41話 『花弁の人形』
ーーそれは、神でも悪魔でもなかった。
花のように咲き、血を滲ませ、黄金のように輝く"快楽"そのもの。
享楽者
彼の存在が劇場に立った瞬間、世界の美と理が崩れた。
「まず一人……。」
低く、柔らかな声。
それだけで、空間の温度が変わった。
焦げた木の香りが消え、代わりに――花のような、甘く鼻を刺す香気が満ちていく。
燃え残った舞台の上に、黄金の花弁のようなものが一枚、ひらりと落ちた。
霧に包まれたウォーレンス。
彼の姿はもうーー
跡形もなく消えていた。
「うぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
リオンが叫び、赫迅刀を振り抜いた。
紅の軌跡が炎のように走り、享楽者の首元を狙う。
だが、その刃は――何にも触れなかった。
風を裂く音が、そこで途切れる。
空間そのものが“凝固”したかのように。
享楽者は、ただ左手を上げていた。
退屈げに掲げた掌ひとつで、光も音も止まり、赫迅刀は宙で――静止する。
まるで“世界の脚本”に、最初から「斬撃」という行が存在しなかったかのように。
攻撃は、まるで見えない手に操られるように空へ逸れた。
それでもリオンは、力を込め続けた。
「……ッ!!!!!」
自分の師とも呼べる男を、目の前で消された。
その怒りは限界を超え、もはや理性の形を失っていた。
そんな彼へと、享楽者はゆっくり顔を傾ける。
花弁のような頭部が音もなく開き、紅の片目がリオンを覗き込む。
「暴力で物語を変えようだなんて――
人間は愛おしいね……。」
微笑ましく笑うと同時に、享楽者の右腕が音もなく蠢き出す。
黄金の装飾が崩れ、内側から黒い蔓が這い出す。
それは筋肉でも血管でもない、“植物のような神経”だった。
瞬く間に腕全体が蠢く蔦へと変質し、鋭い棘が咲き乱れる。
光沢を放ちながら、花弁が裏返ったかのように広がっていく。
「……っ!!」
リオンが息を呑む間もなく、蔓が震えた。
次の瞬間――“音”が遅れて届いた。
凄まじい衝撃が、彼の足元を砕き、壁を貫く。
床を抉りながら伸びた蔓が、蛇のようにリオンの胴を狙いーー
ザンッ!!!!
赫迅刀が宙へ舞う。
劇場に金属音が響き、血の雫が零れ落ちた。
享楽者は見下ろした。
自身へ刃を向けた人間をーー
右腕の蔓を断ち切った、反逆者を……。
「リオン……落ち着け。
……無闇に敵に突っ込むな。
ウォーレンスから、そう習っただろ……。」
リオンの目に写ったのはカナンの姿。
だが、彼の表情には怒りも絶望もない。
ただ冷静な瞳で、敵の姿を視認しているだけだった。
先程までの彼とは別人のように、仲間の死を目の前にしても動じていなかった。
「カナン……
君は、どうしてそんなに冷静なんだ……。」
『解析が完了しました。』
リオンの戸惑いは届かず、ルシェから通信が割り込んだ。
『享楽者の両手からは、極微の周波が発生しています』
それらは、空気の分子運動を“停止”させる性質を持っており、粒子を操作するかのように、"物質"を制御していると思われます。』
ルシェの口からは冷静に、観測結果が告げられる。
通信音声が頭を通り抜け、リオンの視界がぼやけていく。
まるで、他人の記憶を見ているように……
世界へ自分だけ、取り残されたよう気分になった。
誰も“彼”がいなくなったことに言及しない――その沈黙が、耐えがたい違和感となって胸を締めつける。
誰も“彼”がいなくなったことに言及しない――その沈黙が、耐えがたい違和感となって胸を締めつける。
けれど、世界は待ってくれない。
劇場は地下のように暗く沈み、視界はどんどん閉ざされていく。
戸惑いに押し殺されそうなリオンへ、怒号を飛ばすように、ルドが叫ぶ。
『リオン!ごちゃごちゃ考えるでない!
まずは現実を見つめろ!
……立て……!生きろ!
話はそこからだ!!』
(立て……! 生きろ……!)
"彼"の言葉を心の奥で復唱する。
そうだ。
どんな意図があろうとーーここで死ぬ訳にはいかない。
赤き刃を再び手に取り、騎士は構える。
「僕は、生きなければならない……!」
***
視界の先、影が一つ、また一つと起き上がる。
「……やっぱり、使ってくるよな。」
カナンは、信じたくなかった現実を前に、かすれた声で呟いた。
享楽の霧。
それは、研究所で破滅を纏う者が“享楽者の瞳”を介して発生させた同調装置――
死者の細胞を強制的に再構築し、“再生”と“洗脳”を強制的に起こす悪夢の霧。
それを、享楽者自身が使わない理由など、あるはずがなかった。
深い紫の霧が、ゆっくりと劇場を満たしていく。
焦げた木材の匂いに混ざり、どこか花のような甘い香気が鼻を刺す。
「あいつ……また、仲間たちを……!」
リオンが怒りと共に構えを取り直す。
瓦礫の間から、かつての仲間――
“死者たち”が立ち上がっていく。
その眼には、生も死もない。
ただ、享楽者の“支配”が宿っているだけだった。
だが――その光景には、確かな違和感があった。
カナンはそれを見据え、低く報告する。
「ルド……やっぱり予測通りだ。」
「予測どおりって……一体、何がだい?」
リオンは息を詰まらせながら問い返す。
現実を受け入れることも、状況を理解することも――まだできていなかった。
そんな彼へ、説明を飛ばすようにセラがヒントをくれる。
「享楽者本人から出た霧が"紫色"……」
「そして、あいつにあるのは片目だけ。」
ミネが、おまけのようにもう一つヒントを添えてくれる。
だが、少し考えてみても答えは出なかった。
目の前に居る享楽者、それは確かに円形闘技場で見たホログラムと完全に一致している。
「ごめん、何も違いが分からないや……。
僕にはホログラムの享楽者と、同じ姿にしか見えないな。」
リオンは再度、享楽者を凝視した。
異常な技を使ってはくるが、その姿も、その表情もあの時と何一つ変わっていない。
「ーーそれで合ってる……。」
カナンはゆっくりと答えを口にする。
「全く同じで正解だ……。」
<全てがホログラムと同じ>
その言葉でリオンは気づいた。
「まさか!!」
「そう、あいつは……。」
カナンの声が、炎の残滓に響いた。
「ーーヴァルツが作った、再現個体《偽物》だ……。」
霧の中で、黄金の装飾が不気味に光る。
ノイズのように空気が歪み、音が断続的に途切れた。
***
同調周波実験
ヴァルツ・アストレインが行った、享楽者の信号構造の解析。
それは、敵の正体を暴くための観測実験。
だがこの研究で、彼は"理論"という名の快楽へ堕とされた。
ヴァルツはかつて、誰よりも理を理解した、偉大な技術者だった。
しかし彼は、知識の本流ーーすなわち、人知を超えた力へ抗うほどの精神力を持ち合わせてはいなかった。
享楽者と意識を接続したその瞬間、彼の精神は“理解”という名の毒に侵された。
知識を得るたびに脳は快楽を覚え、やがて彼は、快楽へ堕ちた者へと変わってしまった。
理の先へ踏み出した時点で、彼は既に、人として死んでいたのだ。
研究によって残されたのは、逆奪者に同化した裏切り者と、彼に与えられた理論だけだった。
だが、ヴァルツがもたらした知識により、逆奪者たちの研究は大きく進歩した。
彼がもたらした"理論"とは二つ。
『理層』と『理応』
理層とは、〈理=法則〉のさらに外側に存在する"超理的断層"を指す。
物質や概念が持つ『理』を越えた先にある情報層であり、そこに流れる微細な波ーー
それこそが、ヴァルツを堕とした理層波。
すなわち、人知を超えた情報の波である。
一方理応とは、"理に応じる"ための性質や構造、あるいはその適応技術を指す。
理に反応し、対応を行うための「媒体」ーーそれが理応である。
これらの知識を起点に、逆奪者たちは二つの基幹技術を確立した。
1.理層構築制御
・理を超えた物質・情報の構造を、意図的に構築・操作する理論体系。
2.理応変換機構
・理へ対抗するための“道具”であり、理層構築を発動させる鍵。
・この機構を通じ、使用者は「理層」に対し限定的な再定義を行うことができる。
言い換えれば
理層構築制御は「法則を書き換える技術」
理応変換機構は「それを行使する道具」だ。
しかし、敵である逆奪者に対して、享楽者はなぜ情報を与えたのか。
その答えは――いま、彼らの目の前にあった。
『享楽者。』
ルドの声が、重く空気を叩く。
『やつの本当の目的は――』
誰もが息を呑む。
『再現個体の量産だ。』
無線越しのその言葉が、焼けた劇場に染み込んでいく。
そして――音が、鳴った。
ギィ……ギギギ……。
舞台の残骸の上、焼け焦げた死体がゆっくりと動き始める。
皮膚が理層波に反応して淡く光り、
まるで命そのものを“複製”するかのように蠢いていた。
――木霊する無線のノイズとともに。
“人形劇”は、最後の幕を上げた。




