20話 『眼帯の少女』
散らばる群衆の声が、残滓のように耳に届いた。
「……見たことあるぞ、あの眼帯のガキ……」
「そうだ、指名手配の……間違いねぇ!」
けれど誰も、少女の行方を追わない。
やがて群衆の熱気は、嵐のように広がり、そしてあっけなく散っていく。
カナンは反芻するように呟く。
「指名手配……」
リオンが驚いたように振り向く。
「じゃあ、あの子は……犯罪者……?」
イヴは静かに首を振った。
「……真実はまだ分からない。
だけど、彼女がただの住民じゃないのは間違いない。」
騒動の中核が消えた瞬間、人々はまるで「見世物の幕が下りた」とでも言うように、再び笑いと音楽の中へと溶け込んでいった。
転がった野菜や果物を拾い集める者はいない。
潰れた匂いだけが石畳に残り、人々の意識は別の賭け事や宴へと移り変わっていく。
それは、ほんの一幕――そう、この街にとってはいつもの余興に過ぎなかった。
ーー陽が沈むころ。
街の一角にある食堂の灯りが、温かな影を路上へ落としていた。
香ばしい肉の匂いと焼き立てのパンの香りが漂い、外の喧噪とは違う穏やかな空気が広がっている。
三人は席に案内されると、湯気の立つ料理が次々と卓を埋めていった。
焼きたての肉に、香草の香り漂うスープ、ふわりと膨らんだ白いパン、そして甘い果実酒。
「……うわ、なんだこれ。」
カナンが思わず目を見開いた。
旅路で口にしてきたのは、干し肉や固い黒パンばかり。
それに比べれば、この食卓は夢のようだった。
肉を頬張れば、じゅわりと旨味が広がり、赤い葡萄酒の香りが鼻を抜ける。
冷えた身体に温かいスープが染み渡り、久しく忘れていた“満たされる”感覚に思わず三人は久しく癒された。
リオンは匙を手にして笑みを零す。
「旅に出てから、こんな豪勢なのは初めてだな……。」
イヴはパンを裂きながら、柔らかに微笑む。
「……カナン食べないなら、そのパンちょうだい!」
「最後まで取ってるんだ!
パンを食べながらパンを欲しがるな!」
「最後まで取ってんだ!
パンを食べながらパンを欲しがるな!」
カナンが慌てて皿を引き寄せる。
その様子にリオンが肩を揺らして笑った。
「はは……君たち、こういう時だけは本当に仲がいいな。」
「仲良くなんかしてねぇ!」
「仲良くなんかしてないよ!」
二人の声が重なり、三人の卓に思わず笑いが広がった。
ーー食事を終えた三人は、それぞれの前に残された飲み物を手にしていた。
リオンはカップをゆっくり回し、イヴは温かな紅茶をすする。
カナンは背もたれに身を預け、エデンの名物とされる林檎酒を一口含んでから口を開いた。
「……そろそろ本題に入るか。」
カナンは杯を卓に置き、二人に視線を移した。
「楽園〈エデン〉……この街は明らかに異常だ。」
カナンは低く呟いた。
「笑ってやがる顔はどれも同じだし、裏路地には死人みたいなのが転がってる。
まるで光と闇が同居する格差社会だ。」
リオンは腕を組み、真剣な眼差しを向ける。
「……確かに。あんな光景、普通の街じゃありえない。
まるで“幸福を強制されてる”街のようだ。
その癖に、明らかに使い捨てされたような人間も見える。」
「何より異常なのは、誰一人としてこの幸福に“疑問”を抱いていないことだ。」
カナンは別の席で笑う住民達を見る。
「むしろ、街での騒動を煽るように、盛り上げて、秩序の崩壊や、暴力でさえも快楽として受け入れているように見える。」
リオンは眉をひそめ、低く答えた。
「……つまり、この街にとって暴力や死でさえ“娯楽”ってわけか。
正気じゃない。」
会話が行き詰まった
その空白を打ち壊すように、イヴが、記憶の図書館<ライヴラリ>から意識を戻した。
「喧騒の中で聞いた"スティーラー"について、調べてみた」
二人はイヴを見つめ、黙って話を聞く。
「彼ら"逆奪者"と呼ばれるこの街の反乱組織。
それは楽園<エデン>の支配、つまり享楽者の快楽へと抗い続けるもの達の総称。」
「待て、反乱軍だと…?」
カナンが口を挟む。
「アルゴリズムの駒である四柱は、自らの正しさによって街を支配し、統治するんだろ?
ならなんで、享楽者が快楽で安寧を保っているこの街に、反逆因子が存在するんだ?」
イヴは小さく息を吐き、視線を伏せた。
「――本来なら、あり得ないこと。
アルゴリズムによって記録は補正され、異物は排除される。
それが“楽園”を維持する仕組み。
今確実に言えるのは、彼ら"逆奪者<スティーラー>"は、この街の秘密と隣合わせの存在だということ。」
カナンは眉をひそめ、椅子の背にもたれた。
「……秘密、ね。
なら、そいつらを追えば、この街の真相に辿り着けるってことか。」
リオンは腕を組んだまま、静かに首を振る。
「だが簡単には近づけない。
“逆奪者”を名乗る連中は、指名手配犯とされ、民から恐れられている。
それに彼らが何を目的として、何をしているのかすら曖昧なままだ。」
逆奪者ーー
それは恐怖か、あるいは希望か
三人には判別できなかった。
「とりあえず、まだ知らないことが多すぎる……
イヴに情報を集めてもらうためにも、引き続きこの街を調べないとな。」
カナンが、席を立つ。
その後を追って二人も店を出た。
通りに出ると、夜の街はなおも賑わいを見せていた。
笑い声、叫び声、楽器の音――すべてが同じ調子で混ざり合い、耳障りなほど明るい。
三人が通りを歩き始めたその時――
夜空を切り裂くように、轟音が響いた。
ドンッ――
赤と金の火花が弾け、街全体を照らし出す。
群衆は一斉に歓声を上げ、笑顔で空を仰ぐ。
それは単なる花火ではなく、まるで“祝宴”を告げる合図のようだった。
カナンは足を止め、眉をひそめる。
「……なんだ、祭りでも始まるのか?」
だが、時間としては夜20時頃
街の光によって星一つも見えないが、空は黒く幕を下ろしていた。
祝祭の開始合図にしては、遅すぎる。
その声を聞いたのか、街の住民が声を掛けてきた。
「なんだ、あんちゃん知らないのかい
あれは闘技祭の勝者が決まった、フィナーレの花火だよ。」
住民は、口角を引きつらせるように笑った。
「勝ったやつは“享楽者”のお膝元に招かれるんだ。
そりゃもう、最高の誉れさ。」
その瞳は輝いているはずなのに、どこか濁っていた。
「闘技祭の参加にはVIPチケットが要るけど、見学なら自由だ。
あんちゃんもせっかくなら、"コロッセオ"へ行くといいぜ。」
そう言って、住民は群衆に紛れるように立ち去っていった。
残された三人の耳には、夜空を裂く花火の余韻と、街の笑い声が不気味に混ざり合っていた。
「闘技祭、コロッセオ、そして、享楽者……」
リオンは住民から聞いた情報をまとめる。
「この街の住民からしたら、生死を賭けた戦いすら、娯楽の一部らしいな。」
街の異常さを改めて知るカナン。
「けれど、享楽者へと近づく方法
その一つがわかったのは大きい。」
イヴの言葉に二人は頷いた。
「参加するには"VIPチケット"?ってのが必要みたいだけど、観戦は誰でもできるみたいだね……」
リオンは口元にわずかな皮肉を浮かべた。
「……命懸けの見世物を、観客席から拝ませてもらえるわけだ。」
カナンは視線を花火の残光から地上へと戻した。
「けれど、享楽者に近づく手がかりの一つだ、どれだけ、気味が悪かろうが、行くしかないだろ。」
握った拳を見つめ、静かな覚悟を決めていた。
「……とりあえず、派手な通りは、もう十分だ。」
リオンも頷き、静かに剣の柄へ手を添える。
「そうだね、表参道は大体調べ終えた。
あと詳しく調べていない所といえば……。」
イヴが小さく視線を伏せ、答える。
「……裏路地。」
異質さを放つ、楽園の暗い影。
その闇は、幸福と言う名の光と横並びにあるせいか、より異端さを証明していた。
カナンは吐息を混ぜて笑い、顔を上げた。
「決まりだな。」
三人は煌びやかな通りを背に、闇の深い路地へと足を踏み入れていった。
ーー足音が、湿った石畳に鈍く響いた。
光の届かない路地は狭く、頭上に垂れ下がる布や錆びついた鉄板が、月明かりさえ遮っている。
鼻をつくのは、腐敗した果実と血のような匂い。
壁には不自然に笑う顔の落書きが幾重にも重なり、そのいくつかは上から黒く塗り潰されていた。
だが塗り潰された跡さえも、まるで誰かの“手直し”で再び笑っているように見える。
風が通るたび、どこからともなく紙吹雪のような欠片が舞い落ちてくる。
拾い上げてみれば、それは破り捨てられた写真の断片だった。
そこに写っている人々は皆、同じ笑顔を貼り付けている。
路地の奥には、気配だけが沈殿していた。
よく目を凝らすと、壁にもたれかかる影がある。
人影――だが、そのほとんどは動かない。
ある者は地面に倒れ込み、ある者は膝を抱えてうずくまっている。
息をしているのかどうかさえ判別できないほど、気力の抜けた姿。
わずかに揺れる胸や震える指先が、かろうじて「まだ生きている」と知らせていた。
人数は多くない。
それでも沈黙の重さは、群衆の喧騒よりも圧倒的だった。
誰も声を発さず、誰もこちらに視線を向けない。
ただそこに“置き去りにされた存在”として、静かに沈んでいる。
三人は歩みを緩め、路地に横たわる人影を横目に進んだ。
カナンが低く呟く。
「……まるで、抜け殻だな。」
リオンは視線を巡らせながら、慎重に歩を進める。
「生きてるはずなのに、死んでるみたいに静かだ……。」
イヴはわずかに目を伏せ、言葉を置いた。
「幸福を唄う街で、どうしてこんなに人が……。」
沈黙が三人を包み込む……
ドサッ――。
そんな静寂の中で、唐突に響いた音に、三人は同時に顔を上げた。
暗がりの奥で、一つの影が崩れるように地面に倒れ込んだ。
「……人か?」
カナンが眉をひそめ、慎重に目を見張る。
路地に横たわるのは、痩せこけ、ボロ布のような衣服を纏った人間だった。
うつ伏せに倒れ、手足は痙攣したようにわずかに動いている。
まだ、生きている。
カナンは駆け寄り、そっと肩に手をかけて、体を起こした。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ……!」
起き上げて、上体を支える。
痩せこけた顔がこちらに向いた瞬間、三人は息を呑んだ。
――その表情は、死に際とは思えないほどの満ち足りた笑顔に覆われていた。
口端から血が伝い、虚ろな瞳の奥には焦点がない。
にもかかわらず、その顔だけは“幸福”を刻みつけられたように、崩れない笑みを浮かべていた。
固まるカナンの肩へ、リオンが手を添える。
「……もう助からない。」
リオンが険しくも、悲しい顔で言う。
「……狂ってやがる。」
カナンは"人間だった者"を静かに横たわらせ、低く吐き捨てた。
イヴは地面へと寝かされたものをじっと見つめ、震える声で呟いた。
「まるで、最後の瞬間まで……“笑わされている”みたい……。」
路地裏の静寂が、再び辺りを重く沈める。
遠くで響く祭りの喧騒が、この場を嘲笑うように重なっていた。
目の前の笑みを直視し続けるうちに、胸の奥へと締め付けるような圧迫感が広がっていく。
「……ふざけやがって……何が、楽園だ。」
カナンが吐き出した声には怒りと絶望の入り混じっていた。
その時――。
「動くな……」
背後から少女の冷たい声。
同時に、鋭い金属の感触が首筋をなぞった。
鋭利な刃が首元に熱を伝える。
カナンは息を呑み、僅かに肩を強張らせる。
背後に回った気配は、一人。
だが命を握られる寸前まで気づけなかった。
フードを被った人間は、三人に気配を悟らせず、容易く背後へと回り込んでいた。
リオンが反応し、剣の柄に手をかける。
けれど、その主はナイフを握る手に力を込めて、再度告げる。
「警告はした……次は、本当に切る。」
その声は、冷徹ではあるが、思いのほか若く澄んでいた。
「質問する。
君たちは……ここで何をしていた。」
淡々と彼女は言葉を続ける。
カナンは喉に冷たい刃を感じながら、声を押し殺す。
「……見りゃ分かるだろ。調べてただけだ。」
リオンが踏み出そうとするが、ナイフの刃先がさらに食い込み、彼は足を止める。
「答え方を間違えれば……その喉を開く。」
フードの奥から、少女の冷ややかな声が響く。
「…………」
下手な誤魔化しは通用しない。
彼女の顔は見えないが、フードの下からはこちらを試すような視線が落ちてきているようだった。
沈黙を破ったのはイヴだった。
彼女はゆっくりと前に出て、真っ直ぐにその影を見据える。
「享楽者<ヘドニスター>
快楽で人を操るエデンの支配者
私たちはそれを、倒しに来た。」
イヴが言葉を綴った瞬間、ナイフを握る手がわずかに止まる。
そして、同時に路地を抜ける風が吹き抜けた。
乾いた布がはためき、フードがめくれる。
月明かりに照らされたその顔に、三人は息を呑んだ。
暗めの青い髪に、藍色の瞳
片目が眼帯に覆われど、まだ幼さの残る横顔。
それは昼間、騒動の中心となっていたーー
逆奪者<スティーラー>と呼ばれる少女。
月下に輝く藍の瞳は、無彩ながらも、確かに熱を放っていた。




