8話 『不吉の象徴』
ーー反逆者と記録の管理者は邂逅を果たした。
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木々のざわめきが遠のき、世界がひとときの静寂に沈む。
その闇の奥で、一冊の本が静かに閉じられた。
ページを閉じる乾いた音。
古びた本を手に、漆黒の外套を纏う影が座していた。
深く垂れたフードの奥、仄かに淡い光が揺らめく。
それは瞳か、あるいは記憶の残滓か。
無数の書物が宙を漂い、忘れられた世界の断片が淡く瞬いている。
影――それは黙して本を撫で、ひとり言のように呟く。
「……世界は廻る。
君の記録が、正義か否か。」
黒い外装は静かにこちらへと視線を向けた。
「――おっと失礼。
君にとっては仮想の物語だったかな?」
影は本を掲げ、ゆっくりと読者の方を向く。
その眼差しは冷静にして憂いを帯び、しかし決して中立ではない。
「――これを虚構だと笑うかい?
だが、頁をめくった時点で君も、また記録の一部だ。」
「世界は何を、正しさと選ぶかな……」
低く響く声が最後の一文を落とす。
冷えた空気は歪みだし、とある少女の光景は霧に溶けるように消えた。
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……風が吹き抜ける。
木々のざわめきと、鳥の鳴き声。
気づけば、そこは森の静けさだった。
Kは木の幹に背を預け、ぼんやりと灰色の空を仰いでいる。
「……」
気を抜けば、思考の渦に沈みそうになる。
そんな苦悩とは真逆に、目の前の少女はみずみずしい果実を頬張り、人と変わらぬ表情で目を輝かせる。
口の端に果汁をつけながら、まるで年頃の娘のように嬉しそうに微笑んでいた。
「……美味しい」
その声は柔らかく、記憶を刻む存在のものとは思えないほど無垢だった。
「……記憶の管理者〈アーカイヴレコーダー〉ねぇ……」
思わず漏れた言葉は、嘲りでも疑念でもなく、ただ苦笑に近い響きだった。
少女は瞬きをして、頬を赤く染めながらもまっすぐ答える。
「記録者よ。……でも、記録者だって、果物は食べてもいいでしょう!?」
焦ったような返答に、Kの口元がわずかに緩む。
自分の正しさに疑いを抱き続けてきた心に、小さな隙間風のように温もりが流れ込んだ。
果実を食べ終えた少女は、両手を膝の上に揃えて小さく息を吐いた。
「……不思議ね。こうしていると、ただの人みたい。」
Kは黙って彼女を見ていた。
その白い髪に揺れる月の飾りも、青い瞳の澄んだ輝きも――いかにも「特別な存在」に思える。
けれど、果汁で唇を濡らして笑った顔は、どこにでもいる少女そのものだった。
「……なぁ。」
Kは言いかけて、少し視線を逸らした。
「その、アーカイヴレコーダーっての……長ぇし呼びにくい。」
少女は姿勢を変えずにこちらを見る。
「それなら昔の人間が呼んでいたように、私のことは管理者か、白巫女だとでも呼べばいいわ。」
「昔の呼び名か──」
彼女は嫌味なく告げたが、それはKにとってあまり飲み込みたくない提案に感じた。
腰の銃の柄に触れ、視線を逸らすようにして呟いた。
「管理者だの白巫女だのってのは、あんまり似合わねぇよ。堅苦しいし、他人行儀だ。
それに……
名前が無いなんて、悲しいだろ……」
少女はわずかに目を見開いた。
「名前が……無いのは、悲しい?」
Kは小さく息を吐き、肩をすくめた。
「俺だってそうだ。何も覚えちゃいねぇし、本当の名前も覚えてない。
けどな、呼ばれることで……人は自分が“ここにいる”って証を持てるんじゃないか?
少なくとも俺はそう……思ってる。」
少女の瞳がわずかに揺れる。胸の奥に、記録では説明できない温度が生まれていた。
Kは少し照れくさそうに、けれど真剣な声音で言った。
「だからさ……お前には、ちゃんと名前があった方がいい。お前がお前である証が」
少女は沈黙したまま彼を見つめ、その視線に吸い込まれるように小悪魔めいた眼差しで微笑んだ。
「……そこまで言うなら、反逆者様はきっと、素敵な名前を決めてくれるんでしょうね」
不意打ちだった。
Kは頭をかきながら、目を逸らした。
「……俺にネーミングセンスなんざ期待するな」
少女は唇を少し尖らせ、しかし瞳は楽しげに揺れる。
「でも、あなたが呼んでくれるなら……どんな名前でもきっと、私にとって特別になる。おそらく、絶対。」
Kは言葉を詰まらせたが、やがて観念したように息を吐く。
「……イヴ」
少女の目が大きく開かれる。
「イヴ……?」
Kは言葉を選びながら、ゆっくりと告げた。
「夜明けの前に咲く、最初の光。
お前には、それが似合う……」
彼は少し間を置き、静かに続けた。
「それに“イヴ”には、生きるって意味もある。
記録のためだけに在るんじゃなく、ちゃんと生きてる“お前自身”を示す名前だ」
沈黙。
少女は息を呑む。
今まで自分の存在を“役割”でしか語れなかった彼女にとって、その言葉は胸の奥を強く打った。
「生きる……私が……?」
Kは照れ隠しのように肩をすくめる。
「そうだ。お前はもう、“ただの管理者”じゃない。……イヴだ。」
少女は唇を震わせ、やがて小さく笑った。
「……イヴ。
……とても温かい響きね。ありがとう、K」
その声は、森の静寂に溶けながら、確かに新しい記録として刻まれていった。
イヴとなった少女は瞳を伏せ、かすかに囁いた。
「……私も、誰かに名前をあげられたら……良かったのにね」
その声音には、叶わぬ願いを抱く少女のような寂しさが滲んでいた。
***
彼女が名前を受け取った後ーー
「おーい! K!」
両腕いっぱいに薬草を抱えたリオンが戻ってきた。
明らかに持ちすぎだ。
イヴは言葉を呑み込み、ただ小さく微笑んだ。
胸の奥に残る“契約の予感”を隠すように。
リオンは帰還早々、少女の目覚めや、リオンの傷の回復など、驚かされることばかりであった。
常識を覆す光景が、目の前で当たり前のように起きている。
「……信じられないな。俺が必死で探してきた薬草より、あっさり治してしまうなんて」
苦笑しながらも、リオンの胸中には不思議なざわめきが広がっていた。
そうだ……俺は昔、この森で……。
「リオン?」
Kが怪訝そうに青年を呼ぶ。
「あぁ?ごめん、少し考え事をしてた。」
軽く首を振ってごまかすと、Kは小さく肩をすくめて隣の少女を手で示した。
「紹介する。――彼女は、記憶の管理者〈アーカイヴレコーダー〉のイヴだ。」
イヴは静かに頭を下げ、改めて言葉を紡ぐ。
「……リオン、私を守ってくれて、ありがとう」
その声音は澄んでいて、どこか懐かしさを帯びていた。
リオンは思わず息を呑み、手を差し出しかける。
だが、薬草を掴んでいた指先は泥で汚れていることに気づき、慌てて手を引っ込めた。
その仕草に気づいたイヴが、ためらいもなく彼の手を取る。
――掴まれた手
その瞬間、リオンの胸に深く沈んでいた記憶が疼き始めた。
ーーその瞳は、とても鮮やかな赤だった。
まるで世界のすべてを塗り潰すような、深く澄んだ赤。
……彼女と出会ったのは、もっとずっと前のことだ。
まだ剣も持たぬ頃、ただの少年だった俺が、
迷い込んだ森で見つけたのは、花冠を編む一人の少女だった。
ーー俺の家は贅沢はできなかったが、食べるものにも寝る場所にも困らない、幸せな家庭だった。
一人っ子として生まれた俺は、両親から愛情を注がれて育てられ、街で立派に成長していった。
物心ついた頃から、この街では掟を破る者は罪人とみなされ、刑罰が行われるのは日常だった。
当時の俺はそのことに違和感を覚えていなかった。
裁きは正しい。掟は守るもの。――そう信じて疑わなかった。
ある日の朝。
俺は両親に連れられて、森の近くにある畑へと行った。
街から一歩外れた場所――そこは緑が多く、鳥や虫の声が絶えない。
けれど俺の幼い目には、その静けさの奥に、ひやりとしたものが潜んでいるように思えた。
初めて森を訪れた俺は、ただ夢中で魅了された。
澄んだ空気、光に透ける木々、花の匂い。
子どもの俺には、そこが禁じられた場所だなんて知る由もなかった。
両親は笑って、
「ほら、あっちで遊んでおいで」
と指をさした。
その先には――掟によって“不可侵領域”とされた森の奥が広がっていた。
……今になって思えば、おかしなことだ。
掟に厳格なこの街で、どうして両親が俺を森へ向かわせたのか。
まだ答えは見つかっていない。
けれどあの日、俺がそこで出会った少女が――俺の運命を変える存在だった。
香る緑と、自然の音色
全てが新鮮な景色の中、目の前を、煌めく赤色の蝶が横切った。
翅をひらめかせながら漂うその姿に目を奪われて、思わず追いかけていく。
走り抜けた木々の先、ひらけた空間に出た時だった。
赤い蝶がひらりと舞い降りた草むらの傍に、ひとりの少女がしゃがみ込んでいた。
編んでいた花冠を胸に抱え、俺の姿に気づいてぱちりと目を瞬かせる。
「……誰?」
澄んだ声だった。けれど、その響きはどこか人間離れしていて、まだ幼い俺の心を不思議な緊張で包んだ。
瞳は蝶と同じ、綺麗な赤色で、陽を映すような淡い薄橙の髪を靡かせていた。
少女の肌は透き通る程白く、まるで作られた生命かのように、目線の先で存在を証明した。
「名をマリーという。」
森の風が葉を揺らし、髪が陽に透けてきらめいた。
俺と同じくらいの年頃なのに、その仕草ひとつひとつが妙に大人びて見える。
「俺はリオン!」
勢いよく名乗った俺に、少女は驚きを見せた。
「……リオン。」
まるで舌の上で転がすように、その名を繰り返すと、静かに微笑む。
「不思議な人…」
ーーマリーはこの森の近くで暮らしているようで、花の名前や薬草の見分け方、森に棲む鳥や獣の習性を、まるで生まれた時から知っていたかのように教えてくれた。
未知に溢れたこの場所で、俺は胸が高鳴った。
その場所を導いてくれた彼女は不思議で、どこか寂しげだった。
――けれど、俺にとってはかけがえのない友達だった。
いつしか俺は森に行くたびマリーの元へ通うようになっていた。
そんなある日、彼女はふと視線を伏せて言った。
「ねぇ、リオン。……貴方は私が怖くないの?」
唐突な問いに、幼い俺は首を傾げるしかなかった。
「怖い? どうして? だってお前は……マリーだろ?」
彼女は驚いたように目を見開き、それから少しだけ泣きそうな笑みを浮かべた。
「……そうね。じゃあ、私と会ったことは二人だけの秘密にしておきましょう。
誰にも言っちゃダメだよ?」
その日から、俺とマリーの関係は、ただの友達以上のものになった。
秘密を分かち合う相手――それは幼い俺にとって、特別で、何よりも大切な絆だった。
しかし時が経つにつれ、両親は俺を森へと連れて行かなくなってしまった。
マリーに会えなくなった俺は、自分の足で森へと向かい、彼女に会いに行った。
けれど、昔のように頻繁には通えない。
だから俺は、街で一緒に遊びたいと提案した。
彼女は初めは断っていたものの、段々と会える機会が少なくなると
・外を回るだけ
・大きめのフードを被っていくこと
この2つを条件に街へと遊びに来てくれるようになった。
リオンには理解できない条件であったが、それ以上に、共に時間を過ごせることが嬉しかった。
しばらくして俺は15の歳となり。
国から騎士として任命された。
両親は大変喜んでくれて、俺の為に祝会まで開いてくれるそうだ。
自分の為に喜んでくれる事が大変嬉しく、どうせなら、マリーも呼ぼうと思って誘った。
けれど、マリーは何度声をかけても、リオン以外とは一緒に居れないと言葉を濁す。
俺はマリーが、まるで自分の事を祝ってくれないかのように感じて、問いただしてしまった。
ーー彼女は渋々口にした。
「自分は"忌み子"であるのだと」
忌み子――
それは不吉の象徴。
赤い瞳に白い肌、生まれながらにして人とは違う姿を持つ厄災。
その言葉はあまりに唐突で、理解できなかった。
だが彼女の声は震えていて、それが真実であることを告げていた。
その響きは耳の奥に重く沈み込み、鼓動がひとつ遅れて跳ねた。
祝会の喜びで膨らんでいた胸の内が、一瞬で冷水を浴びせられたように縮んでいく。
「忌み子……? なんだよ、それ……」
問いかけても、マリーは答えない。
ただ赤い瞳を揺らし、フードの奥で震える唇を噛みしめていた。
初めて聞いた言葉で、俺は知らなかった。
掟に従って育ってきたはずなのに、その言葉を一度も聞かされたことがなかった。
けれど、マリーの声には隠せない痛みがあった。
俺の目に映る彼女は決して忌み子とされて恐れられる不吉の象徴ではない。
赤い瞳は蝶の羽のように美しく、陽を映した薄橙の髪は花畑を照らす陽だまりのようだった。
彼女は災厄ではなく、ただ笑い、ただ俺と同じように生きようとする少女だ。
「……俺は知らない。だから関係ない。
お前が誰に何て呼ばれようと
俺にとってマリーはマリーだ!」
俺の声は必死に響いたが、マリーは微笑むだけだった。
その笑みは、祝福ではなく、まるで別れの前触れのようで……胸の奥が締めつけられた。
だから、俺を焦らせた。
マリーと別れたくなくて、安易な決断をしてしまった。
ーー祝会の日、俺は彼女をいつもの街散策だと呼び出し、連れ出した。
幼い頃から自分を優しく見守ってくれた両親ならば、きっと彼女を受け入れてくれる。
祝会の席で皆が喜びに沸く中で、マリーの存在を示せば、誰も忌み子などと言わなくなる。
そう、信じて疑わなかった。
ーーそう、信じてしまったんだ……




