51話 『最終遊戯《エンド・ゲーム》』
ーー"藍の瞳"は、陽に照らされていた。
大きな入道雲が、夏空をゆっくりと駆け抜けていく。
眩しさに目を細めながら、私はその白を追いかけた。
見上げた青空にキャンバスのように無垢な白。
陽を遮った雲の隙間から、光の粒が煌めいた。
その一瞬の美しさに、私は息を呑む。
そんな私の傍に屈み、
靴紐を結んでくれた“あなた”がいた。
転ばないように。
怪我をしないように。
私と同じ――澄んだ藍の瞳は、やさしくこちらを見つめて光っていた。
けれどーー
あの日の陽射しも、風の音も、声の温度も。
すべてはもう、記憶の中にしか存在しない。
ーーあの“夜空”は、もうどこにも存在しない。
私の姉はーーもう、どこにも居ない……。
***
机の上に、豪勢な料理が並べられていた。
祝福を告げる晩餐の中で――絶望は、静かに音を告げて蠢き始める。
笑顔に包まれていたはずの空間が、突如として静寂に呑まれた。
手にしていたスプーンが床に落ち、金属音が反響する。
「――ノード・キングが襲撃された。」
一つの報せが、祝宴を終焉へと変えた。
反逆者たちの前に、再び“終わり”が姿を現す。
⸻
アーカイヴ・レコーダー / ◆-反逆の記録-◇
︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ 第二章 享楽者編
︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ ︎ -最終遊戯-
︎
⸻
ノード・キングへの襲撃。
華やかな食卓の中、カナンたちは一瞬、耳を疑った。
煌びやかな料理の匂いが、まるで嘘のように遠のいていく。
だが、その言葉は嘘ではない。
報せを告げたのは、他ならぬルド。
その隣で、暗い顔をしたルシェが静かに頷いている。
――それだけで、虚報ではないことを誰もが悟った。
「ノード・キングが襲撃……?
一体、何が起きているんだ。」
いち早く現実を受け入れたリオンが、ルドへと状況説明を求めた。
デブリは自我を持たぬ、ただの死体。
仮に拠点付近を徘徊したとしても――
ノード・キングほどの防衛拠点であれば、容易に迎撃できるはずだ。
だからこそ、“こちらに報せが届く”こと自体が、あり得ない。
おぞましい違和感を感じながらも、食卓に集まった彼らは、静かに答えを待った。
「……襲撃者の反応値は――
"測定不能"だ。」
ルドから告げられた回答は、あまりにも短く、そして不確定。
だが、彼らにはそれだけで十分だった。
観測不能――理応ですら捉えられない、未知の反応……。
この楽園で、そんな存在を示す者はただ一人。
「そう……」
その場に居た全員が息を呑んだ。
「……享楽者が直々に――我々を潰しに来た。」
ルドの声が、晩餐会場を揺るがした。
「……!?」
セラが唇を噛み締め、カナンは拳を強く握る。
各自が動揺に苛まれる中、低い声が号令のように木霊した。
「これより、各ノードの逆奪者を総動員し、作戦を開始する。
各員は出撃準備を行え……。
享楽者ーー
奴の快楽に、終止符を打ちこむ……!」
小さな軍師の言葉は指示となった。
彼の背を追って、カナンたちは決戦の地へと歩み出す。
享楽の支配から――世界を解放するために。
***
襲撃拠点――その外縁部。
即席の司令拠点では、
各地から集結した逆奪者たちが、慌ただしく動き回っていた。
組み上げられたばかりの通信塔が光を放ち、
怒号と指示が飛び交う。
混乱と焦燥が、まるで世界そのものを覆っているかのようだった。
彼らの目的地であり、
強大な生体反応の源でもある、第一拠点。
かつて逆奪者たちを導いたはずの“心臓”は、
今や無数のデブリに囲まれ、
脈動する墓標のように――異様な息吹を放っていた。
拠点に到着したカナンたちは、ルドとルシェと別れた。
「我々は作戦計画を立てる。
数分後には、君たちにも戦地へ赴いてもらうことになるだろう。
今のうちに――覚悟を決めておいてくれ。」
そう告げると、二人は返答を待たずに司令室へと駆けていった。
「ーー覚悟……。
そんなの、とっくに決まってるさ。」
残されたカナンは小さく呟き、視界に広がる“地獄”を目に焼き付ける。
崩れた建造物の隙間には、月明かりに照らされた、無数の人影が揺れていた。
「逆奪者だけじゃなく……市民の姿もあるな。」
隣で同じ光景を見つめていたリオンが、低く答える。
「向こうも――総力戦を望んでいる、ってことか……。」
イヴは悲しげな瞳で、デブリたちを見つめている。
声にならない苦しさが、静寂を伝って世界に溶けていく。
そんな彼らの背後で、ひとりの少女は深淵を見据える。
光を失った空の下、眼帯にそっと手を当てーー
「……お姉ちゃん。」
セラはそっと、呟いた。
***
ーー張り詰めた空気が漂う司令室。
幾つもの通信端末が光を放ち、打鍵音と報告の声が錯綜する。
緊急展開されたホログラムの地図には、赤い警告灯が点滅し続けていた。
反逆者たちは息を呑み、中央の演壇に立つ男を見つめている。
ルド――〈ノード・ルーク〉の小さな軍師。
その声音が静寂を裂き、部屋の空気を一瞬で統率した。
「ーー生と死の境など、もはや存在しない。
一方的な命の“逆奪”――それこそが、この戦の実態だ。」
短く息を吐き、ルドは視線を上げる。
壁面に映る戦場のホログラムが、ゆらりと光を揺らした。
「いくつもの盤面で、同じ光景が繰り返されるだろう。
だが、我々はこの時のために、いくつも牙を研ぎ続けてきた。」
拳を握りしめる音。誰かの喉が鳴る。
カナンもリオンも、その目を逸らさなかった。
ルドの声がさらに低く、鋭くなる。
「享楽者――
今こそ、奴から全てをーー逆奪する時だ!」
瞬間、司令室を包んでいた沈黙が弾ける。
各隊の通信が一斉に開き、赤い光が全ての盤面を照らした。
「目標は――
享楽者の殲滅、ただ一つ!」
轟音のような返答が重なり、
司令室の空気が振動した。
各端末が光を放ち、足音と報告が重なっていく。
“戦場”は今、音を立てて動き出そうとしていた。
だが、その熱を断ち切るように――
乾いた衝撃音が響いた。
全ての視線が、音の発生源へと向かう。
机の上で拳を握りしめていたのは、
ただ一人の少女。
静まり返る司令室の中心で、
セラが立っていた。
「ルド……あなたの作戦は、間違ってる。」
その言葉に、ルドの眉がわずかに動く。
セラは息を整え、続けた。
「まるで――ノード・キング内に残された人々を、見捨てるような言い方じゃない……。」
その一言が、熱に包まれていた司令室を一瞬で冷やした。
誰もが口を閉ざし、ただ二人の論争を見つめていた。
沈黙を破ったのは、ルドの低い声だった。
「……セラ、君はあの施設に――まだ“生存者”がいると思うのか?」
セラは視線を逸らさず、即座に返す。
「生存反応の観測が出来ないのなら、その可能性は十分にあるはずよ。」
短い間。
その言葉の“もしも”を、ルドは静かに呑み込む。
「――“もしも”で戦場を動かすわけにはいかないな……。」
彼の声音がわずかに低く落ちた。
「予測の論点で言えば、生者に擬態したデブリだって、いるかもしれぬのだ。
情に流されれば、次に消えるのは"我々自身"だぞ。」
「それでも……お姉ちゃんを……!」
その言葉は、痛みを堪えた悲鳴のようだった。
司令室の空気が一瞬、凍りつく。
ルドはしばらく沈黙したまま、ゆっくりとセラへ視線を向ける。
瞳には怒りではなく、深い影のような哀しみが宿っていた。
「……助けない、とは言っておらん。」
静かな声が、重く響く。
「だが――優先順位をつけねばならぬのだ、セラ。」
淡い照明の下、二人の視線が交錯する。
情と理。血と信念。
そのどちらも正しいからこそ、世界は残酷に揺れていた。
「――ならば、少数精鋭というのはどうだ?」
低く響く声が、扉の奥から空気を割いた。
その瞬間、司令室の視線が一斉に入口へ向かう。
兵士たちが自然と道を開ける。
そこを、堂々とした足取りで一人の男が進み出た。
「……遅かったな、王子。」
ルドがわずかに目を細める。
「むしろ――早い到着だと褒めてほしいがな。」
無表情な愛想で、ウォーレンスが応じた。
彼の背後には、クイーン所属の精鋭部隊が控えている。
その立ち姿はまるで、戦場に舞い戻った王の凱旋。
司令室の空気が一瞬で塗り替えられた。
「……んだよ、お前も来たのかよ。」
カナンが呆れたように声を上げる。
ウォーレンスは肩をすくめる。
しかしその瞳には冗談の欠片もなかった。
「当たり前だ。
――全ての元凶が、目の前に姿を現したんだ。
殺しに来ない理由などないだろ。」
声は低く、静かに研ぎ澄まされていた。
その場にいた誰もが、言葉の奥に潜む“決意の重さ”を感じ取る。
カナンがわずかに目を細め、短く息を吐いた。
「口先だけじゃなけりゃ、良いけどな。」
「試してみるか?」
一瞬、ふたりの視線がぶつかり合う。
司令室の空気が再び、戦の熱に染まった。
「お、久しぶりです、ウォーレンスさん!」
そんな二人の間に割り込むように、リオンが挨拶を行い、真剣な眼差しで問う。
「それで――先程言われていた“少数精鋭”って、どういうことなんですか?」
「ーー何、身軽で素早い隊員を数人――救助隊として編成するのはどうだという提案だ。」
ウォーレンスは冷静に言葉を紡ぐ。
「全軍を分散させずに済むし、ルドやセラが想定する生存者の数とも整合が取れる。」
理路整然とした提案。
だが、その声音の奥に潜むものを、誰もが感じ取っていた。
――彼自身も理解しているのだ。
ノード・キングに“生きている人間”など、ほとんど残されていないだろうことを。
しかし、彼はなおも言葉を継いだ。
セラの想いを汲み、ルドが現実的に承諾できる線を――冷徹な計算の上で提示する。
「編成は、セラとカナン。
以上、二名だ。」
短く、それでいて決定的な一言。
室内の空気が一瞬で張り詰め、全員の視線がセラとカナンに向けられる。
「あんにゃろ……
また勝手に、俺を指名しやがった……。」
カナンがぼやきながら頭をかく。
短い沈黙のあと、ルドは目を閉じ、静かに息を吐いた。
深く、重たい呼吸。
「……命を、無駄には出来ぬな。」
机の上の図を見つめながら、彼はゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、戦略家としての冷徹さと――仲間を想う確かな意志が宿っていた。
「セラ、カナン。
お前たちを救助隊として任命する。」
声が司令室の奥まで届く。
無駄のない、短い宣告。
「任務はただ一つ――
“生きて帰れ”。……以上だ。」
沈黙が広がる。
その一言は、命令であり祈りでもあった。
やがて二人は頷き、迷いのない目で前を見据える。
「お姉ちゃんは生きてる……必ず、助ける……!」
セラの声は震えながらも、確かな光を帯びていた。
「まぁ、救える命があるなら、手を出さなきゃ後悔するからな……。」
カナンも小さく笑みを浮かべ、覚悟を噛み締める。
その決意を見届け、ルドは深く息を吸い込んだ。
司令室に立つすべての逆奪者へ向け、低く、しかし力強い声で命じる。
『ーー全隊員に告ぐ。
これより、享楽者殲滅作戦を開始する。
奴の力は、デブリと比にならない。
遭遇した瞬間、すぐに距離を取るんだ
そして、一人で相対せずに、援護を呼べ。」
その声は、鋼のように張り詰めた空気を震わせた。
誰もが息を潜め、次の言葉を待つ。
ルドは一拍の沈黙を置き、低く、しかし確かな声で続ける。
「数分後に作戦を開始する。
各員配置につけ。
ーー気を引き締めろ。
これが、最後の決戦となる。
決して、何も……失うな……!」
その一言は、命令であり祈りだった。
視線が交錯する。誰もが己の覚悟を胸に刻んでいた。
静寂を切り裂くように号令が響き、
逆奪者たちは、次々と持ち場へと走り出す。
足音が廊下を満たし、
仄かな光が、彼らの背を押し出すように瞬いた。
――終焉に抗う、最後の戦いが始まる。




