虹の根元で
「……お母さん」
アリスが呟くのとほぼ同時に思わず僕も呟いた。
「……姉さん」
かすれた声が出た。
「え?! レオのお姉ちゃんが私のお母さん?!」
自分の声がだいぶかすれていたからアリスには聞こえなかったかと思ったが、どうやらしっかり聞こえていたようだ。
すごい勢いでアリスがこちらを振り返る。
「そう。僕のお姉ちゃん、クロエ姉さんがアリスのお母さんだったみたいだね……」
もしかしたら、とは思った。
話をしながら、そうかもしれないと思ったタイミングはあったが確証はなかった。
アリスは再びクロエ姉さんの方に向き直った。
僕も姉さんを見る。
死者は生者と言葉を交わすことはできない。
こちらの言葉は分かるらしいが、死者の言葉はこちらには聞こえない。
最後にお別れの言葉を伝えることはできるが、触れ合ってはいけない。
だから抱きしめることもできないけれど、元気なときの姿を見ることはできる。
クロエ姉さんと会わなかった期間の分だけ年齢を重ねている顔ではあったけれど、そこにいたのは確かに昔から変わらない笑顔を浮かべている姉さんだった。
「会いたかった」
口にしたのは僕だろうか。それともアリスだっただろうか。
……と、遠くから何かが聞こえてきた。
クロエ姉さんの視線に合わせて僕らも音の方向を見る。
何かがすごい勢いでこちらに向かってきている。
思わず構えると、アリスがぼそっと呟いた。
「あーお父さんだわ……」
え、とアリスを見ると呆れかえったような顔をしている。
ふとクロエ姉さんを見ると同じ表情を浮かべている。
二人があまりにも似ているので思わずふっと笑ってしまった。
笑ってしまった僕に気づいたアリスが怪訝そうな顔でこちらを見るので、なんでもないよ、と手を振る。
そうこうしているうちに、ものすごい勢いで走ってきたアリスのお父さん――というか走っていたのはアリスのお父さんが乗っていた馬だけど――が到着した。
「アリス! どうしてっ! 勝手にっ!」
少し離れたところに馬を置いて走ってくるアリスのお父さんはどうやらアリスしか見えていないらしい。
クロエ姉さんもいるのに全然気づかない様子で、ずっとアリスに向かって何やら喋っている様子をジト目で見ながらアリスはアリスのお父さんの手を取り、そのままクロエ姉さんの方を向かせた。
途端に視界が開けたのだろう。
何かを言いかけたまま口をあんぐり開けてかたまってしまった。
アリスはずっとお父さんの手を握ったままだ。
うっかりアリスのお父さんが走って姉さんのところに行きそうな気がするんだと思う。
でも、予想に反してピクリとも動かなかった。
しばらくかたまったままだったアリスのお父さんはしばらくしてようやく口を閉じて、それから目を潤ませて微笑んだ。
「クロエ。……そうか。アリスはお母さんに会いに来たのか」
そう言ってアリスを見る。
え、こんなに大きな虹が出てるのに見えなかったんだ……と僕は思った。
アリスは、手紙を書いてきたのに見てないのね、と怒っている。
「すまん。パン屋のおばちゃんに、アリスがリュック背負ってあっちに一人で歩いて行ったよ、家出じゃないのかって笑われて思わず焦って、な。周りも何も見てなかったんだ」
頭を掻くアリスのお父さんをクロエ姉さんとアリスはまた同じような表情で見ている。
ぷくーっとほっぺを膨らませている姿は本当に瓜二つだ。
本当にすまない、と謝りながら、アリスのお父さんはこちらを向く。
「レオくん、……だよな」
「はい。お久しぶりです。クロードさん。……手紙、ありがとうございました」
深々とお辞儀をする。
「そっか。お父さんとレオは会ったことがあるのね」
「父さんと母さんの結婚式の時にな」
そうですね、と僕は言う。
「姉さんがずっと幸せに暮らしていたことが分かって本当に良かったです」
ありがとうございます、と僕は頭を下げる。
ああ、とクロードさんは言う。
それはクロエに誓ったことだし、君にも約束したことだからな、と言ってくれた。
「不自由させたことはあったかもしれないが、三人で幸せに過ごしていたよ」
クロードさんはクロエ姉さんとアリスを見ながら言う。
姉さんも笑って頷いた。
二人を見てアリスも笑顔で頷いた。
「本当に幸せな時間だったよ」
虹の根元がキラキラと光りだした。
どうやら、そろそろ時間のようだ。
虹の根元が扉に転じる。
根元が複雑に変化しながら扉になる様子は息を飲むほど美しい。
でも、本当にお別れの時間が近づいている、ということでもあった。
お別れはしたくない。
でも、引き留めてはいけない。
必死で耐える僕たちは、誰からともなく手をつなぎ合った。
扉が開く。
大きな大きな扉は、不思議なほどに音を立てずに開いた。
「お母さん! お母さん、大好きだよ。ずっとずっとずっと大好きだよ」
アリスが叫ぶ。
「姉さんに会えて僕の人生、本当に幸せだった」
僕は呟く。
「クロエ……愛してる。ありがとう」
クロードさんが言う。
クロエ姉さんは深く頷いて僕たちに微笑むと、扉に吸い込まれるように入っていく。
姉さんが入った扉は開いた時と同じように静かに閉まり、そしてそのままゆっくりと消えていった。
僕たちは扉が消えた後もしばらく手をつないだままそこに立っていた。