#10 『夜空にしか咲かない花』
八月二十日。天気は晴れ。
隼人が洗濯物を干すためにベランダに出ると、目が眩みそうになるほど眩しい太陽がこの街を照りつけていた。今日もとても暑くなりそうだ。
時刻は午前十時。今日はバイトも無く、休みだと言うのに珍しく朝早くから目が覚めた隼人は、貯めこんでいた洗濯をして、部屋の掃除を軽くしてから、少し手の込んだ食事を作った。
手の込んだといっても、いつも食べているトースト一枚にプラスして目玉焼きとベーコンを焼いただけのモノ。それでも、隼人からすれば幾分かは豪華だ。普段ならこんな事はしないが、給料日を迎え、財布の中身にも幾らか余裕が出来た事によって心にも余裕が出来たお陰だ。
この天気なら、今日の花火大会も間違いなく行われるだろう。現に、点けたテレビではお天気キャスターが『今日は全国的に晴れ間が広がる見込み』なんて事を言っていた。洗濯物を干しながら見上げる空には、何処にも雲は見つからない。
その後、家中に掃除機を掛けた後、着替えてから外に出る事にした。
時刻にして、まだ昼頃。十八時位には病院に行くにしても、まだ結構な時間がある。
住宅が並ぶ一帯を抜け、途中、橋を一本渡ってから駅の近くへと抜ける。
駅前は相も変わらず人で溢れている。それだけでなく、どこもかしこも提灯なんかをぶら下げて祭ムードだ。
夕方に近づくにつれて、浴衣姿の人も増えていくだろう。そして、それに比例する様に浴衣美人達を狙う愛のハンターも増える。なんにせよ、昼頃なのでまだ浴衣姿で歩く人の様子は無い。
隼人はそんな駅前を素通りして、近くのショッピングモールへと入った。
施設内は冷房が効いてとても涼しい。
その足でそれなりに大きな本屋へと向かうと、雑誌のコーナーの前で立ち止まって特に対して興味も無いジャンルの専門誌を開いた。パラパラっとほぼ読んでいないスピードでページを捲り、雑誌を閉じて棚に戻す。実の所、わざわざこんな所まで来たのはいいがする事が無いのだ。だから、特に意味無い行動に走る。
その後も似たような事を何度か繰り返してから店を出ると、珍しい人物にばったり会った。
「上坂」
視線の先には、髪をいつもの赤リボンで後ろで結った上野結衣が居た。凡そ、本でも買いに来たのだろう。
「珍しいねこんな所で会うなんて」
「暇だからな」
「あの幽霊とはちゃんと話をした?」
幽霊というのは、春奈の事だろうか。
その事なら、数日前に解決した。
「勿論、だから今日叶えるんだ。」
「へぇ、まぁ良かったね。」
「それで、お前に折り入って頼みがある」
「何?」
「今日の二十時、僕に電話をかけてくれ」
「いいけど、何で?」
「ちょっと抜け出す用事があるんでな」
「幽霊関連ね、いいよ。気になるから、終わったら話聞かせてね」
「任せとけ」
「じゃあ、私用事あるから」
「おう、またな」
結衣と別れ、隼人は再び一人になると途方も無く歩き始めた。
何だか今日はじっとして居られない。理由もなく家を出たのもこれが理由。やりたい事は無いのに、ただ留まっているのがとにかく不快で動き続けるしかない。今の隼人は、マグロとほぼ同じようなモノだ。立ち止まれば死んでしまいそうで、目的も、意味もないまま、只管に夢乃原を彷徨い続ける。
身体は疲れている。足も少し痛い。けれど自然と座ろうとか、休もうという気持ちにはならなかった。朝食は喉を通ったが、お昼を過ぎても食欲が湧くことも無い。
視界に映るモノに対して何か思うことも無く、かと言って頭の中で何かを考えている訳でもない。ただ、立ち止まれば、歩みを止めれば何かに心が支配される気がして、それを紛らわせる為に進み続ける。
そんな状態が十六時ほどまで続き、ようやく限界が来たのか、自然と足が止まった。
ぐぅぅという音が、腹から鳴り響く。お腹が空いた なんて考える余裕も無いまま歩き続けていた。けれど余りにその音が滑稽で、少しだけ笑みが浮かんだ。それから、心に余裕が出来て、何かに立ち向かう勇気が湧いてきて、隼人はその足で祭の会場へと向かうのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
「入るぞ」
病室の前で立ち止まり、部屋の扉を二回ノックした後、中に入った。
中では、妹の由希がベッドの上で本を読んでいた。突然の隼人の訪問に、何処か驚いた様子を浮かべながらも少し嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「どうしたの?お兄ちゃんこんな時間に」
「花火見に来たんだよ、ほらお土産」
隼人の両手には幾つか白い袋がぶら下がっている。病院に来る前に寄った祭の会場に出ていた出店で買ってきた物。ちゃんと、由希でも食べれそうな物だけ買ってきた。
「いいの!ありがとう!」
「今年は、ここで花火見ようと思ってな」
「てっきり、会場まで行って見に行くんだと思ってた」
「お前の事、連れて行って良いならそうしたよ」
残念ながら、医師からその許可は出なかったがこれはこれで良い。そのお陰で、由希も悲しい想いをしなくて済む。
兄妹二人で買ってきた物を開けて、由希にも少し分けた。特に綿菓子が気に入った様で、嬉しそうにしながら食べていた。
そうしていると、再び病室のドアからノックする音が聞こえた。隼人は立ち上がり、ドアを開けると、外から冬葵と梨花の二人が入ってくる。
「久しぶり!由希ちゃん!」
「うっす、隼人」
二人の手にも、隼人と同じ様に白い袋が幾つか握られている。ここへと来る前に祭の出店に寄ってきたのだろう。
突然の二人の訪問に、由希は驚きながらもますます喜びの表情を浮かべる。特に、由希は梨花の事を実の姉のように慕っていたので、尚更嬉しそうだった。
そして、それは梨花も同じ。まるで自分のモノだとマーキングする様に、由希への頬を擦り合わせる。梨花の行動に驚きながらも、由希も笑顔でそれに応えた。そんな二人の様子を見て、隼人は一応冬葵へと釘を刺す。
「言っとくけど、お前はやるなよ」
「え!?ダメなのかよ!?」
「当たり前だろ、馬鹿かお前」
寧ろやる気だった事に驚く。まぁきっと冗談だろう。……冗談だよな?
「義兄さんは厳しいな」
「僕の目が黒い内は許さないって言ったろ」
「義兄さんには俺と由希ちゃんの愛を認めて貰わないとな」
「それ、僕じゃなくて彼女の前で言ってみろ」
「……絶賛喧嘩中」
少し溜め息を吐きながら、何処かバツが悪そうに冬葵は言う。内心、ざまぁみろと思いながらも少しは心配になる。理由は凡そ分かりきったモノだが。
「どうせ、僕達だろ」
「そ、いい加減幼馴染とつるむのやめろってさ」
「それは彼女が正解だな」
彼女の言い分も正しい。おおよそ冬葵の事だ、夢乃原の花火大会に冬葵を誘ったのに断ってこっちに来たのだろう。そんなことして、喧嘩になるのなんて分かりきっている。
「まぁ、俺からしたら隼人達と過ごす時間って、大切何だよ。彼女の事も勿論大切だけどさ。それ以上の時間をお前たちとは過ごしてるんだし」
「まぁ、僕もお前や梨花には一生幼馴染してもらうつもりだからな」
「それは俺も同じ、隼人には一生親友してもらわないと」
言った傍からお互い恥ずかしくなり、それを誤魔化す様に買ってきたモノを漁り始めた。
冬葵は焼き鳥を一本取り出すと、それにかぶりつく。隼人もお腹が空いていたので、一本貰ってから食べた。
「冬葵ったらね、由希ちゃんに金魚取っていこう!って言い出してね」
「ウチに水槽なんてないぞ」
「だから止めたの」
流石梨花、ナイスだ。ウチに金魚を買える水槽も、水槽を置くスペースも、飼う余裕も無い。
「まぁまぁ、ほら花火始まるまで時間あるし、色々買ってきたから食おうぜ」
そうして、隼人達四人は各々が買ってきた焼きそばやたこ焼きやらを分けて食べながら、楽しそうに会話を始めた。
『冬葵の彼女は怖い!』とか、『でもいい所もある!』とか、そんな話に花を咲かせながら花火が始まるまでの時間を潰す。
時刻は十九時半、窓から見える街の方はやはり明るい。それにもうすぐ、花火が上がる。
冬葵が突然電気を消す。『こっちの方が雰囲気出るよな』と言った。それならと、梨花は『音聞こえそうだし、窓開けよ』と言って窓を開ける。
今か今かと待ちわびていると、地表から一発何かが上がった。口笛の様な音を鳴らし空へと上がると、夜空に綺麗な大輪の花を咲かす。
毎年見ている場所よりかは遠い。それでも、大きく咲き、散っていくそれは場所なんて関係ないほどに息を呑むほど綺麗だった。
「綺麗だなぁ」
「お兄ちゃん!花火!」
「ああ花火だな」
「意外と見えるんだな」
各々が感想を浮かべながらも、もう一発、また一発と夜空を彩っていく。
下の階からも声がする。きっと、みんな窓を開けてその様を見ているのだろう。
赤や緑、様々な色の大輪の花が夜空に咲く度、それぞれが声を上げる。
「来年は……もっと近くで見たい」
その中で、由希がポツリとそう零す。
その言葉を聞いて、隼人は由希の頭に手を置いてこう言った。
「来年はさ、もっと近くで見よう。またこの四人でさ」
梨花も冬葵も、そんな隼人の言葉に笑顔で、そして静かに頷く。
冬葵の彼女には悪いが、来年も冬葵を借りるかもしれない。
こうしている間にも花火は次々と打ち上がり、大きな音を響かせながら、赤 青 緑と言った様々な色の花火が、真っ黒な夜空という名のキャンパスを彩っていく。
こうして、幼馴染と過ごす日々はいつまで続くだろうか。幼稚園の頃から同じと言えど、いずれはそれぞれが別の道を進む。
きっと、未来は交わる事なんて無くて、それぞれにやりたい事があって、それぞれに別の未来があるのだろう。だとすれば、いつかは離れ離れになり、長くは続かないであろうこのかけがえの無い時間を噛み締める様に、隼人達は続々と打ち上がる花火と時間を、記憶に刻み込んだ。
『〜♪』
静寂に包まれた病室に、スマホの着信が鳴り響く。その音を聞いて、花火に見とれていた隼人は現実に戻され、ポケットのスマホを手に取る。
着信の相手は結衣だ。
「悪い、ちょっと電話してくる」
「早めに戻ってこいよ」
「努力はする。 もしもし……」
病室を出てから、隼人は小さめの声で電話に出た。そして、真っ暗の廊下を歩きながらなんの迷いも無く屋上へと繋がる階段を昇っていく。
『上坂』
「ありがとう、危うく忘れる所だった」
正直、花火に意識を持っていかれすぎて忘れる所だった。結衣が電話を掛けてくれなかったら、春奈との約束をすっぽかして居たかもしれない。
「結衣も花火見てるのか?」
『うん、家から見てる』
電話越しに、花火の炸裂音が聞こえてくる。頑なに教えてくれない結衣の家は、結構海の近くにあるのだろうか。
「じゃあちょっと幽霊を成仏させてくる」
『出来そう?』
「何とかな、また終わったら報告するよ」
『うん、じゃあ気をつけて』
「ああ、ありがとう」
電話を切り、階段を踏み間違えない様に慎重に登る。
ここまで来て怪我でもしたら元も子もない。
そうして、難なく階段を登り切ってから、屋上へと繋がる鉄の扉の前に、隼人は立ち尽くした。
今日一日、心が落ち着かなかった理由がこの先にある。けれど、立ち向かう覚悟は出来た。
そしてこれが、恐らく春奈との最後の別れになるだろう。
隼人はドアノブに手を掛けながら、大きな深呼吸をひとつすると、力を込めて扉を押し開けた。
扉の先では、既に花火を見つめる白いワンピース姿の女性が立っていた。
隼人の存在に気付き、いつものように微笑むがそこに言葉は無い。
そんな春奈の隣へと、隼人も何も言わずに並んで、同じ様に目の前で打ち上がる花火を見る。
「約束、守ってくれたんですね」
春奈は隼人を見ること無く、視線を花火の方に向けたままそう言った。
その問いかけに、言葉を返そうとしたがすぐには出なかった。けれど、呼吸をもう一つしてから、隼人は言い返す。
「僕が約束を破る訳ないだろ」
「姉ちゃん。」
隼人の言葉を聞いて、春奈の表情が変わった。
目の奥には、確かな動揺が浮かぶ。けれど、すぐさまそれを浮かび上がった涙が上書きした。
そして、頬を伝って流れ落ちた涙を拭いながら春奈は返す。
「そっか、やっと気付いたんだ。」
気がつけば、視界に浮かぶ花火は淀んで見えなくなっていた。