58話 『享楽者《ヘドニスター》』
ーー記憶の図書館は、新たな“真実”を受け入れた。
イヴの瞳に映った光景を介してーー享楽者の核心へと繋がる“断片”を。
「ーーッ!!!」
その断片は、契約者にも伝達される。
世界の底に沈んでいた“それ”が、
微かな胎動を見せた。
「……ガッ!?」
強烈な衝撃。
それが、契約者の神経を揺さぶった。
理解が追いつく前に、胸の奥で警鐘が鳴り響く。
一瞬で、呼吸が凍った。
背中に寒気が走る。
耳鳴りがじわりと広がり、視界の端が黒く滲む。
ーー反逆者は、真実を記憶した。
足が止まる。
ノード・キングへ向かっていた疾走は、唐突に遮断された。
「……カナン?」
こちらを振り返り、心配そうに見つめるセラ。
ミネの無線を聞いて、二人は司令塔へと向かっていた。
既に、建屋は視界に入っている。
けれどーーその輪郭はぼやけ、景色が定まらない。
頭が、情報の重さで押しつぶされていた。
「顔色が悪い、大丈夫?」
姉の無事を知り、安堵した彼女は、優しくこちらを伺ってくれる。
藍の片目は、幸せを迎える用意をしていた。
けれどーー
……彼女はまだ、"真相"を知らない。
***
ーーぽたり……ぽたり……。
血の滴る音がイヴの耳へと響く。
静けさと恐怖が空間を支配し
耳鳴りが、絶えず脳内を駆け巡った。
ーー動けない。
床に手をついたまま、指先が震えても、腕が引きつっても。
身体はまるで冷たい釘で打ちつけられたように、そこから離れなかった。
ーーだが……
ーーギチ……ッ
「…………ッ!!」
ーーギチッ!!!!!
その静寂は、金属が軋む音によって裂かれる。
刺さった槍がわずかに揺れ、張りつめた空気が砕けた。
ベルトが撓り、鈍い音を出した。
「……ッ……!」
喉の奥で悲鳴がちぎれ、イヴの呼吸が途切れた。
逃げられない。
目をそらせない。
視線が、勝手に“そこ”へ吸い寄せられていく。
信じられない、信じたくない。
初めは、ベルトが絞め上げられた音かと思った。
けれど、違う。
"それだけ"じゃない。
ーー槍に貫かれ、血に塗れ、吊るされたまま……微動だにしなかった少女。
そんな彼女がーーゆっくりと、顔を上げ……
「…………ふふっ……。」
ーー笑った。
裂けそうなほど、上がった口角はーー
恐ろしい程"不気味"だった。
ーードッ……。
震えるイヴの隣に、ルシェが倒れ込む……。
信じられない光景を目にして、足から力が抜けた彼女。
その瞳には、抑えきれない怯えと絶望が映り込んでいた。
周囲の研究者たちもまた、異様な静寂の中で恐怖に呑まれていた。
誰も叫ばない。
叫ぶ余裕すら――残っていなかった。
白衣の袖が震え、
手にしていた端末がカタカタと小さく音を立てる。
息を吸うたび、胸の奥が焼けるように痛い。
それでも呼吸を止められない。
止めたら、この場の“何か”に呑まれて死ぬと、本能が告げていた。
「……やだ……やだ……」
誰かがかすれた声で繰り返す。
足が絡まり、転んだ研究者が床を這う。
指先が震えすぎて立ち上がれない。
だがーー
その場で唯一、敵を見据えた小さな軍師。
ルドは右手を上げたまま……
「各員……」
ただ一言、"命令"した。
「……逃げろ。」
彼の通達を、起承としてーー
司令室は混乱に包まれた。
吊られた“少女”が身体を反らし、拘束ベルトを切り刻む。
ーーバンッ!!!
金具が弾け、ベルトが千切れ飛ぶ。
槍が一本、また一本と床へ落下した。
血を滴らせた肉体が、地に落ちる。
むせ返るほど濃い鉄の匂いが満ちる室内で、逆奪者たちは恐怖に背を押されるように叫び
出口へ殺到した。
足を滑らせ、肩をぶつけ合い、
誰もが命を守るためだけに走る。
その背へーー
蔦が、うねり上がった。
逆奪者へと凶器を振りかざすミネ。
彼女の右腕は裂け、肉の隙間から植物の繊維が絡まり合って、鋭利な棘を形成していた。
狩りのためだけに変化された“腕”。
命を貫く機能だけを残したそれに、もはや人の跡形など存在しない。
だからこそーー
“彼”も、ためらわなかった。
ーーギンッ!!!!
天井、壁、床。
拠点の構造すべてが悲鳴を上げるようにーー
ルドの手によって、無数のワイヤーアームが射出された。
その軌道は、迷いがなく正確。
一斉に展開されたワイヤーが軌跡を描き分け、空間に張り巡らされていく。
理応繊維で編まれた多芯強化鉄線が、蔦の進行をはじき飛ばし、伸びきった“腕”を空中で弾き飛ばした。
"狩人"の後ろで、小さな軍師は言い放つ。
「……わしの前で、仲間を殺せると思うな……!」
鋭く刺さる、揺るぎない声音。
その視線は、もはや仲間に向けられたものではない。
ーーギッ……!
歯を強く噛み締め、突き出した手のひらを震わせながらーー彼は"敵"を見据えて、叫んだ。
「享楽者ッーーー!!!!」
憎悪と憤怒を含んだ声によって
ようやく世界へーーその名は告げられた。
***
ーー彼女は、いつもと変わらず笑っていた。
機械の右腕と両足。
光を失った瞳にかかる、夜空のように深い髪。
微笑む美しい姿は、希望のように眩く輝いていた。
だからこそ今は、それが恐ろしく不気味だった……。
人である事を隠れ蓑にしなくなった化け物。
研究者の震える声を遮るようにーー
ーーギンッ!!ギンッ!ギチチ……ッ!!
鋭い金属音が室内に炸裂した。
ミネの右腕から伸びる“蔦”が、しなる鞭のように高速で振り下ろされる。
その軌跡を正確に読み取り、天井から伸びたワイヤーアームが衝突する。
蔦と鋼線がぶつかり、接触面から火花を散らした。
ーーギィィィン……ッ!!
享楽者。
その力は驚異的な程、理不尽だった。
植物の繊維には似つかぬ、破壊力と密度。
衝突と同時にワイヤーがきしみ、擦り切れるような音が空気を裂いた。
力では、敵わない……。
ーーガッ!!!!
鈍い音と共に、研究者たちの足元へ、鋭利な腕が刺さる。
一瞬の判断。
ルドはワイヤーアームを操作し、押し返すのではなく、攻撃を逸らす戦略に変更した。
享楽者は感心したような表情を浮かべ、笑いながら手首を返す。
弾かれた蔦が蠢き始め、壁から天井、そして研究者たちの背中へ向けて跳ねていった。
ーーガガッ!!
だがそのたびに、天井の各所から伸びたアームが、“寸前の角度”で進路を拒み、弾き落とす。
蔦が唸る音。
アームが千切れる音。
破壊音と衝突音の中で金属片が飛び散り、床へ転がっていく。
攻撃の奔流を受け止め続けるルドは、目で追えない程の速さで端末を操作し、装置を動かした。
彼には、一切の油断も許されない。
一つの判断ミスが、逆奪者の死へと繋がってしまうのだから……。
異形の棘線うねり駆け、アームが火花が散らす。
僅かな時間の攻防が、逃げる者たちの“数秒”を繋いだ。
ーー司令室は再び、静寂に包まれる
逆奪者たちの大半を、逃げ去った空間。
享楽者はしばし周囲を見つめたのち、ゆっくりルドへ向きなおり、言葉を投げた。
「いや〜皆殺しの予定だったんだけど……
ノード・ナイトに、こんな“おもちゃ”を隠してたなんて……ルドも中々策士だね。」
彼女を囲むように展開されたワイヤーアーム群。
それは、ルドが独自にセラへ依頼した“秘密兵装”だった。
だが、あくまでも簡易装置だ。
襲い来る攻撃をいなせても、撃退や殲滅を行えるほどの殺傷力はない。
ましてや、"享楽者本体"になどーー大した時間稼ぎにもならないだろう。
ルドは語りかける彼女に対し、警戒を緩めず返答する。
「……偽りの王として、組織を操っていた貴様の方が、よっぽど策士に見えるがな……。」
迫る終焉を目前にしても、彼は一歩も引かなかい。
むしろその何気ない会話を使って、ルドは"その先"を思案していた。
後方で逃げ遅れた二人の少女。
恐怖で震えが収まらないイヴとーー
彼女守るように抱いたルシェ。
(ーー必ず、生き残らせる……!)
二人の命を、守る為に。
小さな軍師は、敵を睨み続ける。
「ーーふふ……」
瞳をギラつかせたままのルドを見て、
享楽者は我が子を褒めるように、口元へ笑みを浮かべた。
「そんな王を欺くなんて、やっぱりルドは賢いね。
……だから最初にーー"殺そう"って決めたんだ」
けれど言葉は、笑っていなかった。
ーーギンッ!!!
会話の合間を狙いすまし、
享楽者の蔦が風を裂いた。
狙いは正確。
タイミングは完璧。
“普通の人間”なら、次の瞬間には串刺しだった。
だがーールドは、わずかな動作でそれをいなした。
弾丸のように打ち込まれる攻撃を、天井と壁に展開させた複数のワイヤーアームを交差させ、正確に逸らす。
彼に、一切の動揺はなかった。
ミネがその光景に感心するように手を叩き、ルドへと拍手を送る。
「おぉーー!!
私の正体を見破るどころか、善戦するなんて……!
逆奪者も成長したね〜。」
その言葉が、嫌味なのか、本音なのかは分からない。
事実なのは、彼女に殺意がある事だけだ。
「ーーにしても、どうしてバレちゃったのかな〜?」
享楽者はわざとらしく首を傾げ、口を開ける。
「"サプライズ"のつもりだったんだけど。」
その声色は、表面上とても明るく見えた。
けれど、奥底はーーどこまでも冷たく感じた。
"ミネらしく"振る舞うその様に嫌悪を覚え、ルドは冷徹に突き放す。
「ーーほざけ……。
あれだけ分かりやすい"反応"……
気付かぬわけがないだろ。」
司令室にある観測装置の一つ
生体反応を示すそのモニターだけが、不吉な赤で染まっていた。
享楽者は肩を揺らし、楽しげに笑う。
「ふふふ……だって、“仮想世界”からじゃ、扉は開けれないんだもん。
ーーどうせバレちゃうのなら、誰かを驚かせた方が……"楽しい"でしょ?」
その顔に、悪意も善意もありはしない。
彼女の元にあるのは、ただ一つ。
己が求める"享楽"だけだった。
薄気味悪い快楽が侵食する司令室で、ルドは会話の隙をつき、後方へと指示を飛ばした。
「ルシェ、イヴを連れて離脱しろ……。」
短く放った簡潔な指示。
その命令を、ルシェは一瞬で理解した。
けれど同様に、反射的に否定が溢れ出す。
「けれど兄様……!!」
だがそれも、ルドには予測済みの返答だった。
だから彼はーー
念を押すように、もう一度指示を行った。
「ルシェ……
ーーこれは命令だ、"生きろ"。」
背中を向けた兄は、二人を見ることすらしない。
視線を、享楽者から逸らさなかった。
彼女は笑みを崩さずに、再び蔦を蠢かす。
棘の束が、流線を引いて奔る。
ーーギンッ!!!!
蔦の槍が空気を裂き、司令室の床へ深々と突き刺さる。
金属床が抉れ、火花が散った。
直後、左右方向からも棘蔦が襲いかかる。
ーーギィン!!バチィッ!!
ルドは端末を叩き、複数のワイヤーアームを操作した。
空中でばねのように跳ねるそれが、蔦の軌道を“押し返す”。
ーーバンッ!!
床に固定された基部がきしみ、衝撃に耐えきれなかった装置が、弾け飛んだ。
一つ
ーーメリッ……!!
また一つ。
ーーガギン!!!!!
次々とワイヤーが歪み、火花が雨のように降りそそぐ。
床はひび割れ、簡易装置がどんどん動きを鈍らせる。
ーービンッ!! ザシッ!!!!
切り裂かれたワイヤー、潰れた先端アーム。
劣勢と化す現実を見つめ、ルシェは未だに動けずにいた。
ルドから告げられた司令の真意も……。
彼の覚悟も理解していた。
けれど……だからこそ"その結末"を、ルシェは受け入れられなかった。
「……嫌……です。」
振り絞るように吐き出した声。
涙を堪えるように、感情を押さえ込んだ拒絶。
その後へ続く言葉に、恐怖はなかった。
「ーー兄様を、置いてなど行けません!!!」
決意と共に立ち上がり、端末へ手を伸ばす。
己の愛した人間を、唯一無二の家族をーー
戦場に置いて逃げるなど、彼女には出来なかった。
その動作には、迷いも怯えもなくーー
"理性"もなかった。
「……ッ!!!!」
時間が、ゆっくりと進む。
手を伸ばし、前へと踏み出した彼女の瞳にーー
命を狩りとる、"鋭利な刃"が映った。
ーー鋭く尖った蔦の槍。
それが、頭部を貫く直前まで迫っていた……
「……ルシェーーッ!!!!!」
ルドの叫びが木霊する。
ーーだが、気づいた時にはもう、遅い。
ワイヤーアームは……届かずに……。
ーーゴンッ!!!!
鮮血が舞い散った。




