44話 『幕が落ちる、その前に』
灰が舞う。
焼けた床の隙間から、熱気と煙が立ちのぼっていた。
誰もが動けない。
盤上の一手を考えるように、世界は沈黙を保っていた。
その静寂をウォーレンスが破る。
「立て、生きる意思があるのなら、剣を取れ。」
一歩。
その足音だけで、空気が震えた。
灰の中で、止まっていた時間が動き出す。
リオンが息を吸い込み、焼けた盾を握り直した。
逆奪者たち全員が、肩を押さえながら立ち上がる。
彼の――ウォーレンスの言葉によって。
そして、彼も立ち上がった。
灰を払うような、軽い音と共に。
ーーパンッ。
それは、カナンがウォーレンスの肩を軽く叩いた音だった。
「……もうちょっと早く来い。
最初に消されてんじゃねーよ。」
彼の口調は軽いが、その声には確かな安堵があった。
ウォーレンスは短く息を吐き、灰の匂いを肺の奥で噛みしめる。
「命を救ってやっただけ感謝しろ。
……これでも、急いで準備した方だ。」
「てことは……」
カナンが目を細める。
その言葉に返すように、ウォーレンスは告げる。
「あぁ。
ーー準備は、整った。」
直後、通信回線が一斉に開く。
ノイズ混じりの中から、セラの落ち着いた声が響いた。
『各員へ通達。
理層逆位相転換装置による、逆位相空間内の掌握が完了。
これより、全出力をもって、援護を開始する。
ーーあなたたちを必ず守る……!』
灰に沈んでいた戦場が、再び脈動を取り戻す。
虚空へと光が走り、装置群が次々と形を成していく。
まるで“世界の理”そのものが、再び彼らの味方についたようだった。
眩い光が視界を満たし、リオンは思わず腕で顔を庇った。
「な、なんだ……これは……!?」
ルドの声が、機械音のようなノイズを挟みながら届く。
『虚位相砲群。
逆位相空間内でのみ展開可能なーー"仮想兵装"だ。』
逆奪者たちは息を呑む。
彼らの頭上――瓦礫を突き抜けた空間に、
幾つもの巨大な円環が出現していた。
それぞれが緩やかに回転し、中心に光を孕んでいく。
ルシェの声が重なる。
『逆位相掌握領域内のエネルギーを一点に集束。
空間内部での出力安定を確認。
虚位相砲群、構築完了致しました。』
虚空が唸りを上げ、砲群が輝きを増していく。
それは、人間が神の理へ抗うために生み出した――狂気の兵装だった。
***
理層逆位相転換装置。
それは、“理層”と“現実”の位相を反転させ、
空間そのものの情報を書き換えるための装置だった。
この装置によって、逆位相空間内の構造は
“人間側の理”によって部分的に再定義されている。
この装置の能力の一つ、座標単位での位相転換解除。
それは、指定した座標の同調状態を一時的に“解く”ことで、
そこにいる味方を現実世界へと“引き戻す”ことができるというもの。
つまり、敵の攻撃や支配領域を“理の外側”から回避させる――
それが《オルタ・レンズ》を使った、最強の防御理論だった。
ウォーレンスは、この位相転換によって
享楽者の霧から“現実側”へと退避した。
ただし、再び逆位相空間へ戻るためには、
オルタ・レンズとの完全同期が必要となる。
壊すことは簡単でも、作ることは難しい。
装置が空間掌握を完了するまで、
彼は戦場へ戻ることができなかったのだ。
だが今――
全ての同期が完了し、再接続が成立した。
ウォーレンスは再び、“終焉の舞台”へと足を降ろした。
灰の風を纏い、焦げた床を踏みしめながら――
仮想兵装の光に照らされながら、両腕に、理応変換機構を装着して。
その隣でカナンも、黒き刃を構える。
灰の雨の中で、わずかに微笑みながら口を開いた。
『イヴが教えてくれたよ。
お前がまだ生きていること、そしてーーセラと共に終焉を打ち破ろうとしてくれていることを
……。』
その言葉には確信があった。
まるで、すでに彼女の目を通して“見てきた”かのように。
理応変換機構。
その真の特性は――“理層を操作する”力。
記憶の管理者の契約者であるカナンは、
彼女が閲覧した“記憶の断片”を理層波として受信していた。
しかし、その情報は人間の認識領域を越えており、従来の彼では、ただの“ノイズ”として流れ去るだけだった。
だが、今は違う。
レベリアンを通じて理層波を**「概念」から「記憶」へ変換する**術を得たことで、
彼はイヴの記憶――そして、彼女の見た“真実”を理解できるようになっていた。
理を越えた少女の力が、ようやく人間の感情と交わったのだ。
その瞬間から、彼の“迷い”は消えた。
焦りも怒りも、もはや彼の中にはなかった。
あるのはただ、確信。
イヴの声が導いた、終焉を越えるための光。
カナンの冷静さは、絶望の果てで得た悟り。
――理を超えて、心が理を理解した者の姿だった。
『カナン……! リオン……!』
ノード・ナイト司令室。
光の粒が浮かぶ観測空間の中央で、イヴは震える手をかざした。
指先に触れるのは、遠く離れた戦場の映像――
理層を通じて転送される“断片的な記録”だった。
光のノイズが揺らめき、仲間たちの姿が一瞬だけ映る。
焦げた空、崩れた舞台、そして――再び立ち上がる彼ら。
「どうか……」
唇が震える。祈るように手を胸へと重ねた。
彼女の中には確かに“見えている”。
彼らの理層波が、今も絶えず脈打っていることを。
恐怖でも絶望でもない、たったひとつの“生きようとする意志”が。
イヴは目を閉じ、光の海に呟いた。
「どうか!……死なないで……!!」
声は掠れ、涙が頬を伝う。
しかしその瞬間、背後からそっと抱きしめるように手が触れた。
ミネが、イヴの手を包み込む。
その掌は冷たくあったが、母のように優しく、暖かかった。
「もう大丈夫。」
ミネは、穏やかに微笑んで囁く。
「後は彼らに――“反逆者たち”に任せよう。」
光が揺れた。
祈りが希望へと変わり、
そして戦場へ――再び“反逆”の意志が還っていく。
崩れかけた劇場、今もなお灰が降り注ぐその場所では、熱気が滾り視界を暈していた。
ーー最終演目
多くの命を弄び、幾度も幕を上げては閉じてきた“享楽の劇”が、
いま、最後の脚本を演じようとしていた。
観客はいない。
拍手も歓声もない。
あるのは、燃え残った舞台と、立ち尽くす“反逆者”たちだけ。
ウォーレンスとカナンの横に並び立ち、
彼らは刃を構え、終焉そのものへ反旗を掲げる。
その瞬間、耳の奥で通信が弾けた。
『理層波転送、開始。』
セラの冷静な声が響く。
直後、全員の武器へと淡い光が走り抜けた。
刃の輪郭が理層波を纏い、空気が揺らめく。
『貴方たちの武器を媒体に、理応層を構築させた。
これで全員が――空間操作に“抗える”。』
声と共に、戦場の色が変わる。
灰の海に光の筋が射し込み、
反逆者たちは再び、“理の向こう側”へ踏み出した。
息を吐き、剣を握る……。
目を細め、敵を見据える。
舞台の中央ーー
享楽者の双影が、ゆっくりと腕を掲げた。
黄金の蔦が床を這い、壁を登り、
舞台全体へと根を伸ばしていく。
その蠢きは、まるで“世界そのもの”を縫い止めようとしているかのようだった。
やがて、享楽者たちの掌に紫の光が宿り始める。
空間が軋み、音が削がれ、
圧力だけが視界を支配した。
同時刻。
頭上の虚空で、仮想兵装が低く唸りを上げる。
環状の砲群が回転を速め、内部に光が渦を巻いた。
理層波が交差し、空気が火花のように弾ける。
灰色の世界の中――
紫と白、二つの光が、対峙する。
『エネルギー充填、仮想質量、計算完了。
これより、仮想兵装による、砲撃支援を開始します。』
ルシェの声が通信越しに静かに響いた。
その通信に続けるようにミネは命令する。
『作戦は簡潔だよ!
塵も残さず、潰しきる!
奴を……模倣体を、必ずぶっ倒せ!!!』
その合図が落ちると同時に、劇場は震えた。
模倣体たちは掌の紫を収束させ――蔦が天井から床へ、空間を裂くように伸びる。
一方、頭上の環状砲群は白く瞬き、仮想の弾道が虚空に線を引いた。
瞬間――
白い光の矢が次々と降下し、空間の断片を突き刺す。
その衝撃で、舞台の瓦礫が吹き飛び、灰が竜巻のように巻き上がった。
砂塵を駆け抜け、逆奪者たちは刃を掲げた。
焼けた床を蹴り、灰の嵐の中を突き進む。
砲撃の閃光が背を照らし、爆風が外套を裂く。
だが誰一人、足を止めない。
「リオン、カナン、お前たちは右の個体を狙え!」
ウォーレンスの短い指示が飛ぶ。
「前衛隊Bの三人も同じく、右個体へ。
残るC部隊は、俺の後に続け……!」
ウォーレンスは拳を輝かせて、前へと踏み出した。
紅の閃光が腕を包み、理応変換機構が唸りを上げる。
「全砲、照準を合わせろ――!」
通信機から、ルドの明確な号令が響く。
頭上の虚空で、仮装兵装の環が一斉に軋み、
その中心へ光が集束していく。
その砲撃に対応するように、享楽者の双影が動いた。
黄金の蔦が震え、劇場全体が呼吸を止める。
灰が舞い、空気が引き裂かれる。
砲撃と拳、そして無数の刃が――同時に走った。
光が世界を裂き、
紫と白の奔流がぶつかり合う。
それはまるで、“神と人”が交わした、最初で最後の戦争のようだった。
爆風が唸りを上げた戦場で、炎と灰が絡み合い、視界は閃光で焼かれる。
その中を、逆奪者たちは突き抜けた。
爆炎を背に、刃が閃く。
金属の軋み、熱風の唸り、血の匂い――全てが一つに混ざる。
「切り裂け!!!!」
リオンの叫びに呼応し、逆奪者たちの刃が交差する。
白と紅の軌跡が、模倣体の胴を切り裂かんと迫った。
だがその瞬間――
享楽者の蔦が震え、尖端が槍のように鋭く変質する。
紫の光が走り、空気が軋む。
その狙いは一点、心臓。
「遅いな……。」
低く囁くような声と共に、
世界が一瞬、裏返った。
槍が胸を貫く直前ーー
逆奪者たちの姿が霧のように掻き消えた。
的を失った、蔦の槍が床を貫く。
爆発にも似た衝撃が走り、瓦礫が宙に浮いた。
「……っ!? 今のは……!」
模倣体が目を細めたその時、
空気が再び“裏返る”。
目の前に再び兵士たちが現れ、灰を裂くように斬撃が走り、刃が唸りを上げた。
ーーザンッ……!!!
光とともに、鋭利な蔦が切り落される。
断面から赤い液体が噴き出し、空間がひび割れるように震えた。
「位相転換、成功!」
セラの声が、ノイズ混じりに響く。
『リオンたち、B部隊の座標転送完了。
続けてーー』
模倣体の真上から、黒き刃が輪郭を表していく……。
『反逆者の転送を開始。』
ーーザンッ!!!!!!!!!
閃光が奔り、音が遅れて爆ぜた。
セラの声が途切れると同時に、
模倣体の胴が――真っ二つに裂けた。
灰が舞い上がり、劇場全体が震える。
誰もが息を呑む中、黒い刃の残光は終焉劇に歯止めをかけた。
【次回、第二章中編『人形劇』――終幕。】




