#11 「涙と花火を、夏の夜空に散らして」
ここからは少し離れた夢乃原市の海の方から打ち上がった花火が、夏の乾いた夜空を様々な色で彩る中、隼人は意を決してこう返した。
「僕が約束を破るわけ無いだろ、姉ちゃん」
自分でも少し声が震えているのが分かった。
ずっと堰き止めていた感情は、いまにも自分の身体の奥から溢れ出そうとしており、無駄な抵抗とは分かっていながらも、それに呑まれないようにギュッと唇を噛む、まるで血が出てしまいそうな程に。
一方の春奈も隼人の言葉を聞き、その瞳に大粒の涙を浮かばせて、涙を拭いながらこう答えた。
「そっか、やっと気付いたんだ」
「ああ」
時は遡る事、四日前……
◇◆◇◆◇◆◇
今朝と同じ様、バイトのシフトを入れていなかった隼人は、やる事もなく朝から家の掃除と片付けをしていた。
来月には、もしかしたら由希が帰ってくる。そうなれば、母親も帰ってくる事になるだろう。
散らかしている訳でも無いが、定期的に片付けをしておかないと帰ってきた時に何を言われるか分からない。
嫌々ではあるが、別に汚いのが好きでも無いので仕方なくも掃除を続ける。
床を拭き、掃除機を掛けていると、時刻は昼前。
掃除を一旦止め、昼食用に袋麺を茹でると、行儀が悪いとは感じながらも、掃除の続きが待っているのに洗い物を増やすのも非効率だと自分に言い聞かせて、鍋のまま食べてから簡単に洗い物をした。
それから三十分程ソファに座ってテレビを眺め、自分を鼓舞して掃除の続きを始める。
水回りを掃除し、風呂場を洗い、ある程度終わった所でリビングの隣の部屋の襖が目に入った。
思い返せば、この襖は余り開けたことが無い気がして片付けのついでに と、考えながら襖を開ける。
襖の先は二段の収納スペースになっている。
上の段には急な来客用なのか、布団と毛布が二セット押し込まれていて、下の段にはダンボールが幾つか入っていた。
中身が気になり、ダンボールを幾つか出してみる。テープ等で封はされておらず、上を開くだけで中を見る事が出来た。
一つ目に開けた中には服がこれでもかと入っている。わざわざ全部を出す事はしなかったが、パッと見で女児用の服だとは分かった。とはいえ、小さすぎて流石の由希でも着れなさそうな、そんなサイズ。大体、こんな服着ていただろうか。
次に二つ目の箱を開く、中は同じく服。三つ目、四つ目もそう。捨てれば良いのに、なんでわざわざ大事そうに取ってあるのか困惑しながらも箱を閉じて、押し入れに仕舞う。捨てようかと思ったが、勝手な事をしたら何か言われそうで止めた。
最後 五つ目の箱も、服かと思ったが明らかに箱が小さい。また、服にしては少しずっしりしていて少し期待しながら開けると、中には更に箱が入っていた。
その箱を取り出し、中を見ると写真が一杯詰まっている。幼い頃、旅行で行った遊園地で由希と並んで撮った写真。小学校の入学式や卒業式、梨花と冬葵と並んで映っている物もある。
父の趣味はカメラだった。まだ家族でこの家に住んでた頃、何処かに行ったり、イベントがあれば何かにつけて写真を撮っていた。
でも、ここ最近の写真が無いのに気付き、何とも言えなくなる。少なくとも隼人が高校生になってからの写真は一枚も無かった。
親と離れて過ごす様になり、母とはたまに会うことはあっても父と直接話す機会は滅多に無い。
寂しい様な、でも仕方も無い気もする。
隼人は写真を箱に入れ、戻そうとした時にもう一つ箱があるのに気づいた。
ダンボールに手を入れて持とうとすると、それはやはりずっしりと重みがあった。
何とか持ち上げ、箱から取り出す……
正体を現したのは丸い、クッキーのプリントがしてある少々お高い贈答用のお菓子の箱、百貨店なんかで売っている何千円とするアレ。
蓋を開け、中を見るとやっぱり写真が入っていた。
「誰だ、これ?」
出てきた写真を手に取り、何が写っているのかを見る。写っていたのは、幼い少女。最初は由希かと思ったが、よく見たらそうでは無い。
……だとすれば、これは一体誰だ?
浮かび上がる疑問を解決する為に、他の写真も見た。被写体はどれも名前の知らない少女ばかり、けれどとある写真を手にした時、思わず目を奪われた。
──白いワンピースの少女がカメラの方へと微笑んでいる写真。
その写真を見て、隼人は知らない筈の少女の名前が自然と零れた
「───春奈、さん?」
何処かイタズラっぽく笑う笑顔も、腰まで伸びた綺麗な黒髪も、吸い込まれそうになる綺麗な瞳も、正しくあの日、隼人が屋上で出会った春奈の特徴にそっくりな少女。
この時点で、嫌な予感がした。心拍を増す心臓がそれを物語っている。
それでも隼人は疑惑を確信に変えるべく、写真を見進めていく中で、ある写真が僕の目を引いた。
それは、ベッドの上にいる春奈らしき少女が赤ちゃんを抱っこしている写真。
そしてその写真の端には母が書いたであろう字で、『春奈が隼人を抱いている写真!』と書き込んであった。
「─────っ!」
その瞬間、隼人の脳裏を、今日に至るまでの様々な記憶が駆けた。
『"隼人君"は私と出会う夢を見たんですね』
『居ます、可愛い弟が。』
『私は4歳でこの世を去ったので、きっと弟は私の事を覚えてないんです』
あの日、初めて出会った時からそうだった。
春奈さんは何故か、自分の事を知っていたのだ。
最初こそ、何処かで会ったのかとばかり思っていたが、『何処かで会った』なんて、そんな生温い関係じゃない。
─────春奈は、隼人の血の繋がった姉弟。
『私はずっと夢だったんです。 大きくなったら、弟と二人でこの街の花火を見ることが』
『花火大会の夜、十分……いえ五分でも良いです。私に、隼人君の時間をくれませんか?』
『えぇ、隼人君だからお願いしたいんです。』
重力に従い、零れ落ちた涙がカーペットに染みを作る。
自分でも、なんで泣いているのかは分からない。悲しい気持ちもあれば、何処か嬉しい気持ちもあった。よく分からないままに、溢れ出た感情の波に翻弄されて、泣き続けながら写真を見進めた。
公園で遊ぶ幼い春奈、笑顔でカメラを見つめる春奈、───ベッドの上で横になり、眠りにつく春奈。進めれば進める程、外で撮ったと思わしき写真は無くなっていき、病院と思わしき場所での写真が増える。そうして、四歳を区切りにして写真は止まった。
最後の一枚は、再び幼い隼人と写る写真。
「……あー畜生」
そのまま大の字に寝転がり、隼人はそう零す。
浮かび上がる涙は、目尻を伝って流れ落ちて、髪の毛を薄らと濡らした。
隼人は後悔していた。春奈の願いを叶えようなんて約束した事に。もし、自分の姉だと分かってたなら、きっと理由をつけてもう少し先延ばしにしたはずだ。
……けれど、何よりもそれは春奈自身が決めた覚悟を卑下する事の様に思えた。
長い時間を、誰にも見えないまま過ごし、そうしてやっと自分が見えた人間が現れたと思ったら、それは実の弟。
それを知った上で、自身に自らが"やり残した事"を伝え、それを叶えようとしたなら……
それを拒む自分の気持ちこそ、余っ程エゴだと、隼人は自覚した。
「……あーぁ、じゃあやるしかないか」
真実を前にして、隼人は涙を腕で拭うと、写真を箱にしまって、押し入れへと再び入れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ねえ、隼人」
次々と打ち上がる花火を屋上から見つめながら、春奈は隣に立って同じように花火を見ている隼人へと呼びかける。
「あれ、"君"は付けないんだ」
「だってもう、隼人に他人行儀する必要はないでしょ?」
「それもそっか」
隼人は笑いながらそう答えると、春奈も釣られるように笑い返す。
その言葉を最後に、二人は再び静かになると、春奈はそっと隼人の手を取り、そして握った。
けれども隼人はそれを拒む事はせず、寧ろ強く握り返す。
こうでもしないと、今にも春奈が目の前から消えてしまいそうな気がしたから……
握った手から感じる春奈の感触を通して、『まだ姉ちゃんはここに居る』と安心したかった。
「なんなら恋人繋ぎ、してみる?」と春奈は、いつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべて、僕へと尋ねる。
「姉弟で恋人繋ぎはマズイだろ」
「私がしてみたいの」
そう言うと、春奈は隼人の指を絡ませて再び強く握る。
指同士が食いこんで若干痛い、しかしそれを春奈に言うことはせず、その痛みすらも何も言わずに受け入れる。一体、こんな事どこで覚えたのだろう。
「……お父さんやお母さんを責めないであげてね 一番苦しかったのはあの二人だと思うから」
「それは分かってるよ」
「それとお父さんとお母さんをお願い」
「…ああ」
こうしている間にも、二人の視線の先では大小様々な花火が光を放っては消えを繰り返している。その儚さはまるで、命の灯火に近い物を感じた。
陸から打ち上がる花火が産まれた時なら、大輪の花を咲かせるのは人生の最高潮で、散って消えていくのが死ぬ時。花火も人生も同じ様な物だ、形あるものは必ずいつかは散る。春奈がこうして早い内に亡くなってしまったのも、それが人より早すぎただけ。今を生きている隼人の命だって必ずいつかは、あの花火と同じ様に散っていく、ただそれだけ。
花火の方もそろそろフィナーレを迎える。それを裏付ける様に、打ち上がった花火の数が壮大になっていく。
そして、きっと花火が終わる頃には、もう隣に春奈は居ない。
その事実に、言葉に出来ない感情が、我慢すると決めていた涙腺を刺激して自分の意志とは裏腹に瞳に涙を浮かばせる。歯を食いしばって耐えようとも、一度滲んだその涙は引っ込みが付かない。
「もう、泣かないでよ 私まで泣きたくなっちゃう」
「僕はさ…姉ちゃんが思ってるよりもずっと泣き虫なんだよ…」
嗚咽を噛み殺し、声を震わせながら言い返す。
春奈と手を繋いでいる右手とは反対の唯一空いている左腕で涙を拭っても、すぐにまた涙が浮かんで次第に前が見えなくなる。どれだけ綺麗な花火も、涙のせいで視界がボヤけ、色しか分からなくなってきた。
そんな隼人に追い討ちをかけるように、春奈はこう続けた。
「これでやっと心置き無く成仏できる、これも全部隼人のお陰…… 本当にありがとう」
「……ないから」
「え?」
「僕は、何があっても姉ちゃんを忘れないから」
嗚咽を噛み殺して、震える声で精一杯春奈へと伝える。
そんな隼人を見ながら、春奈も釣られて泣きそうになったのを誤魔化すように上をむくと、更にこう続けた。
「隼人は、星空は好き?」
「……好きだよ」
「小さい頃ね、よくお母さんが私に言ってたの。人は亡くなったらお星様になって皆を見守ってるって」
「…」
「だからね、もし私が消えても、あの夜空に浮かぶ星になって隼人と由希を見守ってるから どれだけ離れてても心は繋がってる。 離れていても姉弟だからね」
「……ああ、分かってるよ」
次の瞬間。握っていたはずの右手から春奈の感触が消えた。
咄嗟に春奈の方を見る。春奈の身体は眩い光を放つよう、キラキラと輝き始めていた。
隼人はその様子を見て、もう姉弟として過ごす時間が僅かしか残されていないことを理解した。
「もう、お別れ……みたい」
何処か諦めた様子で、春奈は少し悲しそうに笑いながらそう呟く。
その証拠にどれだけ先程の様に手を掴んでも、かつてのような感触はなく、前のように触れる事すら叶わない。
別れは直ぐそこに近づいている、だとすれば……
隼人は今にも消えそうな春奈の方を向き、最後に涙を拭ってこう語った。
「僕が姉ちゃんに追いついたら、またこうやって二人で花火を見よう」
これはきっと、別れなんかじゃない。
ちょっとの間会えなくなるだけだ。
何れは自分も姉の元に追いつく、それが何十年後かまたは何年後か…もしかしたら何日後かもしれないし、何時間後かもしれない。
しかし、きっと必ずこうしてまた会える そんな気がした。
亡くなった筈の姉 春奈と自分がこうして運命的に再び出逢えたようにきっと……
「だから また会おう、姉ちゃん」
「うん、隼人の事待ってるね」
最後に手を伸ばす。
もう握れないとは分かっていながらも、今ならもう一度春奈の手をとれる そんな気がしたから。
そんな隼人の想いが奇跡を起こすように、春奈の手の温もりを感じ取って、隼人はまた泣いた。春奈も同じように涙を流すが、お互いそれを拭いはしなかった。
そして二人で向き合いながら散々泣いた後に、春奈は先程まで立っていた場所から一歩下がると、こう告げた。
「じゃあね 隼人」
春奈の口から出たのは別れの言葉。その一言と共に、春奈の身体はみるみる小さくなり、まるで魔法が解けたかのように、あの日写真で見た四歳の頃と同じ姿へと戻る。
「隼人、大好きだよ──────」
弟を心から愛していた姉が最後に見せたのは、瞳に涙を浮かべながらの最高の笑顔。
そんな春奈の笑顔に応える様に、
「僕もだよ姉ちゃん」
と言葉を返す。
隼人の言葉に満足そうな笑顔を再び浮かべた春奈は、今度こそ光の粒となって空へと消えていく。
消える寸前に、幼い春奈の口が動いた。
何かを言っている様な口の動かし方、僕はその口の動きを真似てみると、それは『あ り が と う』だった。それを知り、ツーンとした鼻の痛みがした後に枯れ果てたと思っていた涙が再び溢れ出す。
そして、春奈の身体が完全に消滅したと同時に、今年の花火大会を締めくくる最後の花火が打ち上がった。
もう、春奈さんは……姉ちゃんは居ない。
改めてそう考えると、唐突に無力感に襲われ、立つことすらままにならなくなり、隼人は地面に膝を着く。
「これで良かったんだよ…… これでっ……!」
倒れ込むように地面に両手を付き、自分の行いを肯定する様に、何度もそう繰り返す。
まるで雨のように、隼人の瞳からぼたぼたと零れ落ちる涙は、乾ききった夏の屋上のコンクリートを濡らしていく。
もう涙を、我慢する必要はない。
ずっと喉元で堰き止めていた……溢れ出る感情に流されるまま、涙を流し、声を上げる。
そして、そんな僕の横顔を、今年最後の巨大な花火が照らしつけたのだった。
思い出すのは、初めて春奈と出会った日の事。
腰近くまで伸びた綺麗な黒髪、吸い込まれそうになるほど綺麗な瞳に、よく似合っていた白いワンピース…
絶対に忘れはしない…
絶対に忘れてなるものか
この夏に出会った大切な人の事を
大切な人と過ごしたかけがえの無い日々を。
『離れていていても姉弟』
隼人はその言葉を胸に、静かになった夜空を泣きながら見つめた。