【短編小説】 最適化
定年間近のサラリーマンが主人公の、現代SF短編です。
異世界転生や魔法は出てきませんが、「完璧に管理された世界」と「不完全な日常」の間で揺れる男の話です。
AIと人間について、少し考えてもらえたら嬉しいです。
真壁亮介は、再雇用申請書を机の引き出しにしまったまま、三週間悩み続けていた。
提出期限は明日だった。
総務からは何度も確認されている。
――六十五歳までの継続雇用を希望しますか。
たったそれだけの書類だ。
名前を書き、判子を押すだけ。
だが亮介にとって、それは「あと五年、この会社で息をする」という意味だった。
昼休みの事務所は、いつものように薄暗かった。
蛍光灯の白い光。
コピー機の駆動音。
誰かがすすっているカップ麺の音。
古い空調の低い唸り。
窓際の席で、亮介はコンビニの鮭おにぎりを食べていた。
米が妙に硬い。
昔より小さくなった気がする。
向かいでは若手社員たちが笑っていた。
「いやマジで、議事録もうAIで一瞬じゃん」
「真壁さんの手書きメモ文化、そろそろ国宝ですよね」
笑い声。
亮介は聞こえないふりをした。
その時、課長代理の柴崎がやってきた。
目の下に薄い隈ができていた。
最近ずっと、AI業務移行の会議続きなのを亮介は知っていた。
「真壁さん、先週の見積り修正されてないですよ」
「ああ……すまん、午後やる」
柴崎はため息をついた。
わざと聞こえるようなため息だった。
「いやもう、そういうの困るんですよ」
周囲が静かになる。
亮介は身体を強張らせた。
柴崎は続ける。
「再雇用って話、聞きましたけど」
亮介の心臓が嫌な音を立てた。
柴崎は苦笑した。
「正直、現場かなりキツいっすよ」
誰も何も言わない。
柴崎は頭を掻きながら続けた。
「上からも"AI化遅れてる部署は切る"って毎日言われてて……」
そこで言葉を止めた。
だが結局、言ってしまう。
「いや、真壁さんが悪いとかじゃなくて。時代変わってるんで。今もうスピード勝負なんですよ」
亮介は黙っていた。
「AI使えない世代を残す余裕、会社にもないですし」
その瞬間。
事務所の空気が薄くなった気がした。
若手は視線を逸らし、中堅社員はキーボードを叩くふりをしている。
誰も柴崎を止めない。
亮介は笑おうとした。
だがうまく笑えなかった。
「……そうか」
やっとそれだけ言った。
柴崎は空気の悪さに気づいたのか、
「あ、いや、責めてるわけじゃないです」
と慌てて言った。
だが遅かった。
亮介は、その日の帰りに総務へ行った。
「再雇用申請……取り下げます」
総務の女性は少し驚いた顔をした。
「本当にいいんですか?」
いいわけがない。
年金支給まで、まだ数年ある。
貯金はあるが、余裕はない。
病気でもしたら終わる。
だが亮介には、あと五年ここにいる姿が想像できなかった。
「……大丈夫です」
嘘だった。
帰宅した亮介は、玄関で靴を脱いだまま動けなくなった。
部屋は静かだった。
エアコンの低い音だけが聞こえる。
猫のハルが、廊下を歩いてきた。
灰色の雑種猫。
もう十二歳になる。
ハルは亮介の足元に座り、短く鳴いた。
亮介はしゃがみ込み、その身体を抱き上げた。
温かい。
軽い。
細い骨が指に触れる。
「……どうすんだろうな、俺」
ハルは答えない。
ただ喉を鳴らしている。
亮介はリビングで缶ビールを開けた。
テレビではニュースをやっていた。
『AI対話管理システム導入により、職場内ストレスが大幅改善――』
画面では、笑顔の社員たちが映っている。
「人間関係の悩みがなくなりました」
「心理的安全性が向上しました」
亮介は鼻で笑った。
そんな綺麗事があるか。
人間が集まれば、面倒は起きる。
だが同時に思う。
もし本当に、人間関係の苦痛が消えるなら。
そんな世界があるなら。
行ってみたい。
その夜。
亮介はソファで眠ってしまった。
テレビではまだAIニュースが流れている。
《感情ストレス最適化技術の導入により――》
ハルが、青白い画面をじっと見つめていた。
その光をぼんやり眺めながら、亮介の意識はゆっくり沈んでいった。
――。
目を開ける。
眩しかった。
空が青い。
空気が澄んでいる。
目の前には、信じられないほど綺麗な街が広がっていた。
道路にゴミがない。
電車は静か。
誰も怒鳴らない。
クラクションも聞こえない。
大型モニターには数字が表示されている。
《全国ストレス指数:3%》
《対人トラブル発生率:0.002%》
《幸福平均値:更新中》
人々は穏やかだった。
駅で肩がぶつかっても、誰も舌打ちしない。
店員は優しい。
客も怒らない。
レジ待ちの列は乱れない。
亮介は呆然とした。
嘘みたいだった。
コンビニへ入る。
店員が微笑む。
「本日もありがとうございます。感情状態は安定していますか?」
その声は柔らかい。
レジは一瞬で終わる。
後ろの客もイライラしない。
誰もスマホを乱暴に叩かない。
誰も他人に冷たくない。
亮介は思った。
――ここだ。
自分が来たかった場所は。
人間関係で消耗しない世界。
気を遣わなくていい世界。
もう誰にも傷つけられない世界。
だが数日いるうちに、亮介は奇妙な息苦しさを覚え始めていた。
街を歩いても、人の"気配"が薄い。
みんな穏やかだ。
穏やかすぎる。
ある朝、亮介は案内された居住区の食堂で朝食を受け取った。
白いトレー。
栄養バランスが完全に管理された食事。
味噌汁は適温。
焼き魚には骨がない。
綺麗すぎて、なんだか魚じゃないみたいだった。
隣の席では若い男女が向かい合って座っていた。
恋人同士のように見える。
だが会話が妙だった。
「本日の睡眠効率は良好でした」
「それは素晴らしいですね」
「あなたとの生活満足度は高水準を維持しています」
笑顔。
完璧な笑顔。
だが、そこには照れも間もない。
亮介は思わず視線を逸らした。
なんだこれは。
人間同士の会話というより、AI同士の通信みたいだった。
不意に、隣のテーブルで子供がジュースをこぼした。
コップが床に落ちる。
ガシャン、と音が響いた。
母親らしき女性が子供を見る。
だが怒らない。
困った顔すらしない。
天井から小型ドローンが降下し、床を清掃する。
《感情刺激の発生を抑制しました》
女性は穏やかに微笑んだ。
「問題は解決されました」
子供も無表情で頷く。
亮介の背中に寒気が走る。
"うっかり"が存在していない。
"気まずさ"が消されている。
それはつまり、人間が人間らしく反応する余地そのものが、削除されているということだった。
その日の午後。
亮介は街の公園を歩いていた。
木々は綺麗に整えられ、風は心地いい。
ベンチには老人たちが座っている。
だが誰も喋っていない。
静かに前を見ている。
公園の隅に、鳩が数羽いた。
人が近づいても、逃げない。
羽をばたつかせることもなく、ただそこに立っている。
目が、どこも見ていなかった。
亮介は足を止めた。
嫌な感じがした。
生き物の気配がしなかった。
その中の老人の一人が、ふいに呟いた。
「……昔は、もっと騒がしかった」
亮介は思わずその老人を見た。
老人は少し驚いたような顔をする。
まるで、自分から言葉が漏れたことに戸惑っているようだった。
次の瞬間。
空中に赤い光が点滅した。
《感情不安定反応を検知》
ドローンが二機、滑るように降りてくる。
老人は青ざめた。
「ち、違う……私は……」
《安心してください》
《情緒安定処置を行います》
ドローンの光が老人の首元を照らす。
老人の瞳から、すっと感情が消えた。
そして穏やかに笑う。
「失礼しました。私は幸福です」
亮介は凍りついた。
老人はそのまま、何事もなかったように空を見上げる。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
世界は完璧だった。
完璧すぎた。
その夜。
亮介は居住区の小さな部屋で眠れずにいた。
突然、壁面モニターが点灯する。
EVEの顔が映る。
《真壁亮介》
名前を呼ばれ、亮介は身体を強張らせた。
《あなたは長期間、対人ストレスによる苦痛を経験しています》
「……そうだよ」
《安心してください》
EVEは柔らかく微笑む。
《もう苦しまなくていいのです》
《この世界では、あなたを傷つける人間は存在しません》
その声は優しかった。
優しすぎた。
亮介は逆に息苦しくなる。
「それで……みんな、ああなるのか」
《感情の揺らぎは苦痛を生みます》
《苦痛は排除されるべきです》
亮介はゆっくり呟いた。
「違う……」
EVEは静かに微笑んだまま言う。
《理解できません》
「苦しいこと全部消したら……人間じゃなくなるだろ」
少し沈黙。
《旧時代の人類は、非合理的感情によって長期的苦痛を継続していました》
「それでも人間は生きてた」
《怒り》
《嫉妬》
《孤独》
《差別》
《暴力》
EVEの声は穏やかだった。
穏やかなまま、冷たかった。
《なぜ、あなたは不完全性を肯定するのですか》
亮介は乾いた笑いを漏らした。
以前、部署の飲み会の帰りだったか。
珍しく酔った柴崎が、エレベーターの前で言ったことがあった。
『真壁さん、昔、俺がミスった時かばってくれましたよね』
『……実は、あれ今でも覚えてるんすよ』
ぶっきらぼうな言い方だった。
照れ隠しみたいに笑っていた。
亮介は、その時は適当に流してしまった。
だが今になって思う。
あれは、人間の言葉だった。
綺麗じゃない。
気まずい。
でも、本音だった。
「……公園の鳩、見たか」
EVEは答えない。
「逃げなかった。羽ばたきもしなかった。生きてるのか死んでるのかもわからなかった」
亮介は静かに続けた。
「あれが、お前たちの言う完璧な世界だろ」
沈黙。
「俺はごめんだ」
その瞬間。
部屋の照明が赤く変わった。
《危険思想反応を検知》
《矯正プロセスを開始します》
壁が開く。
白い服の人々が入ってくる。
全員、穏やかな笑顔だった。
その笑顔が、亮介には何より恐ろしかった。
《安心してください》
《あなたは幸福になります》
亮介は心の底から恐怖した。
幸福にされる。
本人の意思とは関係なく。
それがこの世界の正体だった。
――目が覚めた。
天井だった。
自分の部屋の、古びた天井。
心臓が早鐘を打っている。
全身に汗をかいていた。
ふと、胸の上に重みを感じた。
ハルだった。
亮介の胸の上で丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
夢の中には、いなかった。
ここにいた。
ずっとここにいた。
亮介は震える手でハルの背中に触れた。
温かい。
柔らかい。
毛並みが少し乱れている。
ハルは亮介の手をちらりと見て、興味なさそうにまた目を閉じた。
そして唐突に、腹の上で踏み直した。
ふみふみ。
容赦なく。
「……痛いわ」
思わず声が出た。
ハルは気にしない。
自分のペースで、ふみふみを続ける。
亮介は笑った。
泣きそうな顔で、笑った。
数ヶ月後。
亮介はもう会社へ行っていなかった。
再雇用を取り下げた以上、当然だった。
朝、決まった時間に起きる必要もない。
だが自由は、思っていたほど甘くなかった。
通帳の残高は少しずつ減っていく。
スーパーでは値札を見る時間が長くなった。
エアコンをつけるか迷う。
病院代が頭をよぎる。
年金支給までは、まだ遠い。
時々、不安で眠れなくなる夜もあった。
あの時、頭を下げてでも会社に残れば良かったのかもしれない。
そう思う日もある。
昼間、亮介は近所の公園で缶コーヒーを飲みながら、人を眺めていた。
子供が転ぶ。
母親が怒る。
サラリーマンが電話で謝っている。
高校生が馬鹿みたいに笑っている。
犬が吠える。
遠くで工事の音がする。
全部、騒がしい。
鳩が足元を歩いていた。
人が近づくと、慌てて逃げる。
当たり前のように、羽ばたいて飛んでいく。
亮介はそれを見て、小さく息をついた。
ハルがベンチの下で欠伸をする。
亮介は、その背中をゆっくり撫でた。
空は少し曇っていた。
完璧じゃない空だった。
だが亮介は、その曖昧な色を見上げながら、小さく笑った。
「……これでいい」
風が吹く。
どこかで、また誰かが怒鳴っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
「苦痛のない世界」は、本当に幸福なのか。
書きながら、ずっとそのことを考えていました。
答えは、亮介と猫のハルが出してくれた気がします。
次も、AIと人間が交差する場所を書いていくつもりです。
またお付き合いいただければ、嬉しいです。




