56話 『王の帰還』
ーー彼女はいつだって……変わらなかった。
無邪気な笑顔で微笑みながら、誰より無鉄砲で、誰よりも背中を押してくれる。
軽々しく放たれた言葉は、血なまぐさい戦場に似合わなかった。
けれどその言葉に、その笑みにーー
多くの逆奪者たちが救われてきた。
(俺も、"その一人"だ……)
ウォーレンスは、焦げた風の中で深く息を吐いた。
王の光と共に、逆奪の道を歩いてきた彼にとってーー
“彼女がいない戦場”は、あまりにも冷たかった。
けれど、もう……寒くはない。
無線から響いた"いつも通りの声"。
無邪気で、軽くて、温かくてーー
誰よりこの戦場に似合わないその声が
胸の奥の“古傷”を温めてくれた。
「……変わらないな。お前は。」
拳を握るたびに、かすかな熱が走る。
それはーーずっと昔に刻んだ誓いの残響だ。
視界の端でミネの声が揺れる。
それが引き金になり、"記憶の底"がーー静かに開いた。
***
……それはーー初夏が過ぎた頃だった。
母が用意してくれた訓練所。
いずれ……ノード・クイーンとなるこの場所で、俺は逆奪者の見習いとして鍛錬を積んでいた。
ただ黙々と拳を叩き込む俺の背後にーー
“そいつ”は、毎日現れた。
「おぉー今日も頑張ってるね〜!」
いつも唐突で、いつも軽い足取りでーー
「…………はぁ。」
思わずため息が出る。
その声だけで、誰が来たのか分かった。
そもそもここに来る人間などーー彼女しかいなかったが……。
「ーー何度も言っているはずだ。
……訓練の邪魔をするな、紛い物。」
振り返らずに言い放つ。
冷たく突き放しても、そいつは決して気にした様子はなかった。
「紛い物はひどくない〜?
私はれっきとした逆奪者なのですが〜?」
ニコニコと俺の横に並び、こちらへ屈託のない笑顔を見せた。
彼女の藍色の瞳は、髪と同じ色を湛えていた。
夜空のように深いのに――その笑みだけは、不思議なほど明るかった。
「ほら、続けて続けて。
手が止まってるよ〜!」
癪に障る女だ。
毎日のように目の前にやってきては、こちらを見つめてうるさく笑う。
初対面の時からずっと……彼女はーー
ミネは笑っていた。
***
一つの季節が過ぎ去った。
木の葉が赤く色づき、訓練場に彩りをもたらす。
それでもミネは、俺に付きまとうのを辞めなかった。
「ーーお前、暇なのか?」
軽蔑まじりの疑問。
訓練の集中を切らされ続けて、思わず漏れた本音だった。
だがミネは、俺の棘などまるで意に介さない。
むしろーー目を輝かせた。
「おや〜!ウォーくんが質問してくれるなんて珍しい!」
嬉しそうに笑いながら、葉の舞う訓練場でくるりと一度回る。
その仕草がまた、腹が立つほど楽しげだった。
「……ウォーレンスだ。
ーー何処で俺の名前を知った……?」
名乗り返すというより、拒絶に近い響きだった。
それでもミネは気にした様子を見せない。
「え〜? どこでって……」
彼女は口元に指を当て、わざとらしく考える仕草をしてみせる。
「"王子様"を知らない人間の方が少ないと思うけどね〜?」
軽く笑い飛ばす。
その無邪気さが逆に鼻につき、
ウォーレンスは不快そうに眉を寄せた。
「……結局お前もーー"権力"に惹かれただけの人間か。」
低い声には、諦観と軽い嫌悪が滲む。
アストレイン家は、逆奪者の創始者そのものである。
“王子”と呼ばれたウォーレンスの元にはーー
幼い頃から、数え切れないほどの者が群がってきた。
その目的がどれほど醜いものだったかも、嫌というほど知っている。
だからこそーー笑顔な人間ほど信用出来なかった。
だがミネは、そんなウォーレンスの機嫌を取るような素振りもなく、言葉尻を弾ませるように、即座に否定した。
「ざんね〜ん!」
あっけらかんとした声。
そこに媚びも下心もない。
「私は別に、"あなた"に会いには来てないよ。
そんなつまんない理由で人に近づくほど……"暇"じゃないんだ〜。」
秋の夕陽に照らされた横顔は、無邪気で、けれど嘘がなかった。
ウォーレンスは息をのみ、言葉を失う。
ミネは続けて、小さく笑って言った。
「あ、ちなみにこれ。
最初の質問の答えね!」
その言葉は、風の音すら吸い込んでしまうほど自然に響いた。
「有限なのですよ。
乙女の時間は……。」
ウォーレンスは、何か言い返そうとしてーー喉が詰まった。
先ほど感じた嫌悪はもう、どこにもなかった。
ただ胸の奥で、小さな違和感だけが灯る。
(……何なんだこいつは。)
彼女はウォーレンスの動揺に満足したのか、踵を返し、落ち葉の道を軽やかに駆けていった。
「ほら、今日も訓練するんでしょ〜?
見ててあげるから、さぼっちゃダメだよ!」
くるりと振り返り、無邪気な笑顔で手を振る。
孤高の王子は、しばらくそこに立ち尽くした。
ーーやがて季節は巡り、世界は花開いた。
訓練所の硬い土にも、春の芽が顔を出しはじめた頃。
その日、いつものように黙々と鍛錬を続けていたウォーレンスの後方から、場違いなほど明るい声が響いた。
「おい……。」
嫌な予感が背筋を走る。
振り返った瞬間、彼は目を細めた。
……何故か、もう一人『少女』が増えていた。
「…………誰だこいつは。」
隣に立っていたのは、ミネより少し背が低く、鋭い目つきの少女だった。
ミネと同じ藍の瞳に、夜空のような髪。
彼女は腕を組み、こちらを値踏みするように見ていた。
するとミネが胸を張り、いつもの調子で叫んだ。
「ふっふっふっ……恐れ戦け!」
ウォーレンスは眉をひそめる。
「は?」
ミネは大きなジェスチャーで少女を示し、
誇らしげに言い放った。
「紹介しよう!
私の世界一かわいい妹、セラちゃんです!!」
「やめて、お姉ちゃん……そういう紹介、ほんとにやめて。」
横でセラが額を押さえる。
ウォーレンスは深くため息を吐く。
「邪魔をするなと言っているだろ。
いい加減、無理やり追い出すぞ……!」
「とは言いつつ、追い出さないのがまた優しいんだよね〜。
ほらセラ! この無愛想なのがウォーくんだよ!」
「ウォーレンスだ。」
「はいはいウォーくん!」
「やめろと言っている!!」
ミネのノリと、ウォーレンスの苛立ち。
その隣で完全に置いていかれるセラ。
この奇妙な三人の出会いが
“逆奪者の核”へと繋がっていくのだった。
***
季節がさらに進み、訓練所の空気も少し暖かくなった頃。
逆奪者の見習いとして、新たに加わったセラ。
彼女に、ミネのような馴れ馴れしさは微塵もない。
その態度に感心したのか、ウォーレンスはセラからの願いを、快く受け取った。
「ーー持ってみろ。」
彼は短く息を吐き、木刀を一本手渡す。
セラは両手で木刀を受け取るが――
たったそれだけでフォームが崩れる。
「……重い……。」
「当たり前だ。
その“重さ”を制御することで、剣は初めて
"武器"になるのだからな。」
その様子を見て、ミネが後ろでぱんぱん手を叩いた。
「お〜〜! セラちゃん可愛い! 初心者って感じだね!」
「ミネ、黙れ。」
「ひどっ!」
ミネの騒ぎを無視し、ウォーレンスはセラの背後に立ち、構えの角度を修正する。
「肘を締めろ。肩の力を抜く。
重さを“支える”のではなく、通り道を作るんだ。」
セラは息を整え、真剣に木刀を握りしめた。
「……こう?」
「まだ固い。」
「これでどう?」
「全身を軸としろ。」
「……こう?」
「……余計に固くなっている。」
そんな二人を見て、ミネは呑気に笑った。
「ウォーくんって、教えるの上手いんだね〜。
表情は相変わらず固いけど!」
「ミネ、黙れと言ったはずだ。」
「おわー怖い怖い〜。」
ウォーレンスの稽古は厳しかった。
けれど、決して理不尽ではない。
セラは必死に食らいついた。
何度も構え直し、何度も肩で息をする。
ウォーレンスは淡々と指導し、剣術から足の運び方、重心の移動方法など、様々な戦闘技術を彼女へと教えこんでいった。
***
ーー月日は流れ、再び秋が訪れる。
色づいた紅葉が、訓練場の上空を静かに舞っていた。
風が吹くたび、梢がかすかに揺れ、赤い葉がひとつ、またひとつ落ちていく。
ウォーレンスはそれを見上げながら、ひとり空を仰いだ。
「……覚悟はしていたが……痛いものだな。」
その声は、驚くほど静かでーー自分のものとは思えないほど弱かった。
彼の母親は、傷を負っていた。
それは、王家を守るために戦った証であり、治らぬ病に伏すこととなった原因。
そして今日、安らかに、けれど若くしてーー
彼女は彼岸へと足を進めた。
剣を握る手の震えが止まらない。
けれど、涙は出なかった。
泣けるほど器用な人間では、なかったから。
「……ウォーくん。」
ふと背後から声がした。
振り返ると、ミネが立っていた。
彼女は変わらず笑っていた。
けれど、その表情はとても切なく、寄り添うように暖かかった。
「……おばさま、とても優しい人だったね。」
ウォーレンスは言葉を返さず視線を逸らした。
長いやり取りの中で、少女は初めてーー
逆奪者の現当主を、話題にした。
ミネは、ウォーレンスに会うために訓練場へ来ていたわけではなかった。
逆奪者の次期リーダーとして、病に伏す"彼の母親"を気遣い、顔を見せに来ていたのだ。
ミネの笑顔の裏側に、どれほどの責任と重圧があるのか。
それを、ウォーレンスは誰より知っていた。
だからこそ、彼は黙っていた。
ーーその理由はひとつだけ。
彼女がこの場所に居る間だけは、“王”でも“責任者”でもなく、ただの少女としていられるようにするため。
不器用で、言葉足らずで、寄り添うことすら下手なくせにーー
彼女を追い出さず。
距離も置かず。
ただ静かに、その存在を受け止め続けた。
何度季節が変わってもーー
"ミネ"が、笑顔で居られるように……
王子はずっと、その“居場所”を守り続けていたのだ。
肌寒さが二人の沈黙を駆け抜けた。
ミネの外套が風に揺れる。
落ち葉が一枚、彼女の足元へ舞い落ちる。
「ーーもう、行くね。」
静かだった訓練場に、彼女の声だけが柔らかく落ちた。
その静寂は、
“新たな王”のその一言によって断ち切られる。
才能という名の重荷を背負い、
これから逆奪者を率いていく少女。
ーーだが。
彼女は訓練所で、一度も剣を振らなかった。
木刀にも触れず。
構えすら取らず。
ただこちらを見つめ、ひたすらに笑っていただけなのだ。
ウォーレンスは小さく息を吐き、低く告げた。
「……ミネ。
お前はーー“戦うこと”が好きではないのだろ。」
彼女は背を向けたまま、風の中で足を止めた。
返事はない。
けれど、言葉より雄弁な沈黙があった。
その背中が震えもしないことが、
ーーウォーレンスには、何よりも確かな肯定に見えた。
「……ならば、お前は戦わなくていい。」
冷たい風が頬を撫でる。
彼はわずかに拳を握りしめ、宣言するように続けた。
「俺が、お前の代わりに……
すべての戦いを背負う。」
その言葉を飲み込むように、ミネは静かに振り返った。
涙も、悲しみも見せずーー
ただ、あの無邪気で強い笑顔だけを浮かべながら。
「……待ってる。」
ただ一言
短い言葉を、秋の夕空に落とした。
母の思いも。
少女の願いも。
背負うべきものは、すべて理解した。
ーーだからこそ、彼は拳を掲げた。
己の決意を示すために。
少女の笑顔を守るために。
全てを背負って、立つために……。
沈む夕陽の下で、影が伸びる。
その影が、彼の覚悟を肯定するように揺れた。
ーーだが……
「……ミネ?」
彼の時間は、残酷に止まった。
再会した彼女の両足は千切れて地面に転がり
片腕も失われていた。
ーーあれほど輝いていた瞳すら、もう存在しなかった。
「…………ミネェ!!!!」
風が吹いた。
だが、外套は揺れなかった。
ただ静かに。
壊れてしまった人形のようにーー
彼女はそこに、転がっていた。
けれど、駆け寄る彼に気づいた瞬間。
ーー王は、笑った。
傷だらけで血で染まった頬のまま。
痛みを悟らせないように。
いつもと変わらない、無邪気な笑顔で。
「……ウォーくん? ごめんね……
ーーもう、何も……見えないんだ……。」
世界を紅く染まる夕焼けの下でーー
彼女は柔らかく、微笑んだ。




