28話 『コラプスの悪魔』
享楽者の“支配”は、霧から始まる。
彼の生体器官から放出される微細な粒子――
それは吸い込んだ人間の肉体細胞を“同調状態”へと導く。
神経伝達を乗っ取り、細胞を掌握し、
やがて享楽者の意思に合わせて“動く肉体”へと変えていく。
けれど、人間の精神とは、そう容易く屈するものではない。
脳は常に自己を維持しようと抗い、
外部からの支配信号を“拒絶”する防壁を持っている。
だからこそ、彼は“快楽”を利用した。
霧を吸い込んだ者に多幸感と安堵を与え、
脳内の抑制領域を麻痺させることで、意志の抵抗を削ぎ落とす。
――まるで、自ら進んで楽園に堕ちていくかのように。
この霧はエデンの街に薄く広がり、
ゆっくりと、けれど確実に、住民たちを侵食していく。
快楽に呑まれ、意志を失った肉体を、
同調させ、操り、朽ちるまで使い倒す。
たとえその身体が、すでに死んでいようとも。
それが、享楽者の“支配原理”である。
――そして今、
その“支配原理”が、現実として形を成していた。
目の前のそれは、もはや“デブリ”と呼ぶには余りにも異形。
寄せ集めた死骸の集合体ではない。
これは、享楽者――〈ヘドニスター〉の脅威そのもの。
胸部に埋め込まれた巨大な瞳が、脈動を打つたびに開閉し、
そこから紫色の霧が、鼓動を刻むように放出されている。
まるで“呼吸”するかのように、
霧は生き物のように膨らみ、
周囲の死体を包み込みながら、再び動かしていく。
セラはその光景を見据え、
わずかに息を呑んだ。
「これが……
“享楽の霧<エクスタシア>の発生源”……。」
落ち着いた声で呟く彼女へ、通信が走る。
『セラ、聞こえるか。こちらでも異様な反応を確認している。』
ルドの声が重く響いた。
『濃度値が君の付近で、跳ね上がった……
ここまで大きな反応なら、確認するまでもない。
――奴が原点だ。』
一瞬の沈黙。
スクリーン越しの彼の声が冷たく硬化する。
『視認個体を、破滅を纏う者と命名。
最終目標は、やつの駆逐、及び消滅とする。』
セラは短く息を吸い、霧の中へと視線を凝らす。
「了解……
対象、《コラプス》の殲滅を開始する。」
ーーセラは短剣を逆手に持ち、根元へと指を滑らせた。
刃の継ぎ目が淡く光り、金属音を立てて展開を始める。
空気が震え、霧の中に電子音が混じる。
『応答確認――』
柄の内部を走る光が一筋、心臓の鼓動のように点滅する。
刀身の接合部がわずかにずれ、機構が連鎖的に起動した。
カチリ、カチリ――
刃が連鎖する解錠音とともに伸び、
金属が花弁のように開いていく。
圧縮された重力子が芯を走り、
短剣の輪郭が流体のように滑らかに歪む。
その様は、まるで理をなぞる数式が形を得ていくかのようだった。
《Mode:Grim Reaper》
次の瞬間、刃は弧を描いて広がり、
銀と漆黒の曲線を持つ大鎌へと変貌する。
黒鉄の刃が霧を切り裂き、月光のような反射を放った。
セラは静かに息を吐く。
「――分断せよ、リ・メリオッド……!」
ーー侵入者を目掛けて拳を掲げた、コラプスの巨体。
その内の一体が、わずかに震えたかと思うと、
次の瞬間には百の断面となって四方に飛び散った。
切断線は滑らかで、まるで理の定規で測ったかのように正確だった。
セラは呼吸を整え、血飛沫を避けるように後退しながら通信を開く。
「ルド……やっぱり……
ーー死なない。」
セラは刃についた血を軽く払う。
霧の中、無数の肉片がうごめき、再び一つに戻ろうとしていた。
彼女は冷静に報告を続ける。
「切断箇所から即座に再生……速度も異常。」
返答の代わりに、通信越しで複数の解析音が重なる。
ルシェの指が端末を叩く音、ルドの低い息遣い。
『……了解。
少なくとも、波形から、通常デブリの二百倍以上の再生速度は確実……
データを集め続けろ、破壊方法に関してはーー』
『……待って、ルド。』
記憶を辿ったイヴが、震えながら声を出した。
「…………。」
ルドは途中で指示を辞めて、言葉を待つ。
『この反応……“同じ”。』
ルシェが眉をひそめる。
『同じ……とは……何がですか?』
イヴは目を閉じ、霧の向こうに広がる感覚を探るように言葉を紡ぐ。
『二つあるようで、ひとつ。
ふたつの肉体の奥に、同じ“記憶の響き”を感じる。
まるで、同じ魂が、二つ存在しているみたい。』
「同じ魂……」
ルドは眉間に指を当て、無言で考え込んだ。
端末に走る波形、ルシェの解析データ、再生するデブリ、そしてイヴの言葉――
そのすべてを一瞬で繋ぎ合わせて、低く呟く。
『……なるほど。』
ルドは顔を上げた。
瞳が淡く光り、声に確信が宿る。
『理解した。
――あれは……二体ではない。』
ルシェが驚き、データを見返す。
「まさか……!!」
『奴は"一個体"だ
"二分割"されただけのな……。』
ーー生命の二分核。
それは、享楽者が生み出した禁忌の生体構造である。
本来ひとつであるはずの“生命核”を、強制的に二分し
互いに欠損を補い合うよう、再構築された存在。
個体Aの神経核が停止すると、個体Bの神経網がその死を拒絶し、
欠損情報を“再生信号”として転送する。
すると、破壊された肉体は、もう一方の神経指令を介して復元される。
すなわち――どちらか片方を破壊しても、もう一方がその死を“修復”する。
この循環が続く限り、完全な死は訪れない。
死を拒絶し、崩壊すらも保とうとする生命。
それは、アルゴリズムの駒である、彼ら支配者の“永遠の安寧”という思想を、最も醜悪な形で体現した存在だった。
ーールドの言葉を受け、司令塔の中に一瞬の静寂が落ちた。
それを破るように、ルシェが冷静な声で通信を送る。
『セラ様、解析が完了しました。
コラプス双方に循環信号を確認。
……片方を倒すだけでは、もう片方が死を拒絶します。』
セラの眉がわずかに動く。
『欠陥を補うように、互いの神経核が連結しております……。
どちらかが欠ければ、残った方がその欠損を“再生”として処理する構造です。』
ルシェの指が端末を叩き、続ける。
『つまり、そのループを断ち切るには……』
通信越しに、セラの声が静かに被さった。
「――同時撃破、か。」
沈黙。
言葉を交わさずとも、答えを認識させた。
『解析班より補足。
敵個体の再生限界は確認できず。
一撃で“完全破壊”を行わなければ、ループは続行されます。』
司令塔は情報を収集し、新たな事実を導き出す。
だがその答えは、彼らにとって、必ずしも希望とは言えなかった。
ーールドの声が、通信越しに穏やかに響いた。
『……セラ、聞こえるな。
状況は全て伝えた。
あの瘴気の濃度では、一撃の攻撃が致命傷となる。
防護服が破れれば、君の命は保証できない。
一時撤退し、別ルートからの攻略に切り替えることもできる。』
短い間があって、彼は言葉を続ける。
『……君の判断を仰ぐ。
覚悟を……聞かせてくれ。』
霧の奥、セラは黙って刃先を下ろし、
血のように濃い紫の空気をゆっくりと見渡した。
「ルド、あなたはいつも回りくどい
他人の命を賭ける時だけ、指示を言いきらなくなる。
……"撤退しろ"と言わないなら、何か、策があるのでしょ……。」
「…………」
ルドは、答えなかった
しかし、その口角は上がっていた。
霧の奥で、セラはわずかに息を吐き、
鎌の柄に指を添えた。
「言って、私は何をすればいい?」
現在時刻――研究所・地下 中層部
焼けた鉄と血の匂いが混じる空気を切り裂き、
カナンとトルヴァは、瓦礫を飛び越えながら駆け抜けていた。
『以上が敵の正体だ……理解したな。』
無線越しにルドの冷徹な声が響く。
「って言われてもな……。」
カナンは短く言い放ち、床を蹴る。
その横を併走しながら、トルヴァも疑問を告げる。
「でもルド様……防護服無しでは、深層部には進めませんよね……
僕たちは何をすればいいのでしょうか……?」
その問いにルドが答える。
『命令は既に通達してある。
目標は依然変わらず、"霧の発生装置"の破壊だ。』
深層で蠢くコラプスは、その保護装置に過ぎない。
お前たちの役割は、装置の“駆動”を止めるための一撃を通すことだ。』
目標自体は通達されている。
けれどそのためのビジョンが見えない、そんな二人の沈黙を断つように、ルドが指示をだした。
『そこでいい、止まれ。』
カナンは不満げに唇を噛み、だが素早く床の破片を蹴って姿勢を整えた。
眉をひそめ、足を止める。
「止まれって言われても……何もねぇぞ、ここ。」
彼の苛立ちに返すように、落ち着いた声が届く。
『だから“そこ”なんだ。』
その裏には、微かな期待の響きがあった。
トルヴァは目を丸くして周囲を見渡す。
中層は狭く、天井から垂れた配管や破断した鉄片、斜めに刺さった鋼板が散らばっている。
しかし、暗闇の先にはコラプスどころか、敵すら見えない。
「でもここからじゃ、やつに届く武器なんてないですよ……」
その返答を期待したかのようにーー
『あるではないか。』
ルドの声が、僅かに笑みを帯びる。
『――そこに、“反射する弾丸”が。』
カナンは無言で立ち止まり、ゆっくりと銃を握りしめる。
霧が流れ、湿った鉄の匂いが鼻を刺す。
敵どころか、突き当たりの壁すら暗くて見えない。
反射壁を適切な角度、位置で置くだけではない。
道中のデブリや、突き出した岩を避けつつ、最深部へと通過させなければならない。
「……ずいぶん無茶な事言うな……」
カナンの呆れ声に、ルドはあくまで淡々と答える。
『二十メートル先、右斜め――七十二度だ。』
「……は?」
唐突な数字にカナンが顔をしかめる。
『一反射目の角度だ。』
少し間を挟んで、低く続ける。
『四反射までのデータを送る。
……指示があるまで撃つな。』
彼の声は、静かに研ぎ澄まされていた。
数値の羅列に、揺るぎない“確信”が滲む。
「まてまて、やるとは言ってねぇぞ。
視認外での反射なんざ、成功例もねぇんだ。」
ルドは、わずかに笑ったような息を漏らす。
『……だろうな。
……だが、お前はやる。』
「はぁ?」
カナンは首を傾げた。
息を吸い込み、ルドは告げる。
『見せつけてやるのだろ?
お前の“正しさ”というものを……。』
沈黙。
通信の向こうで、機械の駆動音だけが響く。
カナンの口元が引きつり、歯を鳴らす音だけが残った。
「……あーはいはい、わかったわかった。
見せてやるよ……反逆者の正しさってやつを……!」
彼は舌打ち混じりに息を吐き、
銃口を少し傾け、暗闇の一点を見据えた。
『では……反射角度を通達する。』
ルドの冷めた声が、数字の羅列を再度告示する。
『ーー初めの角度は二十メートル先
右斜め七十二度。
続けて二反射目、十五メートル先
左へ九十度、直角。
デブリを避けて通過させろ。
次に、三反射目、十八メートル先
瓦礫が通路を塞いでいる。
天井の隙間から撃ち通す。
上方向に二十センチ調整後
即座に同じ高度へ、軌道を戻せ。
そして、最後の四反射目……
通路の距離が長い、三十メートルだ。
薄い角度で左右に反射させつつ、弾速を維持しろ
その後、右斜めに三十度に、大広間へと続く通路がある。
そこを通せば、あとはセラが敵を誘導する。』
「おいおい、細かすぎだろ……」
カナンは苦笑を漏らす。
だが、脳裏には一筋の“軌跡”が浮かんでいた。
壁、鋼板、配管、瓦礫を抜け――すべてを貫く線が。
『反射タイミングは、無線で指示する。
通信時のタイムラグは、こちらで調整を行う。
お前は、指示が聞こえた瞬間に、角度を合わせて反射させろ……!』
カナンの頭に、反射角度が反芻される――
右斜め七十二、
左直角、九十度、
上下、二十センチ、
左右反射によって加速後、右斜め三十度。
全ての点を経て、ひとつの線となる軌跡。
『大広間でセラは交戦中だ――』
ルドの通達。
冷えた指令が、緊張で張り詰めた空気に火をつけた。
『――即弾させろ。』
引き金を弾く。
霧の奥――破滅を纏う者へ目掛け
遠隔射撃が、始まった。
セラの専用武器
理現する生命構造<リ・メリオッド>は
彼女自身の手で開発された、多段階式 分解装置です。
モード変更音声はセラの趣味。
状況に応じて「短剣」「刀剣」「大鎌」の三形態へ変形し、
それぞれが機動力・リーチ・威力に特化しています。
「短剣」 Mode:Assassin
機動力と連撃性能を重視した、近接特化形態。
デブリなどの雑魚敵の殲滅に向く。
軽量構造により、瞬発的対応が可能。
刀身もコンパクトなため、セラは通常この形態で携行している。
「刀剣」 Mode:Slayer
リーチと精度を両立した、中距離形態。
攻防の切り替えに優れ、技量を要する対人戦闘に最適。
操手の練度が高ければ、戦況を左右するほどの潜在性能を秘めている。
「大鎌」 Mode:Grim Reaper
重量と出力を極限まで高めた、高威力形態。
主に強敵や、大型個体への決戦兵装として、運用される。
殲滅力は全形態中最強だが、反動が大きく、防御も出来ないため、扱いがかなり難しい。




