぐ目の前で彼を見つめていたのだ。彼女は彼のすぐ隣の席に座っていた。ミカヅキの顔は一気に真っ赤に染まり、体は完全にフリーズしてしまった。すると、ミズハはそっと手を伸ばし、拾い上げたペンをミカヅキの方へと差し出した。彼女の手が動いた瞬間、まるで心地よいそよ風がふわりと吹き抜けたかのように感じられた。
彼は震える手を伸ばし、そのペンをしっかりと握りしめた。ただ、握りしめることしかできなかった。
「あの、すみません……」
ミズハがミカヅキに声をかける。彼はペンを受け取り、ミズハはすぐにノートを取ることに集中し始めた。彼女の姿を見つめながら、彼もまた慌ててノートを取り始めるのだった。
すっかり放課後になり、みんなが教室から出ていく。ミズハの友達が彼女に「一緒に行こう」と声をかけた。ミズハはバッグを片付けながらこう答える。
「先生にちょっと用事があるから、後で行くね。先におうち帰ってて……」
彼女はそう言って微笑む。友達は先に教室を後にした。ミカヅキも教室を出ようとしたその時、何かが落ちるような音が聞こえた。しかし、後ろを振り返っても何も見当たらず、彼はそのまま歩き去っていった。
(誰もいなくなった教室で、ミズハが焦り出す)
「あれっ!?……ペンはどこ? 確かにバッグに入れたはずなのに……」
家に帰るなり、ミカヅキはバッグの中を探したが、ペンは見つからなかった。バッグの中身をすべてひっくり返して確認してみたその時、彼はハッと思い出した。教室を出る間際、何かが落ちるような音が聞こえたことを。彼はすぐに家を飛び出した。母親が後ろから声をかけたが、彼はすでに走り去った後だった。
学校のフェンスを飛び越え、彼は自分の教室へと向かった。自分の席の周りをくまなく探してみたが、やはりペンは見つからない。
あたりはすっかり暗くなっていた。どれだけ長い時間探してもペンは見つからず、彼は力尽きて教室の入り口の床にぽつんと座り込んだ。
長い時間の後、彼はようやく家へと戻った。
「どこへ行ってたの……? どれだけ心配したと思ってるの……」
彼は中に入ると、自分の部屋へ行って服を着替えた。部屋の床には、まだ中身が散らばったままのバッグが転がっている。彼は夕食を食べるために下へおりた。母親はすでに料理をすべて準備して待っていた。彼は食卓についた。
「ところで、今日はどんな一日だった?」
「……すごく、良かったよ」
その言葉を聞いた母親はとても嬉しそうな表情を浮かべ、彼のお皿を目の前に置いた。
「よかった……。あなたからそんな言葉を聞くの、本当に久しぶりね。ご褒美に、あなたの好物よ」
ミカヅキは少し驚きつつも、嬉しそうに料理を一口食べた。その味は、彼の心に染み渡るほど美味しかった。
しばらくして、母親はミカヅキを見つめながら静かに言った。
「今日は嬉しそうね。でも……なんだか、どこか悲しそうにも見えるわ」
ミカヅキの箸がピタリと止まった。彼は茶碗を置き、静かに答えた。
「そんなことないよ、母さん……」
「……もしかして、彼女でもできた?」
ミカヅキは心臓が跳ね上がるほどの衝撃を受け、一瞬で顔が青ざめた。
「そ、そんなんじゃないって、母さん!」
彼は必死に手を振りながら、誤魔化そうと言い訳をした。
「そう……。まあ、彼女がいるっていうのと、誰かを好きになるっていうのは、全然違うことだからね」
その言葉を聞いた瞬間、ミカヅキの心の中で荒れ狂っていた海が、嘘のように静まり返った。視界が急にクリアになったような感覚。今までの自分は、まるで深く眠ったまま動いていたかのようだった。母親のその一言が、彼の心の中の嵐を優しく鎮めてくれたのだ。
その夜、彼は一晩中考え込んでいた。だが、一体何を考えているのか、自分でもよく分からなかった。
ふと横を向いて時計に目をやる。パチッと一度瞬きをした瞬間、すでに朝の目覚まし時計が鳴り響いていた。もう朝になっていたのだ。彼はいつも通り、完璧なタイミングで目を覚ました。急いで準備を整え、制服を着て下へとおりていく。
キッチンにいた母親は、彼の姿を見るなり、信じられないものを見るかのようにじっと見つめた。ミカヅキはそんな視線に違和感を覚える。
「何?……なんか変かな?」
母親はエプロンで手を拭くと、ミカヅキの頬にそっと手を当てた。まるで熱でも測るかのように。
「どうしたの、母さん?」
「ううん……体調でも悪いのかなって、確かめてただけよ」
ミカヅキは一歩後ろに下がり、困惑しながら言った。
「それ、一体どういう意味……!?」
「だって、あなた……。日曜日なのに、一体どこの学校へ行くつもり?」
ミカヅキがカレンダーに目をやると、本当に今日は日曜日だった。母親が楽しそうに笑い出す。
「ちょっと、何がそんなに無邪気に笑えるのさ?」
そう言いながら母親の方を見るが、彼の心にはどこか安堵感が広がり、気づけば彼も一緒になって笑っていた。
しばらくして、彼は自転車に乗って散歩に出かけた。今日の彼にとって、この一日はどこか特別なものに感じられた。走っていると、目の前に蝶の群れが現れ、彼はその真ん中で自転車を止めた。一斉に飛び立ち、四方へと広がっていく蝶たち。雲が遥か遠くに浮かぶ、どこまでも澄み切った青空。彼もまた、風を感じるように両手を広げた。
さらに進むと、ピエロが店の前でまるでお客さんを招き入れているかのような光景が目に入った。その先には新しくオープンしたばかりの店があり、華やかなお祝いの花束がたくさん並んでいた。もう少し走ると、彼は湖のほとりにたどり着いた。そこからは、雄大な富士山の素晴らしい景色が一望できた。彼は自転車を止め、地面に腰を下ろした。
バッグからノートを取り出そうとして、またしても母親が毎晩読んでいる本を間違えて持ってきてしまったことに気づく。
彼は深くため息をつきながら、その本をそっと脇に置いた。長い時間そこで静かに過ごした後、彼は再び家路へと向かった。途中で一軒の店に立ち寄り、自転車を置いて中に入り、冷たいドリンクを一本買った。
「ご不便をおかけして申し訳ありません。自動販売機はすぐに修理いたしますので……」
店員の言葉に、ミカヅキはただ愛想笑いを浮かべた。そして振り返ろうとしたその瞬間、店内でアルバイトをしているミズハの姿が目に飛び込んできた。彼女は商品をきれいに棚に並べているところだった。ミズハも彼に気づき、こちらに向かって歩いてくる。ミカヅキの息がぴたりと止まり、顔が一気に真っ赤に染まった。
「あの、ちょっといい……?」
その声がミカヅキの耳に届いた瞬間、不思議と彼の心は静まり返った。
「これ、君のペン。学校に忘れていっちゃったでしょ? 私の机の下に落ちてたの。月曜日に返そうと思ってたんだけど、今日会えてよかった……」
ミカヅキはペンを受け取った。ミズハはそんな彼を見つめながら、まだ優しく微笑んでいた。ミカヅキの中で、まるで時間が止まってしまったかのようだった。彼はペンを持った手をそっと下ろし、ポケットに突っ込むと、ミズハがしていた仕事(棚)に視線を落とした。
「ところで……君の名前は……?」
ミカヅキの心臓が激しく跳ね上がった。お腹の奥がくすぐったくなるような感覚。全身の筋肉が緊張でこわばる。
ミズハがもう一度、静かに問いかけた。
「君の名前……なんていうの?」
ミカヅキの心臓が激しく跳ね上がった。お腹の奥がくすぐったくなるような感覚。全身の筋肉が緊張でこわばる。
ミズハがもう一度、静かに問いかけた。
「君の名前……なんていうの?」
「……ミカヅキ」
ミカヅキは、どこか震える(静かな)声で答えた。彼の言葉を聞くと、ミズハはそっと手を差し出した。ミカヅキは恥ずかしさのあまり、すでに顔を真っ赤に染めていたが、その手を握りながらミズハに名前を尋ねた。
「あの……君の名前は…………」
(実話に基づく、誰もが直面する物語)
告白……
その日、ミカヅキは帰り道を自転車で走りながら、そっと微笑んでいた。
しかし、店内でミズハが言ったあの言葉が、今も頭から離れなかった。
「私、明日ここで(この街から)いなくなっちゃうんだ……。いい仕事が見つかってね」
「でも……でも、君の学校(勉強)は……?」
ミズハは穏やかに、そしてどこか寂しげに答えた。
「今まで、誰も私のこと(生き方)をそんな風に気にかけてくれた人なんていなかった……。だから、ありがとう。でもね、私は自分のために、もう勉強はやりきったから」
自転車のペダルを漕ぎながら、ミカヅキの口元は笑っていたが、それでも突然、目から涙が溢れそうになった。
あの別れの間際、ミズハが最後に残した言葉。
「次にまた会える時まで、きっと時間は同じままではいてくれないよね。でも、君は……
『元気でね(自分のことを大切にしてね)』……」
ミカヅキはその言葉を思い出し、一瞬だけ笑うのをやめた。しかし、次の瞬間にはまた、愛おしそうに微笑んだ。
「ごめんね……僕は君の人生を、何も分かっていなかったんだ……。誰かを見つめるのは簡単だ。誰かを好きになるのも簡単だ。だけど……その人の生きる世界を理解することは、きっと不可能なんだ」
夜の闇が静かに広がっていく中、彼は自転車を全力で立ち漕ぎした。
ずいぶんと遠くまで走った後、彼はあの場所で足を止めた。かつて毎日、あのバンが通り過ぎるのを待ち続けていた、あの思い出の場所に。彼は夜空に向かって、深く、長い息を吐き出した。
「君も……元気でね」




