17話 『緋色の残響』
世界に合わせた沈黙。
光を織り成す空間に、静かな圧が流れ落ちる。
反逆者と記録者。
彼らの間には、頁のめくれる音だけが永遠を刻んでいた。
だが、その静寂を無視するように、Kは乾いた笑いを零した。
「何かを得るために何かを失う……か。
なるほどな……本の虫らしい理屈だ。
でもよ……
俺からすりゃ一番大事な答えが抜けてんだよ。」
腰に添えた銃を握りしめて彼は吐き捨てる。
「イヴがいねぇ記憶なんざ、俺にとっては答えじゃねぇ!!!
お前はどうなんだ、イヴ……。
“管理者”じゃなくて……お前自身はどうなんだ……!」
静かに本の頁が舞う。
冷たい眼差しで、彼女――は告げた。
「……管理者として……私は、世界を守るために壊されるべきだ……」
その声音は揺らぎなく、千年の理を背負うもののように響いた。
しかし――
次の瞬間、彼女の肩が震えた。
堪えていたものが決壊するかのように、瞳が潤み、声が掠れる。
「……だけど……!私は……」
「私は……っ!!」
冷徹な管理者の仮面が砕け、少女イヴの叫びが漏れる。
「消えたくない……!ここに居たい……!
イヴとして、あなたと……リオンと……
生きていたい……!!!!」
声が図書館の虚空に木霊する。
涙が頬を伝い、管理者の威厳などどこにもない、ただの一人の少女の嗚咽だった。
その肩を、少年はそっと抱き寄せる。
荒れた銃火を潜り抜けてきた腕が、不思議なほど優しく温かかった。
「……答えは初めから決まってんじゃねぇか……」
耳元で落とされた囁きは、力ではなく、確信そのもの。
世界が定めた選択を拒み、少女自身の願いを選び取る――
それは彼の正しさの証。
反逆者は、少女の心にさえ反旗を翻した。
ーー契約とは、力を得る代わりに代償を伴う行為である。
世界の記憶であり、同時に世界そのものである管理者。
記録の管理者は、始まりから終わりまで――すべての記憶を刻み、見届け続ける存在。
それはすなわち、永遠に近い時間を生き続けるということ。
その永劫を共に歩む者。
彼女の眷属となる者は、記憶の力を宿し、管理者から力を分け与えられる。
だが、その代償は重い。
記憶を知る存在として、彼もまた、永劫の回廊を歩み続けることになるのだから。
「ーーこれこそが、記憶の契約。」
水面のような足元に波紋が響く。
Kはしばし黙し、彼女の言葉を噛み砕くように息を吐いた。
「……つまりは、俺も永遠の時間を背負うってことか……。」
イヴは俯く。
人間にとっては重い代償、時間は限りあるからこそ、価値がある。
それは長い時を生きたイヴ自身が一番理解していた。
けれど、彼はゆっくりと口角を上げた。
「……てことは、お前はもう一人じゃないってわけだ。」
イヴの瞳が揺れる。
その言葉は、彼女が望んでやまなかった救いそのものだった。
けれど同時に、それを選ばせてしまうことが怖かった。
「……っ、でも……! 永遠なんて……!
あなたの自由を奪ってしまう……!」
自由を縛られること、それはKが最初から抱いていた信念であり正しさ
反逆者(彼を)彼(反逆者)らしくさせるための唯一のアイデンティティだ。
声が震え、涙が雫となって落ち、波紋に溶けていく。
だがそんな彼女へと迷わずにKは告げた。
「これは、契約でも束縛でも無い」
「俺がイヴと生きたいという選択であり、願いだ。」
Kは彼女の頬に触れ、涙を指先で拭った。
「俺はお前を信じてる。
だからイヴも、俺を…信じてほしい。」
イヴの胸に熱が広がる。
それは永遠という重さをも軽くしてしまうほどの、確かな言葉だった。
「……カナン……
目指すべき理想郷を指す言葉」
「……え?」
唐突な宣告に、Kは眉をひそめる。
「……この契約を結んだ証として、あなたに与える新しい記憶。
――“カナン”。
あなたの、あなたとして生きるための名前。」
彼女の声は、祈りにも似ていた。
名前を"貰った"彼女は、
彼へと名前を"授けた"。
静寂の図書館に、その名だけが残響のように広がる。
彼女の声は、祈りにも似ていた。
名前を"貰った"彼女は、
彼へと名前を"授けた"。
Kは口の中で何度かその音を転がし、そして笑った。
「……へぇ……悪くねぇな。」
イヴは誇らしげに微笑み、少しだけ胸を張って答える。
「当然……!」
ーーその瞬間、白い光が図書館を満たした。
「そろそろ行かないとな」
カナンは未来を見据える。
頁は舞い散る羽のように消え、床も天井も音もなく溶けていく。
「行こう、約束の地へ」
イヴは孤独を手放す
二人を包む図書館の書架が眩い光を放ち、記憶そのものが契約の証として舞い上がった。
ーー光が弾け、現実が戻る。
リオンの視界に飛び込んできたのは、戦場の轟音だった。
ひび割れた床からは蒸気が立ち上り、金属の爪が石を抉る甲高い音が響き渡る。
たった数秒――そう錯覚するほどの一瞬であっても、彼はその空白に強い違和感を覚えた。
「……K……?」
先ほどまで孤立無援に追い詰められていたはずの背中。
その姿が、今はまるで別人のように、揺るぎない光を纏って立っていた。
「よぉ、ボロボロじゃねぇか。……生きてるか?」
Kは振り返り、血に濡れた顔でそれでも笑ってみせた。
その軽口は、戦場の轟音を一瞬だけ忘れさせた。
リオンの目に広がったのは、安堵といつもの反逆者だった。
「君の方が、ボロボロに見えるけど……?」
リオンはその軽口に軽快に返答する。
「強がりやがって。」
Kは鼻で笑い、わざとらしく肩を竦める。
「命の恩人にぐらい感謝した方が、寿命は伸びると思うぞ?」
「恩人ね……」
リオンはちらりと横目をやる。
そこには、手をかざして彼の傷口を淡い光で癒しているイヴの姿があった。
「じゃあ、イヴに感謝だ。」
イヴは、無事なリオンを見て、安堵に頬を緩める。
「はっ、違いねぇ。」
Kは口角を吊り上げながら、どこから持ってきたのか、リオンの剣を無造作に地面へ突き立てた。
金属が床に響き、戦場に一瞬の静寂が戻る。
「……リオン、先に行ってる。」
彼は短く伝達する。
「カナン!気をつけて!」
少女は心配と共に、思いを託すように叫ぶ。
その名を耳にしたリオンは、ふと不思議を覚えた。
「カナン……?…………!
もしかして、それが君の本当の名前かい……!」
カナンは振り返らず、ふっと笑った。
「いいや……」
一拍置いて、低く確かに答える。
「……新しい名前だ。」
ーー戦場に、圧が生まれた。
先ほどまで銃火と剣戟が渦巻いていた広間は、ただ一人の存在によって空気そのものが塗り替えられる。
カナンの足元から立ち上がる光は、反射する銃弾の煌めきではなかった。
それは「記憶の力」――
記憶の管理者と契約を結んだ証。
数多の時代を宿した奔流が、彼の血肉に宿り、反逆者の肩書きを“真の力”へと変貌させた。
監視者のセンサーが赤く瞬き、演算音声が乱れる。
「……ッ……計算不能……数値逸脱……!?
反逆者……何が……
何が、貴様を……昇華させた……!!!」
赤い光が揺らぎ、初めて冷徹さの奥に「動揺」が滲む。
返答はない。
カナンはただ、銃口を上げた。
その先に示すのは、宙に回転し続ける“アンブレラの鍵”――街をリセットする破滅の斧。
「……!!」
狙いを悟った監視者は、機械兵を放つ
けれど、動揺が招いたのか、判断が遅い。
ーー閃光。
弾丸は音を置き去りにし、数百の軌跡を束ねたかのように一条の光となって飛ぶ。
反射も跳弾もない。
ただ、最短で、確実に。
……ガキィィィン!!!
銃弾は回転する斧を貫き、内部構造を粉砕した。
轟音と共に赤い光が散り、斧は無力な鉄塊へと変わり落ちる。
赤い紋様が一瞬にして脈動を止め、空間を覆っていた破滅の気配が霧散する。
「……ッ!!!!」
監視者は存在しない目を開き、反逆者へと怒号を飛ばした。
監視者は存在しないはずの“目”を見開いたかのように、センサーを灼熱の赤で爆ぜさせた。
冷徹な機械音声ではない。
金属を軋ませるような――それは、怒号だった。
「反逆者……!!!
許容限界を超過……削除対象、抹殺!抹殺!抹殺抹殺抹殺抹殺抹殺抹殺抹殺!!!」
その声は街全体を震わせるほどの圧を帯びていた。
演算による最適解ではなく、もはや“破壊衝動”そのもの。
巨大な躯体が揺れ、監視者が足を伸ばすーー
事は無かった。
正確には出来なかった。
監視者が伸ばした片足は、既にカナンの銃弾によって撃ち抜かれていた。
監視者の巨体が一瞬、ぎくりと硬直する。
「……演算外……!?不可解ッ……!」
センサーが赤から蒼白へと点滅し、制御不能の警告が奔流のように響く。
カナンは煙る銃口を傾け、ただ静かに吐き捨てた。
「もう一度言う。
見せてやるよ、今から反逆者の正しさってやつを。」
アンブレラの鍵だった残骸が、地面に崩れ落ち、轟音を鳴らした。
ーー斧の残骸が火花を散らしながら転がる。
広間を震わせていた赤紋が、まるで糸が切れたように揺らぎ、次第に収束していった。
「……記録……リセット……不可……」
監視者の声はノイズ混じりに掠れ、理性を欠いた呻きへと変わっていく。
「許容……限界……最適解喪失……」
巨躯がよろめき、センサーが赤く瞬いた。
だが次の瞬間、全身の装甲が軋みを上げ、無理矢理に演算を再稼働させる。
「……抹殺……ッ!!!」
それは最適解でも演算でもなかった。
ただ最後に残された“破壊衝動”だけが、反逆者へと牙を剥いた。
「……補填開始……。」
ノイズ混じりの声と共に、監視者の背後で機械兵たちが赤い光を迸らせた。
次の瞬間――
獣型の脚が断ち切られ、火花を散らしながら監視者の膝へと融合する。
虫型の分厚い装甲はねじ曲がり、失われた左肩に取り込まれ、巨大な盾腕へと変貌する。
最後に人型の剣が引き抜かれ、斧の残骸と共鳴するように歪に溶け合い、禍々しい大剣となった。
「……演算外補填……強制融合……」
軋む金属音と共に、監視者の巨体は再び立ち上がる。
それは最適解ではなかった。
ただ生き延びるために、残された部品を無理矢理に繋ぎ合わせた「異形」。
「抹殺……抹殺……抹殺……!!」
センサーが血のように赤く輝き、全身が怒号のように震えた。
ーー監視者は演算を捨てた。
赤いライトは狂ったように点滅し、残骸を繋ぎ合わせた異形の体は軋みを上げる。
「抹殺……抹殺……抹殺……!!」
カナンは弾丸を乱射する。
しかし、監視者は、銃弾の嵐を真正面から盾腕で弾き飛ばし、獣の脚で跳び上がり、虫の装甲を振り下ろす。
理ではない。計算ではない。
ただ“力”で押し潰そうとする。
そこにはもはや予測した未来は無く、ただ機体性能で暴れ回る、異形しか存在しなかった。
カナンは息を荒げながら銃を構える。
反射弾はことごとく砕かれ、銃声は虚しく掻き消されていく。
けれど彼に焦りは無かった。
監視者は、ただひたすらに反逆者を追っていた。
残骸を繋ぎ合わせた異形の脚で床を砕き、盾腕で銃弾を弾き飛ばし、全身の駆動音を悲鳴のように轟かせながら、歪な剣を振り回す。
センサーが灼熱の赤を灯し、地面ごと粉砕する。
「排除対象……反逆者……唯一……唯一……!!」
センサーの赤は狂ったように瞬き、しかしその視界にはもう――カナンしか映っていなかった。
世界は狭まり、ただ反逆者を抹殺するためだけに存在していた。
カナンは静かに銃口を掲げた。
狙いは監視者の中心――赤く光る胸核。
その軌道は単純、あまりにも真っ直ぐすぎて、予測は容易。
「排除完遂――」
監視者は盾腕で床を抉り、轟音を撒き散らしながら突進する。
だが、引き金は引かれなかった。
銃口は火を噴かず、ただ鋭く標的を見据えたまま。
ーー反逆者は、静かに呟く。
「お前はもう監視者じゃねぇ。ただのスクラップだ……」
その瞬間。
閃光が背後から走る。
騎士の剣が、主制御核を護る首元を断ち切った。
鋼鉄の悲鳴が広間を震わせ、赤い光を放った、頭部は一条の残響を残して転がり落ちる。
ーーその色は、とても鮮やかな赤だった。
巨大な鉄塊は、カナンの前で、停止して、沈黙する。
振動も、轟音も、すべてを震わせていた演算の奔流も、もうない。
耳に残るのは、誰かの荒い呼吸と、遠くで砕け落ちる瓦礫の音だけ。
戦場を覆っていた硝煙の匂いが、ようやく静けさと共に沈んでいく。
――長かった死闘は、確かに終わったのだ。
「……ッ、はぁ……」
銃を握っていたカナンの手が震え、力なく膝が折れた。
彼はその場にしゃがみ込み、肺の奥から吐き出すように大きく息を漏らす。
「カナン!」
リオンとイヴが駆け寄る。
仲間の顔を認めた瞬間、張り詰めていた空気がようやく解けていった。
背後で、オブザーバーの巨体がゆっくりと崩れ落ちていく。
鋼鉄の装甲は砕け、砂塵のように舞い上がり、やがて灰となって風に溶けた。
溶けていくような姿をカナンは観察する。
胸に輝いていた光――まるでメインコアのように見えたそれは、偽装だった。
事前の作戦会議で、イヴが口にしてくれなければ、最後まで騙されていただろう。
ーーカナンは荒い息を整えながら、ぼそりと呟く。
「……にしても……なんでだ……?
あいつ、人型の癖に、首なんかをわざわざ弱点にする必要があったのか……?」
「確かに……人型なら、首が弱点だと思われて狙われる可能性は高いのに……何でだろう。」
リオンもその問いに疑問を示す。
その時、イヴの足元へと何かが転がってきた。
拾い上げたのは――ひび割れた、赤い石。
その輝きを見つめ、彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「……きっと。
彼にとって、"それ"は、どうしても守らなきゃならない"もの"だったから……」
イヴの瞳に、赤い光が映り込む。
それは決して機械の灯火ではなく、かつて人だった誰かの、鮮烈な記憶の残滓だった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
これにて、アーカイブ・レコーダー、第1章 -監視者<オブザーバー>編- 終幕となります。
後日談は、次回のお話として投稿させていただきます。
引き続き更新を楽しみにお待ちください。




