67話 『盤上を詠む者』
「これはーー私の失態だ……。」
ーー記録の管理者は慚愧した。
目を伏せ、胸に手を当てて
ーー"管理者"は己の行いを悔いる。
「これはーー私の過ちだ……。」
己が深淵を刻みつけた少女、"セラ"はーー
力なくその場に座り込み、絶望で震えている。
隣に座るルシェが、その手を包み込みながら
必死に声をかけ続けているが、返答はない。
「セラ様……! お願いします……!
戻ってきてください……! セラ様……!」
身体全身に痛みを感じながらも、彼女は一心不乱に叫び続けた。
絶望に寄り添い、彼女の未来を照らすため
ルシェは水底へと、救いの手を伸ばす。
けれどーー
セラの片目に光は宿らない。
焦点を失った瞳は揺れず、虚空を見つめて俯いていた。
唇は微かに震えているものの、
そこから言葉が生まれる気配は感じられない。
そこに心は戻らず、壊れた人形のように
ただ揺れているだけだった。
ーー戦場の風が、吹き荒れる。
その中で一人、不自然なほど
記憶の管理者は落ち着いていた。
「ーー私の、せいだ……」
彼女へ、絶望を記憶させてしまった張本人
そこに少女の面影はなく
ーー未来への希望も、なかった……。
彼女五感がぼやける。
戦場の炎も、ルシェの叫び声も消えていく。
ーー音が、一つ一つ
水底へ零れ落ちていった。
色も、温度も、匂いも。
世界そのものがーー
ゆっくりと沈下した。
「私は……示す記録をーー"間違えた"。」
ーーパサ……。
「…………。」
管理者の耳へ、紙の擦れる音が届く。
「ーーはぁ、……」
彼女の吐息が、空気へ溶ける。
気付けば、世界は反転していた。
ゆらりと浮かぶ紙片。
無限に伸びる書架。
漂う頁片と、巡りゆく光脈の海洋。
〈記憶の図書館〉
逃げるようにその場所へ
ーー管理者は、立っていた。
「やはり、この場所は落ち着く……。」
数千、数万の生を積み重ねた傍観者。
彼女は、カナンの手を取り、人間と共に"反逆"する事を誓った。
けれどーー管理者は
記憶の代償を読み間違えた。
「私は、人に慣れすぎたが故に
ーー人の"強さ"を……過信した。」
彼女の声には、涙も激情も含まれていない。
唇から生まれた独り言は
悲しみすら清められた、“静寂の雫”だった。
「セラ……ごめんなさい……。
私はあなたをーー」
祈りが途切れる直前のように細い声。
「……救えない。」
それは、すべてを手放すような……絶望と諦念が混じった、静かな告白だった。
世界から色が消えていくように、彼女の言葉も
溶けていく。
続きはないと悟らせるほどの、弱い呟き。
ーーその嘆きは。
「そんな事……ないよ。」
“イヴ”によって否定された。
***
イヴーー彼女は、記憶の管理者が、人の在り方を知るために紡いだ、もう一人の私
自分と同じ見た目の幼い少女。
ゆっくりと近づき、手を取る彼女は
ーー"まだ"、希望を捨てていなかった。
けれど、その希望を"自分"は信じられない。
「与えた記憶は、忘却できない……。
彼女の心は……壊れてしまったんだ。」
管理者の言葉は、深く沈んだ井戸の底へ消えるように弱かった。
静謐な書架の空気すら、彼女の声を拒むように揺らぎもしない。
己が与えた業の深さを、誰よりも知っているからこそ、自分自身が許せなかった。
それでもーー
ーーふわり……。
私は、私を抱きしめた。
「傷跡は……簡単には無くならない。
けれどーー痛みを"癒す"ことはできるんだよ。」
小さな手が背中に回り、自分の言葉を実践するかのように、優しく心を解きほぐした。
イヴの声音は、暖かく優しい。
それでも、確かな揺るがなさを宿しているように思えた。
「私たちができるのは、深淵を見せることだけじゃないでしょ……?
ねぇ……。
希望をーー捨てないで」
祈りにも似たその願いは、
沈みかけた水底へ光を差し込む。
「…………!」
生まれたばかりの自分は、強かった。
全てを知っている自分より、
遥かにーー“人間”に寄り添えていた。
(……否。違う。
“知らない”からこそ……
彼女は、痛みに触れられたのだ。)
その瞬間、管理者の輪郭がふっと揺らぐ。
肩を包む光がひび割れ、
書架の奥で、古い頁がほどけるように散り始めた。
ーーパラ……パサ……。
崩れていくのではない。
削れて消えるのでもない。
ただ管理者が
ーー"自分"に、未来を委ねたのだ。
「私……いいや。」
彼女は、イヴの手にそっと触れ返す。
光の粒が、落ちる。
「“イヴ”。
……あなたに、世界を託した。」
記憶の図書館が、眩い光に包まれていく。
受け継いだ想いを胸に
ーーイヴは、一言呟いた。
「ーー任された。」
*****
ーー戦場。
焦げた空気が肺を刺し、炎が夜空を赤く染める。
イヴが戻ったその瞬間もーー
世界は、“奪い合い”を続けていた。
火の海で一人、夜空を構える反逆者。
セラが見た絶望を、ミネが遺した意思を。
すべてを刃に乗せて、カナンは
ーーただ前だけを向いていた。
ーーザッ……。
燃え残った破片が足元で砕ける。
心の奥で、炎が更に強く燃え上がった。
ーーひらり。
彼が"憎悪"を向ける終焉。
享楽者は、火の粉を払うように肩を揺らした。
「彼岸を見せる、だなんて……威勢だけは一人前なんだね。
ーー怖い怖ぁ〜い。」
くつくつと喉を揺らし、楽しげに笑う。
少女を象ったその微笑みは
“支配者の嗤い”そのものだった。
「でもね……」
愉悦を保ったまま、彼女の片腕がゆっくりと変貌する。
「君ではーー私に勝てないよ。」
ーーメリメリメリ……ッ!
左腕に亀裂が走り、内側から膨張するように肉が割れた。
複数の蔦が、花が咲くように“開花”する。
その一本一本が、まるで生き物のように脈動しながら四方へ伸び始めた。
「……"勝ち筋"を整えずに勝負するほど
ーー私は馬鹿じゃないんだ。」
享楽者の声に合わせて、蔦は
左右・後方へと滑るように散開していく。
ーーズズズズ……ッ!
地を這う音が、カナンの背筋を冷たく撫でた。
(……"攻め方"を、変えてきた……!)
蛇のように地を這い、円を描くように周囲を巡る蔦。
それはーーこれまでのような、力で押し潰すための"直線的な攻め"ではない。
複数に別れた細い蔦縄は、罠を張り巡らせるようにこちらを包囲し、蠢いていた。
(焦らず、集中しろ……。
――見えている“形”に惑わされるな。)
享楽者の左腕は、蔦にも刃にも獣にも化ける。
いま目の前で蠢いているのは
ーー“ただの蔦”ではない。
(これは……攻撃の“前置き”だ。)
たわむ角度。
揺れの周期。
地を叩く音。
土埃の流れ。
その全てに、カナンは感覚を研ぎ澄ませた。
(蔦を見せつけてからの"投石"。
地面に潜らせた、死角からの刺突。)
続く可能性をいくつも思案する。
(動きを、見極めろ……
攻撃をーー捌ききれ……!)
警戒を緩めずに、彼は思考を続けた。
ーーその瞬間。
「"攻撃を捌ききれ"ーー
君の考えは……これで、合ってるかな?」
ぞくりと、体に恐怖が染み付いた。
「ーーッ……!!!!」
心の奥で鳴らした内声。
それをーー
享楽者が復唱した。
“追いつかれた”のでも、“読まれた”のでもなく
ーー『思考ごと掴まれた』
そんな、不気味な感覚だった。
冷たい戦慄が、背骨を直接つたうように這い上がり、胸の奥が細くすぼまる。
喉の奥がひりつき、呼吸がひとつ溢れ出た。
「ーーなんなんだ……お前は…………。」
寒気でもなく、怯えでもない。
根源的な"拒否反応"が……カナンを襲った。
本能による警鐘。
その変化を、享楽者は見逃さない。
「ほらほら〜! やっぱり"当たり"だ〜!」
彼女は嬉しさを隠そうとせずに、頬をゆっくり吊り上げた。
声色は、宝物を見つけた子供のように明るく
笑顔は眩い。
だからこそーー
"それ"は、世界に馴染んでいなかった。
(思考の掌握……?)
新たな理層能力か……それとも偶然の戯れか。
畏怖《if》を纏ったカナンを無視して
ーー世界は無慈悲に、結末へ進む。
ーーシュン……!!!
周囲に展開された円状の蔦縄が、波打つように変貌し始める。
「……!」
カナンは、確かに動揺した。
けれどーー油断はしていない。
常に周りを警戒し、"盤上の先"まで、思考を巡らせていた。
ーー次なる攻撃に対処するため、事実のその先を見据えていたのだ。
ーーだからこそ
支配者は
ーー"攻撃"をしなかった。
ーーギュルルルッ……!!
円を描いていた蔦縄は、新たな芽を生やす。
それらは、意思を持つ蛇のように螺旋を描き
頭上へ、高く、素早く伸びていく。
「ーーこいつ……!!」
反射的に刃を構えたカナンは、一瞬で"狙い"を判断した。
けれどーーもう遅い。
視界の縁で、幾重にも絡まる細い腕。
それが夜の天井を編むように交差し、
鳥籠にも似た構造を組み上げていく。
ーーガシャァ……ッ。
枝と蔦が、閉ざされた檻の骨組みを形づくる。
カナンの背筋が、氷のように締まった。
「ーー俺を……閉じ込めやがった……!」
享楽者は、用意していた。
攻撃に見せかけた鳥籠をーー
逃げ場を無くし……カナンを殺すための
ーー最後の一手を……




