10話 『再起の時』
運命とは、時に残酷に、時に非情に未来を奪う。
誰かにとっての幸福はいつも、誰かの知らないところで簡単に壊される。
砕けて壊れた心も全部
枯れて溶かした涙も全部
欠けて離れたこの手も全部
俺にこんなに重くのしかかっているのに。
思い出すと守れないから
思い出すと生きれないから
忘れていた、忘れたフリをしていた。
「あぁぁぁぁ!!!!!!」
リオンは崩れ落ちる。
記憶の管理者と触れ、彼は己に閉じ込めた深淵に再び刃を突きつけられる。
「リオン!!!」
Kは突然叫び出した彼を見て、驚き叫ぶ。
そんな彼らとは真逆に少女は、ただ整然とその手を肩まで回し、リオンを抱きしめる。
それはまるで天使が、純白の翼で彼を覆うかのように優しく、暖かな光景だった。
「今は泣いて、叫んで、壊れてもいい。
あなたの絶望も、あなたの願いも……
全部、私は覚えている。」
ーー騎士リオンは、繕うことに慣れていた。
街の英雄として、揺るがぬ存在であらねばならない。
それが彼女の最期の願いであったから。
悲しみも怒りも、心の奥で押し殺し、硬い鎧のように虚勢で塗り固めてきた。
けれど今――記憶の管理者は、そんな彼の虚飾をいとも容易く剥がしてしまった。
肩に回されたその腕は、鎧でも剣でもない。
ただ静かに包み込む、あたたかな温もり。
「……もう、繕わなくていいよ」
その囁きは、鋼を貫く刃よりも深く、リオンの心を揺らした。
胸の奥に張り付いていた堰が、音を立てて崩れていく。
「イヴ……俺は……」
震える声が零れる。
堅牢な騎士の仮面は剥がれ落ち、ただひとりの弱い青年としての涙が頬を伝った。
イヴは何も責めなかった。
ただ彼の涙を受け入れるように抱きしめ、その背をゆっくりと撫で続けた。
西の空は、赤から紫へと溶け込み、やがて星々が森を覆い始めた。
木々の隙間から見えた夕陽はゆっくりと沈み、光の残滓だけが長い影を作り出す。
昼のざわめきは遠ざかり、夜の静けさが代わりに息を吹き込んでいた。
焚き火の赤が頼りなく揺れ、鍋から立ち上る湯気が夜気に溶けていく。
シチューの香りが漂い、三人の間に小さな安らぎを与えていた。
木椀を手にしたリオンは、ひと口すすると小さく息を吐き、炎を見つめたまま口を開いた。
「……昔、ある女の子と出会ったんだ」
淡々とした声。だが、その一言には長い歳月の重みが滲んでいた。
Kもイヴも言葉を挟まず、ただ耳を傾ける。
「その子はとても綺麗な赤い瞳をしていた。初めて出会った俺にも笑いかけてくれて。
……俺にとって最初で最後の、大切な人だと感じたんだ。」
焚き火の音が、語りを繋ぐ。
淡く揺れる光に、リオンの横顔が浮かび上がる。
「でも……俺は……守れなかった。」
短い言葉。けれど、その冷たさは全てを物語っていた。
「今も弱い僕を見て……彼女は失望したかな……
嫌いになったかな……」
その声は、夜風に掻き消されそうなほどか細かった。
しばし沈黙が落ちる。
Kは焚き火の赤を一瞥し、無造作に背から何かを取り出した。
擦り切れた革の表紙。古びたノートだ。
「マリーは……お前を嫌いにはならねぇよ」
そう言ってKは、その一冊をリオンの前へ差し出す。
リオンの瞳が大きく揺れる。
「……マリー、どうして彼女の名前を……?」
Kはその疑問には答えずにノートを差し出し続ける。
リオンは震える指先でノートを受け取る。
そこには見覚えのある筆跡。
――花の絵や、森の記録、そしてたどたどしい言葉で綴られた日々の思い。
それは確かに、あの日の少女が生きた証だった。
「……っ!!!!!」
第一月・春陽 12日
――リオンと初めて出会った日
あの子は少し不思議な子だった。茂みから抜けてきた彼は、私の姿を目にしても、まるで怖がらなかった。
それどころか、彼は真っ直ぐに「俺はリオン!」って笑ったんだ。
どうしてか、胸の奥が少しあたたかくなった。
第二月・盛夏 5日
――街で遊んだ日。
今日は街に連れていってもらった。
人の目が怖くて、フードを深く被ったまま歩いたけど……リオンはそんな私を気にせず、隣でずっと話しかけてくれた。
焼きたてのパン?というものをくれた。
それは私が今まで食べた中で、一番美味しかった。
あの子の声は不思議。どんなにざわめきが大きくても、ちゃんと私に届くんだ。
第四月・初冬 17日
――リオン剣を習い始めた
最近、騎士の稽古をしているらしい。
とても真剣で、でもちょっと不器用で。
その姿を見ていると、どうしようもなく心配になる。
怪我をしないかな。傷ついてしまわないかな。
……でも、きっとあの子はそれでも前に進むんだろうね。
第三月・晩夏 28日
――祝会の前夜
リオンが騎士に任命されたと聞いた。
上手く声はかけれなかったけれど、私ね、あなたが立派な人間になることがとっても嬉しいんだよ。
だけど、私の知っているリオンは、優しくて、流されやすくて、困っている人を見るとすぐ助けてしまう人。
だからこそ心配。強さに振り回されて、自分を見失ってしまわないか。
『リオンが自分の正しさを見つけて、自分自身を守れるように』
そんな強い人になってくれたらーー私は嬉しいな。
彼女が最後に綴った言葉は――
彼女が最期に告げた言葉
「自分を守って幸せに生きてね」という願いと、重なった。
震える手で日誌を閉じた瞬間、堰を切ったように想いが溢れた。
胸の奥に押し込めていた怒りも、後悔も、悲しみも全部混じり合い、嗚咽となって吐き出される。
頬を伝う涙は止めどなく、それでもリオンはもう隠そうとしなかった。
「……俺は、もう逃げない」
深く息を吸い、潤んだ瞳で前を見据える。
「俺は過去に向き合う。自分にこれ以上、嘘はつかない」
その言葉を最後に、場は静まり返った。
ただ焚き火が小さく爆ぜる音と、夜風が草を揺らす音だけが響いている。
イヴもKも何も言わない。
けれど、その沈黙は拒絶ではなく、確かな肯定のようにリオンの胸に届いていた。
彼は初めて、自分の決意を恐れずに抱きしめることができた。
夜は深く――やがて、ゆるやかに明けていく。
ーー地平の端から淡い光が差し込み、森の葉を黄金色に染めていく。
冷たい夜気は少しずつ和らぎ、鳥たちの声が空気を満たした。
焚き火の残り火を踏み消し、三人は歩き出す。
リオンの表情は昨日とは違っていた。
決意を胸に抱き、迷いの影を隠そうとしない。
「向かうんだな」
Kが口を開く。
リオンは静かに頷いた。
「……あぁ。マリーの記録を見つける。
そして、監視者の正体を暴く。
もう二度と同じ過ちは繰り返さない」
ーー昨夜、イヴは突然告げた。
「アルゴリズムに抗うために監視者のデータが欲しい。」
カナンが眉をひそめる。
「お前は記憶の管理者だろ。
世界の記録から、やつらの情報を引っ張れないのか?」
イヴは静かに首を振った。
「アルゴリズムは世界を超越した存在。
断片的に流れ込む情報はあっても……全てを記録することは、できていない。」
リオンが前を向いたまま、低く声を上げる。
「なら――Kが見つけたっていう研究施設に行くのはどうかな。
もしそこに、マリーが生きた証が残っているのなら……俺も、弔いたい」
「………」
しばしの沈黙
彼らの真剣な面影を反逆者は否定できなかった。
「……自分の身は自分で守れよ」
二人は目を合わせたあと、勢いよくこちらに向き直り頷いた。
ーー朽ちた建物を越え、かつての研究施設に足を踏み入れる。
壁は黒ずみ、配線は切れ、機材は埃を被っていた。
しかし、ひび割れた床に点在する赤い警告ランプはまだ生きており、かすかな脈動を放っていた。
ある部屋で一人、イヴは散乱した資料棚に手をかけ、残骸の中からファイルを抜き出す。
淡い光が走り、浮かび上がった言葉を彼女は呟いた。
「……セリオス」
監視者としてアルゴリズムに魅入られた、かつて人として生きた者の名前。
その名を口にした瞬間から、どこか空気が重くなったように思えた。
彼女はさらに資料を手に取っていく。
そこには断片的な記録――“適合試験”“人格崩壊”“演算装置との接続”――といった不穏な単語が走り書きのように並んでいた。
やがて一枚の紙片を指先でなぞり、彼女の表情が僅かに歪む。
「……彼が願っていたのは、街を守ることだった」
イヴは誰かの願いを、そっと呟いた。
一方その頃、リオンとKは暗い廊下を進んでいた。
割れたガラス片を踏み砕くたび、乾いた音が冷たい空気に響く。
「……まるで墓場だな」
Kが苦々しく吐き捨てる。
「けど、ここで何があったのかを知らなきゃ、また同じことが繰り返される」
リオンの声は低く、しかし迷いはなかった。
「それよりも、イヴを一人にして良かったのかい?」
リオンは首を傾げて問う。
Kは、薄暗い闇には似合わない軽口で返す。
「俺はあいつのお守り役じゃねぇ……
それに、捕まったのなら、また助ければいいだけだ。」
リオンは苦笑した。
「なんて脳筋な……」
その後、二人が辿り着いたのは実験室とおぼしき広間。
壁には拘束器具が錆び付き、中央の台座には砕けたガラス容器が残骸のように散乱していた。
薬品の匂いはすでに風化しているはずなのに、鼻の奥にかすかな刺激が残る。
Kは壁面に残された記録装置を手に取り、破損したパネルをこじ開けた。
そこから滲み出る微かな光が、まるで今も心臓の鼓動のように点滅していた。
「……壊れてるわけじゃなさそうだな」
Kが装置を覗き込み、指でパネルを叩く。淡い光がまだ脈打っている。
「やっぱり一人は心配だな」
その後ろで、リオンはぽつりとこぼす。
「過保護だな。恋人かなんかかよ」
呆れたようにKは返す。
「ち、違う!」
少年は照れたように否定する。
――別の部屋で、イヴが小さなくしゃみをした。
「……?」
彼女は自分でも不思議そうに鼻先を押さえる。
ふいに零れたその仕草は、どうしようもなく人間的だった。
けれどすぐに表情を引き締め、散乱した棚から一冊の分厚いファイルを引き抜く。
淡い光が指先から走り、脆くなった紙面に文字を浮かび上がらせた。
そこに記されていたのは、オクルスの街で代々語られてきた掟の原型。
だが内容は「街を守るための戒め」ではなかった。
「オクルス律法・原典」。
1.〈街の外の森を侵すべからず〉
2.〈罪を犯した者は裁かれねばならない〉
3.〈異形を目にした者は即座に報告し、処断を躊躇うな〉
4.〈騎士は己を律し、正しき行いをもって民を導け〉
イヴの瞳が揺れる。
「これは……街の人々が信じてきた掟。
けれど、その根は……やはり、監視者自身のプログラム。」
真剣な眼差しで記録を行うイヴ。
しかし読み進めた先、その下に記されていた一文に、イヴは思わず息を呑んだ。
〈監視の目は決して途絶えてはならない。
すべての監視システムを毎日再起動させよ〉
「ーーそういえば街は大丈夫なのかよ?」
Kは部屋を調べながら、何気なくリオンへと聞く
「監視者のシステムは無くなったけど、大丈夫さ
街にはガリウス団長も、他の騎士たちも居る。
もう誰かを陥れる警報も鳴らないし、きっと問題無いさ…。」
彼は少し寂しそうに、けれど嬉しいそうに話した。
「そうか…」
場の空気を整えるようにKは言葉を続ける。
「あー、にしてもあれだな、システムが一斉に反応無しと来たら、街にある大量のカメラを点検しなきゃならないのか。
騎士団も大変だな。」
リオンは何も躊躇わず告げる。
「あぁあれは問題無いよ。
村の掟でシステムは毎日再起動を行うからね
カメラを手動で全てを見回る必要は無いんだ。」
Kは調べる手を止めた。
「再起動……」
部屋の隅にある古びた端末のランプが、不気味に点滅を始める。
「まさか…!!」
その瞬間――
足音が走り込む。
「K!!!!」
振り返る二人の顔に写った、蒼ざめたのイヴが叫んだ。
「ーーー監視者が!!!!!」
ーー大地が呻くように揺れた。
最初は誰もが地震だと思った。
だが次の瞬間、街の各地に設置された監視ドローンが一斉に空へと浮かび上がり、赤黒い光を点滅させた。
「ドローンが……動いてる!?」
「嘘だろ、監視システムが暴走――!?」
逃げ惑う人々を追うように、機械の眼がぎらりと赤を灯す。
警報が咆哮のように街を覆い尽くした。
――震源は街の中央区。
その地下最深部で轟音が走り、地盤を裂いて黒い影が立ち上がる。
冷たい金属の軋みと共に現れたのは、人型を模した異形の機械。
両肩に脈打つサブコアが不気味に点滅し、同じように胸部の中央にも眩い赤光が宿っている。
それはまるで新たなる心臓の鼓動。
倒されたはずの監視者〈オブザーバー〉が、
己の命を赤く染め――街の支配者として再臨した。
――街は再び、監視の支配に呑まれていく。




