61話 『盤上の支配者』
ーー宵闇に、夜空が駆け抜けた。
火花が爆ぜ、金属が悲鳴を上げる。
空気そのものが断ち割られるような衝撃音が、司令塔跡に響き渡った。
歯を食いしばり、憤怒と憎悪を絡ませた瞳で、享楽者を睨みつけた。
ーーギリリリリィ!!!
雨粒のような火花を照らし、刃と蔦がせめぎ合う。
熱風と振動が、腕から全身へと伝わってきた。
(なんて硬さと馬鹿力だ……!
全力で切り付けたはずなのに、切れ込みすら入らない……!)
汗を流すカナンの前で、享楽者は余裕そうに微笑んだ。
「再会早々、殺しにかかるなんて……
反逆者ってのは野蛮だね〜。
けれどーー勝者に負けは……存在しないよ。」
ーーギンッ!!!
笑みの形を保ったまま、彼女の蔦が膨張する。
圧縮された筋肉のように膨らんだ腕が、凄まじい反発力を生み出す。
その衝撃で刃が弾き飛ばされ、カナンは重心を後ろに崩す。
「ーークソッ……!!!」
その叫びが空気に混ざるより早く、
時間だけが鈍い泥のように遅れ始めた。
目の前で腕が肉の束を裂き、黒紅の液体を垂れ流す。
その内部から、骨槍が叫ぶように飛び出した。
人体構造を無視した追撃。
防御どころか、振り払われた刃を戻す暇さえない。
「ーーッ……!!」
ーーその瞬間、視界がぶれる。
世界は、回転した。
押し飛ばされた衝撃の“反動”。
カナンはそれを利用して、後方へ反り返る。
彼は、無理やり与えられた回転を殺さず
むしろ、回避へと利用した。
視界が横倒しになり、炎と瓦礫が輪のように流れていく。
ーーヒュッ。
鼻先を、一条の槍が掠めた。
ほんの紙一重。
皮膚に冷たい“死の気配”が触れた気がした。
腕を引き戻し、体勢を整える。
酸素を吸い込み、呼吸を止める。
足裏に感覚が戻りーー砂を巻き上げながら着地する。
そしてーー
ーーギンッ!ギン!
ギン!ギンッ!!
追い討ちのように放たれた槍の雨を、カナンは防いだ。
ーーほんの一歩、ほんの一瞬判断が遅れていれば……そのまま貫かれていた。
「……っ……はぁ…………。」
詰めていた息遣いが、ゆっくり現実へ戻ってくる。
ギリギリで死線を越えたその目は、次の瞬間を逃さないように、まっすぐ享楽者へと向けられていた。
差し向けられた笑みは、炎に照らされ、歪んでいる。
カナンの眉間に深い皺が寄る。
牙を見せる獣のように、怒りが噴き上がる。
「ーーこうやって……逆奪者たちを騙して」
握る刃に力がこもる。
「“殺して”きたのか、お前は……。」
低く、押し殺した声。
だがその奥には、燃えるような憤怒が宿っていた。
ミネは肩をすくめ、まるで人の死を雑談に混ぜるように軽く言い放つ。
「わかってないね、カナン君は……。」
足先で黒焦げの瓦礫を弾きながら、楽しげに言葉を続ける。
「騙し討ちは、れっきとした“作戦”だよ……?
せっかく、リーダーという立場を乗っ取ったんだ。
ーー利用しなきゃ、もったいないじゃないか。」
血に濡れた蔦をゆらりと持ち上げ、彼女はにこりと笑う。
「盤上を上手く操って、愉快な遊戯を完成させる。
それこそが……支配者だけが行える、最も楽しい享楽だろう……?」
機械の腕と、異形の触手。
彼女は両手を左右に広げ、妖艶に微笑んだ。
その両腕に、人間の形はない。
初めて出会ったあの時から、彼女は終焉に、擬態していたのだ。
「……左腕の理層能力。」
カナンは、蠢く蔦の動きを一点だけで捉えたまま呟いた。
焔の揺らぎとは違う透明な影。
それは、左手から放たれた“理の歪み”だった。
「模倣体の解析では、“空間干渉”と告げられたが……。」
刃先をわずかに下げて、息を整えながら続ける。
「……本当の能力は、粒子操作 ……というわけか。」
目の奥が冷たく研ぎ澄まされる。
記憶と現実を交差させ、反逆者は一人
ーー真実へと辿り着いた。
享楽者は、
まるで正解を褒める教師のように、ぱぁっと表情を明るくして笑った。
「……せいか〜い!」
指先を弾き、こちらへ魅せるように手のひらを返す。
動作と共に粒子が散り、人間の腕を形作った。
「ーーさすが外界の反逆者さん。
逆奪者と違って、真相を突き止めるなんて……まるで探偵みたいだね〜」
彼女は遊ぶように、変貌を続けた。
人間の皮膚が裏返り、表面が裂ける。
ぱきん、と骨が鳴り、無数の“棘”が芽吹いた。
植物のような腕。
硬い蔦が、じわじわとうねりながら伸び広がる。
まるで肉と草が混合したような異形な形状。
享楽者は腕を軽く振り、人間の腕へと形を戻しながら肩をすくめる。
「……あまりにも生体を逸脱しちゃうと"元の形"に戻れなくなるから、使い勝手は悪いんだけどね〜。」
皮肉でも自慢でもない。
ただ、面倒ごとの一つを愚痴るような、日常会話の温度だった。
その言葉に、カナンの瞳がわずかに細まる。
今の一言は、記憶に存在しない情報だった。
彼の困惑に気づいたミネは、あ、と口元を押さえ、軽く舌を出した。
「あー……“これ”は、まだ知らなかったんだ……」
頬に指を添え、わざとらしく首を傾げる。
声音は弾んでいるのに、その瞳だけが底なしの暗さを宿していた。
「しくじっちゃったかなぁ〜?」
言葉とは裏腹に、楽しそうだった。
彼女の腕が再び変形を始め、肉の下で皮膚が波打つ。
「ーーま、でも……」
パズルを組み立てるように、形状を組み合わせ
ーー慈悲なき蔦槍が顕現する。
「ーーここで殺せば、関係ないか。」
その瞬間、空気が変わった。
その言葉は、楽しいお喋りの延長ではない。
彼女が“敵”として、殺意を向けてくる
ーー"合図"だった。
***
変貌した"姉"とその前へ立つ"反逆者"。
二人の戦いを見つめながら、セラは腹部を抑えていた。
呼吸をするたび、裂けた傷が内側から悲鳴を上げる。
胸の奥で酸素が焼けつき、視界に黒い点が滲む。
片手に鮮血が滲み、気持ちの悪い生暖かさが広がった。
ーーガンッ! ギンッ!!
ギンッ!!
戦場に再び衝撃音が走り始める。
カナンの背が揺れ、蔦が鋭くうねるたび、生命の境界線がかすれる。
彼の命は今にも、崩れ落ちそうに思えた。
足は動かない。
声も、震える息と共に途切れそうだ。
それでもセラの意思は、まだ反逆を唱えていた。
「ーーカナン。
一人で戦っては……いけない……。」
血が滴り、床に赤い花弁を落とす。
「ッ……!!」
痛みに表情を歪ませる。
どれだけ意志を積み上げようが、この傷では戦うどころかーー生き残る事すら難しい。
幾度も死の淵を経験したからこそ、彼女はそれをわかっていた。
荒い呼吸が脳へと響く。
血の味が、口の中へ溢れかえる。
「ーーセラ……」
絶望へ追いやられる少女の背後から、今にも消えそうなか細い声が聞こえた。
「ーーイ……ヴ……。」
記憶の管理者。
彼女はルシェに支えられて膝をつき、体を震わせながら手を伸ばす。
焼けた全身を引きずって、こちらへと歩み寄ってきていた。
その手に光が宿る。
セラの傷が塞がり始め、出血が収まっていく。
損傷が、痛みが引いていく。
ーー粒子操作の会得。
享楽者の記憶を理解したイヴは、記憶による治癒能力を向上させていた。
けれど、あくまで傷跡を埋める復元行為。
損傷の繋ぎや、受けた痛覚の記憶まで取り除く事はできない。
けれど、命は繋げられる。
だからーー"彼女たち"は、手を伸ばす。
イヴの隣。
体を震わせながらも、健気に支え続けるルシェ。
その身体は酷い火傷と打撲を負っており、想像もできない激痛が全身に駆け巡っているだろう。
そして彼女は、肉体だけでなく心にも深い傷を負った。
己の信念と共に、生きる理由だった兄を殺され、その亡骸すらも弄ばれた。
深い絶望の底。
少女は深海へと落ち、全ての希望を失っていてもおかしくなかった。
それでもーールシェは救いを伸ばした。
今も昔も変わらない。
兄が貫いてきた信念。
命を散らせないためにーー
理層の光が、斬られた内部の器官まで"復元"させていく。
「……セラーー」
光を灯した手を伸ばし、"彼女"は名前を呼んだ。
イヴがーー
否…………。
世界を記す存在ーー記憶の管理者が……。
その気配に、幼き少女の面影はない。
セラの前に映る彼女は、静かに手を伸ばしたまま、呟いた。
「ーー貴方に……深淵を除く覚悟はある?」
セラの胸がひくりと跳ねる。
(……深淵……?)
聞き慣れない言葉に、思考が止まる。
知識の鱗片を探そうと、理解の輪郭すら掴めなかった。
「ーーイヴ……?」
目の前にいるのは、彼女の知る……無邪気な少女ではない。
炎の明滅を受けたその瞳は、
ーー底の見えない水面のように冷たく、
ーー記録の海のように深く、
ーーなにより“人の温度”が薄かった。
明らかに異質な存在。
深淵という言葉の意味も。
なぜ自分にそれを問うのかという理由も。
何一つ、理解できなかった。
伸ばされた手。
指先さえ触れれば、きっと何かが変わる。
だがーー
同時に、何かが“戻らなくなる”。
(……答えたら……私はきっと……。)
その直感だけは、痛いほど鮮明だった。
胸を締め上げるような戸惑いが脳裏を往復する。
不吉な気配が肌に張り付き、息が震えた。
イヴの誘い。
いや、記憶の管理者としての“招待”。
その先にあるのは、理を超えた未知の力。
人知を超えた存在を信じるべきなのか。
セラは今一度、自分自身に問いかけた。
沈黙。
焦げた空気の中で、鼓動だけがうるさく響いた。
そしてーー
彼女はゆっくり……手を伸ばした。
「……これ以上の絶望は、訪れない。」
掠れた声と共に、深淵への招待状を受け取る。
それは覚悟ではない。
放心ゆえの決意だった。
最も信じていた存在に裏切られ、
世界の輪郭が崩れ落ちた今——
今のセラには、本当に信じられるものが何なのか、分からなかった。
だからこそ、彼女は賭けたのだ。
記憶の管理者が差し伸べた……一縷の希望に。
「……ようこそ、"記憶の深淵"へ。」
少女の声を最後にーーセラは"閲覧"を開始した。




