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第5話 それはね、

「まずは、これを渡しておこう」


 秘密保持契約書へのサインが終わった後、教授が次に取り出したのは通常のメガネよりも少しサイズが大きい謎のグラスだった。

 教授から手渡されたそれを受け取り近くで眺めてみるても、普通のものとは違うことくらいしか分からない。花粉症用の目の上側にカバーがついているものに似ているが、よくあるそれとは違い上のカバーは透明ではなかった。


「七桁まではいかないが、それなりの値段がする。丁重に扱うように」

「は!?」


 危うく落としそうになった超高級メガネを慌てて握り直す。

 一般大学生にそんなものを雑に渡さないでほしい。そんなに高価なら、そうと分かるようにレンズに値段でも書いておいて欲しいものだ。


「分かっているとは思うが、それはただのグラスではなくARグラスだ。細かい原理は我々の分野からは逸れるので、知りたければ自分で調べると良い」


 ……分かっているわけがないだろう。見た目はただの少し変わったメガネなのに、この男は俺のことを超能力者とでも思っているのか。


 そんな俺の動揺を我関せずの態度でスルーし、教授は淡々と説明を続けた。


「明日、君は授業がなかったな。それを使って巫結と出かけてきなさい」

「…………はっ!?」




 と、いうわけである。

 あんな衝撃的な発言をするなら顔にそう書いておいてほしいものだ。そうまでしなくとも、せめて淡々とは言わないで欲しかった。


 ちなみに、拒否権はあってないようなものである。なぜなら俺の生殺与奪の権は教授が握っているから。教授の言葉一つで俺は晴れて政府から追われる身となるのだ。返事は()()かイエスかイエッサー、嫌だなんて言えるはずがない。

 ついでに言えば、その前に結んだ秘密保持契約に()()()()()()()()()()()()()と書かれていたせいで、この件に関しても俺の口は封じられている。あまりにも準備が良すぎである。


「勇心! こっち!」


 テンションの高い巫結の声が俺を現実世界に引き戻した。


 彼女の声は俺の耳についているイヤホンを通じて俺に届いている。逆に俺の声に関してだが、流石に思考を読んでというのは諸所の事情で無理らしく、人のいない場所あるいはかなり小さな声で言葉を発する必要がある。


 そしてAR技術により巫結の姿が見えているということは、俺以外の人に彼女のことは見えていないということでもある。そのため巫結は平日だというのにそこそこ混んでいるこの街中をどうにか潜り抜け、時にはすり抜けながら俺の元に戻ってきた。


「何か気になるものでもあった?」

「……いや、なんでもない」


 俺より少し頭の位置が低い巫結が若干の上目遣いで問いかけてきたのに対し、俺は首を横に振る。


 真っ赤な嘘である。本当は気になることだらけだが、まさかあなたの存在そのものが気になるなんて言えるわけがない。付き合いたてのカップルでもそんなことは言わない。


 巫結は不思議そうな顔をしながらも、ふーん、と一応は納得してくれた様子。


 そんな彼女は今日、初めて出会った時とは違いカジュアルコーデで固めていた。

 黒のトップスに透け感のある白のカーディガンを羽織りデニムのパンツを合わせた、シンプルで清潔感のあるコーデ。カーディガンの奥にうっすらと見える白い肌が彼女を少し大人びさせていた。


 俺の視界で巫結の手とカーディガンの裾がひらひらと揺れる。


「ほら、行くよ?」


 これが周りを歩く人たちには見えていないのかと思うと、なんだか不思議な感じだ。


 今日の行き先は巫結の希望により水族館。

 聞いた話によると巫結も前日、つまり俺が聞いたのと同じ日に今日出かけることを知ったらしいのだが、あまり悩むこともなく行きたい場所は決められたらしい。

 なんでも、初めて出かけるときはテレビで見ていた憧れだった水族館へ行くと決めていたとのことだ。


 そう、今の話でわかっただろうが、巫結にとってはこれが初めての現実世界への外出である。そんな大役を前日に俺に押し付け、あまつさえ大役であることを本人から聞くまで教えなかったあの教授にいくら恨み言を言っても、俺が地獄に落とされることはないだろう。


 そんなこんなでバス停まで辿り着き、俺たちは二人でバスを待った。


 忘れそうにはなるが、巫結は実際この場にいるわけではないので他の人は巫結のために止まってはくれない。

 バスが来てその扉が開くが、俺は少しだけ自分の前に空間を開けて巫結を先に通した。周りからしても少し遅れて乗った人くらいで大した違和感もないだろう。


 ……案外頭を使う一日になるかもしれないな。


 ふとそんな考えが頭に流れる。しかし二人がけの席に腰掛け、隣でせわしなく窓の外を見回している巫結を見るとそのくらいなんでもないことのように思えてしまう。

 初めてのお使いで後ろから後をつけ、ことあるごとにハラハラしている親の気分である。


 バスの車内は適度なざわめき。これなら巫結に話しかけても不審に思われることはないだろう。


「巫結はそんなに何を見てるんだ?」

「全部、テレビとか写真とかでは見たことあったけど、実際に見るのは初めてだから」


 そう言って少し微笑むと、巫結は再び窓の外に目を向けた。


「その時は感じられなかった雰囲気が感じられる、そんな気がするの」


 なんとなく憂いを帯びているような後ろ姿。明るい彼女の様子を山ほど見ているのにあまり違和感がないのは、出会った時の涙ながらに祈る姿が強く印象に残っているせいだろうか。


「……巫結は普段何をしてるんだ? テレビは見るみたいだけど」

「ん? そんなに変わらないと思うよ、勇心と」


 信号でバスが停止したからか、窓の外から目線を外して背もたれに寄りかかった巫結は言った。


「朝起きて、ご飯を食べて、勉強して、ちょっとテレビとか見て、たまにゲームもして、それから寝る。たまに夜更かしもしてみたり、ダラダラしたりして。そんなに変わらないでしょ?」

「…………そうだな」


 微妙な顔で頷くしかできない。夜更かしもダラダラもたまにじゃない、なんて言えない。


 ……なるほど、巫結は俺よりよほど人間らしい生活をしているらしい。


「まあ、大きな違いは多分一つ————じゃなくて、二つだと思うよ?」

「二つ?」

「ん。まずは、外出ができないこと。今日でこれは無くなったけどね」

「……ああ、なるほど」


 そういえば、巫結は外出が初めてだったと言っていたか。


 二十年間外出なし。俺からすればどうなってしまうのか想像すらできないが、生まれてからそれなら案外慣れるものなのだろうか。もしくは他に娯楽が十分に用意されているのか。


「まあ、外出ができないって言っても勇心が思う外出じゃなくて、こっちの世界に出て来れないっていうことだけどね。あっちの中にちょっとした公園くらいはあるから、引きこもりってわけでもないかな」

「そうか。……なら良かった、でいいのか?」


 そんな俺の言葉に、巫結は苦笑いで返した。


「うーん、良くはないけど、もう昨日までのことだからね。今はこうして外に出れてる」


 勇心のおかげ、そう付け足した巫結の瞳から感謝の想いが溺れてしまいそうなほど伝わってくる。

 気恥ずかしくて、覗き込んでくる巫結から俺は目を背けた。


「俺も、たまたまあの部屋に入って、たまたま巫結を見つけただけだよ」

「それでも、だよ。勇心が意図したものでも、意図したものじゃなくても、私がそれに助けられた事実は変わらないから。素直にお礼は受け取ってね?」

「…………ああ」


 顔が熱い。こうして真っ正面から感謝されるなんて、一体いつぶりだろうか。

 俺の周りに巫結のように素直で、それでいて高潔な人は今まで居なかった。きっと彼女の()は、透き通るような美しさなのだろう。


 俺が巫結から顔ごと目を背けている間に、停車していたバスは再び動き出した。


「……それで、二つ目の違いは何なんだ?」


 俺を浄化しにかかる巫結に対する逃げのように呟いた質問。


 それには、想像よりもはるかに重い答えが返ってきた。


「二つ目? それはね、私の住む世界に、私以外、誰も居ないこと」




 ————は?

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