第1話「張り紙」
※この物語は、
“誰かに観られている”という違和感から始まる、観察と記録のSFサスペンスです。
小さな異変が、あなたの「現実認識」を静かに壊していきます。
最後まで読むと、“タイトルの意味”が変わります。
ようこそ、観察者のいないマンションへ――。
午前五時四十七分。俺はその時間を、ベッドの中で確認した。
目覚ましも鳴っていない。隣室のテレビの音でもない。
なのに、眠りから引きはがされた理由がはっきりしていた。
――紙が、めくられる音だ。
カサ、カサ、と乾いた質感。
たぶん、コピー用紙。静かな部屋に、壁の向こうから、何度も。
音の主はたぶん“誰か”じゃない。ただの紙。いや、張り紙だ。そう思った。
……正直言って、俺はこういう音に異常に敏感なタイプだ。
そのくせ、自分が出す音には鈍感で、よく実家の母親にも「気配が薄い」と言われていた。
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佐倉悠真、二十八歳。
在宅でWeb系の仕事をしていて、会社には勤めていない。
フリーランスって言えば聞こえはいいが、実態は“夜型の偏屈”。
口数は少なく、他人との距離感はたいてい間違える。
買い物はすべてネット、連絡は基本チャットのみ。
友達? と呼べる人間がいたのは、大学の頃まで。
実家とは疎遠。彼女いない歴は更新中。
強いて趣味を挙げるなら、冷蔵庫の食材を日付順に並べること。
つまり――退屈で、孤独で、平和な人間だった。
このマンションには、もう六年住んでいる。
新築でもなく、老朽化もしていない、どこにでもある中層階の賃貸。
住人とはほとんど顔を合わせないが、それがちょうどいい。
だからこそ、だった。
“掲示板の音”に気づいた自分が、少しだけ気持ち悪かった。
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シャワーを浴びて、インスタントのコーヒーを淹れる。
その間も、なぜか耳の奥に紙の音が残っていた。
カサ、カサ。
それが妙に、皮膚の下を這うようにうるさくて、気持ちが悪かった。
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朝刊を取りに玄関を開けたのは、午前七時。
エレベーターの前にある掲示板。
そこに、新しい張り紙があった。
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夜間の物音について
近隣住民の方より、深夜帯(午前2時〜4時頃)の生活音についてご指摘がありました。
心当たりのある方は、今一度ご配慮をお願いいたします。
管理人
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読んだ瞬間、俺は眉をひそめた。
「管理人……?」
このマンション、管理人なんていないはずだった。
「管理人……?」
小声で呟いてから、もう一度掲示板に目をやった。
紙はA4サイズ。印字された文字の下、サインのように“管理人”とあった。
けれどこの六年間、一度も“その存在”に会ったことはない。
朝にゴミ捨て場へ行っても、掃除の気配はないし、郵便受けの点検もいつの間にか終わっている。
いたとしても“透明な人間”のように、気配を感じさせない。
紙は、昨日まではなかった。これは確かだ。
つまり、誰かが今朝貼ったということになる。
じゃあ――カサ、カサ、というあの音は、
本当に夢じゃなかったということか?
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俺はふと、自分の部屋の真上、203号室のことを思い出した。
数日前の夜、天井から妙な“軋み音”がしたのだ。
誰かが部屋の中を歩いているような。
もしくは、……這い回っているような音。
けれど、203号室には誰も住んでいない。
去年引っ越してから、ずっと空室だったはずだ。
不動産会社の管理アプリでも「入居者なし」と表示されていた。
おかしいのは音だけじゃない。
郵便受け。
203号室のポストには鍵がかかっていなかった。
昨日、ちらっと見たとき、中には紙が一枚入っていた。白い、二つ折りの紙。
それが、今朝見たときには消えていた。
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仕事に手がつかないまま午前中が過ぎた。
昼過ぎ、エレベーターで降りようとしたとき、ふとドア横の掲示板が気になった。
掲示板の張り紙は――2枚になっていた。
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◯夜間の物音について(再掲)
管理人
◯202号室の佐倉様
室内の明かりは、消灯の際にもご確認ください。
反射による“ちらつき”が他の住民に不安を与える可能性があります。
管理人
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……俺の名前が、書かれていた。
“佐倉”という名前を知っている者が、マンション内にいる。
それだけで背中に冷たいものが走った。
ここ半年、宅配便の受け取り以外で誰かに名乗った覚えはない。
マンションの住人とすれ違っても、会釈すらしない。
エレベーターの防犯カメラに映っていたとしても、名前までは映らない。
じゃあ、これは――誰が書いた?
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その夜、俺はひとつ、試すことにした。
204号室。
俺の部屋の隣。張り紙には名前が出てこないが、“何か”があるのはそこだと直感していた。
俺は深夜2時、キッチンの明かりだけをつけて玄関をそっと開けた。
廊下には、誰もいない。
204号室の前に立つ。
無意識に息を止める。
耳をすます。
――なにも、聞こえない。
けれど、なぜか、扉の向こうから“視線”のようなものを感じた。
俺はノブにそっと手をかけた。
ゆっくり、試すように回してみる。
……鍵が、かかっていない。
カチャ。
わずかに開いた隙間から、冷たい空気が流れ出てきた。
俺は、扉をそっと押し開けた。
そして――