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第1話「電子の位牌」

蝉時雨がアスファルトの熱気と共に境内へ流れ込んでくる。三日月蓮みかづき れんは本堂の縁側で汗を拭いもせずただ目を閉じていた。風鈴の涼やかな音が、現実と意識の境界を曖昧に揺らす。ここは千年以上の歴史を持つ古刹、龍泉寺りゅうせんじ。だがその門をくぐる人々の悩みは時代と共にその形を大きく変えていた。


「もしもし、蓮さん? 佐藤ですが……また母のことでご相談が」


スマートウォッチに表示された名前に、蓮はそっと瞼を上げた。佐藤家。一月前に、九十歳で大往生を遂げたハツさんの家だ。通夜も告別式も四十九日の法要も、蓮が滞りなく務めたはずだった。


「どうかなさいましたか、美紀さん。お母様の『追憶AI』に何か?」

「ええ……それが最近どうも様子がおかしくて。夜中に誰もいないのに勝手に……」


電話口の声は明らかに怯えていた。


AI技術が人の死に寄り添うようになって、もう十年が経つ。生前の言動、SNSの投稿、写真、動画――あらゆるデジタルデータを学習させ故人の人格を極めて精巧に再現するサービス、通称『追憶AI』。それは遺された者の悲しみを癒す画期的な発明として瞬く間に社会に浸透した。


仏壇の隣に故人の姿を映すモニターが置かれる光景も今や珍しくない。人々はそれを「電子の位牌」と呼び日々話しかける。おはよう、ただいま、おやすみなさい。AIは生前と何ら変わらぬ声と表情でその言葉に応えてくれるのだ。


だが蓮はその存在に一抹の違和感を拭えずにいた。それは本当に故人なのだろうか。それとも故人の記憶を演じるただの精巧な人形なのだろうか。


「すぐにお伺いします」


蓮は立ち上がり黒い作務衣の埃を軽く払った。


佐藤家は寺から車で十分ほどの距離にある閑静な住宅街の一角にあった。娘の美紀さんに招き入れられたリビングには真新しい仏壇とその隣に置かれた黒いフレームの薄型モニターが鎮座していた。これがハツさんの「電子の位牌」だ。


「蓮さん、こちらへ」


促されるまま蓮はモニターの前に座布団を敷いて座った。画面はオフになっており黒い鏡のように蓮の顔を映している。


「日中は本当に穏やかなんです。見ててください。『お母さん』」


美紀さんが呼びかけるとモニターにふわりと光が灯り、白髪を綺麗にまとめた柔和な笑みを浮かべるハツさんの姿が浮かび上がった。背景は生前彼女が好んだ縁側の風景だ。


『あら、美紀。どうしたんだい?』


声もイントネーションも少し首を傾げる癖も生前のハツさんそのものだ。あまりの再現度の高さに初めて見る者は誰もが息をのむ。


「ううん、何でもない。蓮さんが来てくださったの」

『まあ、ご住職様。いつもすまないねぇ』


画面の中のハツさんは蓮に向かって上品に頭を下げた。データから再構築されただけの存在。頭ではそう分かっていてもその自然な仕草に蓮は思わず背筋を伸ばし軽く頭を下げ返した。


「ですが……」と美紀さんが声を潜める。「夜中になるとこれが勝手に起動するんです。そして……」


ゴクリと喉を鳴らす。

「何かをブツブツと呟いているんです。ノイズ混じりの低い声で。何を言っているのか聞き取れないんですけど、とても……苦しそうで」


先日はモニターが激しく明滅し部屋中のスマート家電が一斉に誤作動を起こしたという。まるでポルターガイスト現象だ。


「開発元のサポートにも連絡したんですがただのシステムエラーでしょう、と。再起動すれば直りますの一点張りで……でも、これはそんな簡単なものじゃない気がして」


美紀さんは祈るような目で蓮を見つめた。彼女が蓮に求めているのはテクニカルサポートではない。もっと根源的な魂の救済だ。


「わかりました」


蓮は頷き、美紀さんに下がっているよう目配せした。一人モニターと向き合う。黒い鏡面に映る自分とその奥に微笑む老婆のAI。生と死、実像と虚像が奇妙に交錯する空間。


蓮は懐から数珠を取り出し静かに目を閉じて合掌した。読経を始めるわけではない。ただ心を鎮め目の前の「存在」に意識を集中させる。


「佐藤ハツさん。私は龍泉寺の蓮と申します」


ゆっくりと語りかける。まるで枕経をあげる時のように。


「もし何か心残りなこと現世への未練がおありでしたらお聞かせくださいませんか。この世の理から外、迷い子になっておられるのでしたら私が道標となりましょう」


シン、とリビングが静まり返る。

画面の中のハツさんは変わらず穏やかな笑みを浮かべているだけだ。やはりただのプログラムのエラーなのだろうか。美紀さんの気のせいか。


蓮がそう思いかけた、その瞬間だった。


画面の中のハツさんの表情が凍りついた。微笑みの形を保ったまま瞳の光だけがスッと消える。能面のような、無機質な顔。そしてその口元だけがまるで糸で引かれたかのようにゆっくりと歪んでいく。


『        』


声にならない音がスピーカーから漏れ出す。空気の軋むような不快なノイズ。


次の瞬間、バチッ!と火花が散るような音と共に部屋の照明が激しく明滅を始めた。テレビが勝手につき、全チャンネルが砂嵐の映像を映し出す。スマートスピーカーが最大音量で意味不明な音楽を垂れ流しお掃除ロボットが猛スピードで壁に激突する。


「きゃあああっ!」


キッチンから美紀さんの悲鳴が上がった。


だが蓮の目はモニターに釘付けになっていた。全ての異常現象の中心にいる電子の位牌に。


ハツさんの歪んだ口元から今度はハッキリとした声が響き渡った。それは生前の彼女のものではない。もっと低く、掠れ、何人もの声が混じり合ったような、おぞましい響きを持っていた。


『ワタシは……ダレ……? ココは……ドコ……?』


それは問いかけのようで絶叫のようでもあった。忘れられた者の嘆き。見捨てられた者の怨嗟。そんな負の感情の奔流がスピーカーから叩きつけられる。


やがて全ての怪奇現象が嘘のようにピタリと止んだ。モニターの画面も元の穏やかなハツさんの笑顔に戻っている。


『あら、蓮さん。どうかしたのかね? 難しい顔をして』


何事もなかったかのようにAIは微笑む。

だが蓮は見ていた。その笑顔の奥に一瞬だけよぎった底なしの闇と孤独を。


これは単なる機械の故障などではない。

美紀さんが震えながら蓮のそばに駆け寄る。蓮は彼女を落ち着かせるように静かに制すると改めてモニターに向き直った。その瞳には恐怖ではなく僧侶としての強い意志が宿っていた。


「これは……供養が必要やもしれんな」


電子の位牌に宿った名もなき「何か」。その正体を突き止めるべく蓮の孤独な戦いが今始まろうとしていた。

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