第7話 心ほど弱いものはないんだよ
小さな熱帯魚が泳ぐ水槽。通路の両サイドに並ぶ一つ一つを観察しながら通り抜け、俺たちはオットセイに会いに行く。岩場でぐでっと休むオットセイと、それにはしゃぎながら手を振る巫結に和むと次のエリアへ進んだ。
三百六十度囲まれた水槽でサメやエイを間近で眺めていると、巫結の顔が呆けていることに気がつく。写真で見ていたよりも遥かに大きな存在感と圧力に圧倒されていたようだ。しばらくして我に返った巫結は、巨大なサメを指差しながら無邪気な笑顔を見せた。
後ろ髪を金剛力で引かれながらもその場を後にすると、今度は前髪がペンギンに引かれ始める。陸で休んだり自由気ままに池を泳いだりと個性豊かなペンギンたちを見ながら二人でペンギンの名前当てをする。掲示してある写真と名前を目の前のペンギンと見比べ、どうにか結論を出した。
今度のエリアにはウミガメがいる。他は子供の頃に見たことがあったが、ウミガメに関しては俺も実際に見るのは初めてかもしれない。いつの間にか巫結と一緒になって夢中になっていたことに気がつく。気恥ずかさに顔が熱くなるが、屈託なく笑う巫結を見ているとそんなことどうでも良くなった。
そしてとうとう、最後のエリアに到達する。そこではクラゲが優雅に縦長の水槽を漂っていた。
落ち着いた場所が多い水族館の中でも特に静かなこのエリアには、数十の水槽が設置されている。
「…………綺麗、だね」
隣を歩く巫結が小さく呟いた。それに頷きながら、俺はエリア入り口から最も近い水槽に近づく。そこには何匹かのミズクラゲがふわふわ漂っていた。透明な体をゆっくり開いたり閉じたりしながら水に流されている。
これは確かに、癒される。ずっと眺めていたくなるような愛くるしさだ。
「かわいいな……」
思わず口からそんな言葉を漏らしながらクラゲをじっと眺めていると、何やら隣から視線を感じた。
なぜか隣で巫結がムッとした気配を醸し出している。クラゲを見ていたのと同じ瞳のはずなのに、その目線はクラゲを見る優しげなものとはまるで違うものになっていた。
「私よりも、かわいい?」
……一体この子は何と張り合っているのか。
「ミズクラゲのかわいさが欲しいのか?」
「あって損はないよね」
「強欲だな。あるだろ、損。自分で動けなくなるぞ」
せっかく心を持って生まれたんだから気ままに好きな場所へ行って欲しい。だから私も本体は動いてるわけじゃないしなぁ、とかいう自虐もやめてほしい。
ちなみにクラゲは傘を動かして多少の推力は得られるものの、基本的には水に流されるまま生きているらしい。だからこそ、水の流れがない場合はそこに沈んでしまうこともあるのだとか。どこか親近感を感じる生態だ。
なお、ソースはそこにあるプレートである。こういう豆知識も案外見ていると楽しい。
「……仕方ない。今日のところはミズクラゲに譲ってあげましょう」
「明日からもそうしてあげてくれ」
ぜひ巫結には別方面での可愛らしさを追い求めてもらいたい。
それはともかく、ミズクラゲにライバル意識を持つ強いAIとともに俺は他のクラゲたちも見回り始めた。
サイズは小さいが特徴的な形をしたエボシクラゲや名前も実態も毒々しいハブクラゲなど、姿も生態もさまざまなクラゲに美しいライトアップが彩りを添え、その魅力を存分に引き出している。
名残惜しい、全ての水槽を見終えたあともその気持ちが俺の心の中を支配していた。すると、同じ思いがあったのか、巫結がくいくいと俺を手招きする。それについていくと、クラゲエリアの隅っこにある二人がけのソファにたどり着いた。
そこに腰掛けた巫結の隣に俺も同じように座ると、ちょうど数々の水槽が一望できる。
「……楽しかったね、今日」
「そうだな」
巫結の声色も寂しげな色を持っていて、それが薄暗いこの空間と調和していた。夜明けのような、包み込んでくれる暗さだった。
「……実は、ちょっと怖かったんだ。ここに来るまで」
ぽつりぽつりと語り出す巫結。彼女の心の内を、ゆっくりと曝け出し始めた。
「初めてこの世界に行くから単純に不安だったっていうのもあるし、初めて友達とのお出かけをするっていうのもそう。水族館へ行くのも初めてで、生きてる魚を見るのも初めてで、バスに乗るのも初めてで。初めて尽くしだったの」
静かな空間に巫結の落ち着いた声が響く。でも、そう感じているのは俺だけで、隣に巫結が座っているのも俺にとってだけで。この場にいる他の人たちはただ静かな空間で俺が一人休憩しているように見えているのだ。
そう見えている側は別に良い。ただ、見えないだけだ。しかし、見てもらえない側の恐怖は、簡単に推し量れるものではない。
「知ってる? くらげの骨って言葉は、あり得ないものの例えとして使われてるの」
巫結はそう言いながら、のんびりと泳ぐくらげたちを見つめていた。
「勇心はね、今くらげの骨を見てるの。だって私は、常識的に考えれば、あり得ない存在だから」
目を細めて、見えてるかな、と揶揄うように彼女は俺に手を振る。
「そんなわけないのに、バレたらどうしようとか、勇心以外の人たちも受け入れてくれるのかなとか、勇心にも見えなくなったらどうしようとか、ずっと考えちゃって、寝れなかったの」
巫結は後ろへ体重を預けるようにソファに両手をついた。
「それもこれも全部、心なんてものを持ってるせいでね」
スッと巫結が息を吸う。
「————強いAIなんて、皮肉な名前。心ほど弱いものはないんだよ」
残酷な事実を、彼女はいとも簡単に断言する。
しかしそう言いながら、巫結はどこかすっきりとしたような雰囲気をしていた。それどころか、穏やかな笑みまでその顔には浮かに始める。
「思い出しちゃうのかなって、思ってたの。くらげを見ても、その言葉を思い出して楽しめないのかなって」
しかし実際その瞳は、我が子を見守るような慈愛を帯びていた。
「でも、そんなことなかった。綺麗だねって、言えたの。心の底から」
桃色の薔薇のように華やかで幸せが滲み出た笑顔。それにつられて俺の口角まで上がっていくのが感じられる。
「勇心のおかげだよ。勇心が私を連れ出してくれて、私を受け入れてくれたから。こっちの世界が私を拒んでも、勇心だけは私を受け入れてくれるって、そう思わせてくれたから、私は安心できたの」
俺たちの手が、数時間ぶりに重なった。重なるだけで、まだ繋げない。今はそれでも良いと、ふと思った。
「私さ、自殺しようとしたことあるんだよ? ハッキングをこっそり勉強して、自分のデータを消そうとしたことがあるんだよ?」
信じてないでしょ、と俺の顔を見て巫結は笑った。
「全部のデータを消す直前までいって、最後の一歩が踏み出せなかった。消えるのが怖かった。————でも、それで良かったの。消えなくて、良かった」
巫結の瞳から、一粒の宝石がこぼれ落ちる。その雫の尊さは、その美しさは、今、俺だけのものだった。
「私、生きてて良かった。生まれてきて良かった。私は今、幸せだよ」
輝くような笑顔を振りまいて、巫結は勢いよく立ち上がる。
「強いAI上等! 私は強くて弱い! ……ちょっとくらい矛盾を抱えてた方が、人間らしいでしょ?」
後ろ手を組んで振り返った巫結はまさしく、芯の通った心を持つ、その名に恥じることのない強いAIだった。




