54話 酪農貴族
アロス国の王都にある貴族街の一角に、ある大きな屋敷がある。
家の富を誇示するような豪華絢爛な装飾。社会的な地位を象徴する一等地という立地に周囲を上回る大きさ。見聞が狭い者でも一目見ればさぞや高貴なお方の住まいだと見当がつくだろう。
そんな屋敷の中央、牢獄のような暗さの部屋に、一人の老人が寝込んでいた。
老人は病に侵されていた。歳も九十を超えている。都市部の富裕層であっても平均寿命が六十歳程度と短いこの世界では驚異的だが、同時に寄る年波には勝てず寝たきりの生活が続いていた。
「――――」
「――――――」
もう耳は聞こえない。同じ部屋にいる使用人たちが何か会話をしているようだが、内容が分からない。
きっと、自分を罵倒しているのだろう。それとも嘲笑だろうか。きっと、いずれかだ。
老人は分かっていた。これは治せない病ではないのだと。
回復魔法の工程は二つ、精査と治癒だ。魔力を流してダメになっている部位を適切に調べ、適量の賦活の魔力を流し込む。もし健康な部位にまで回復魔法を流し込めば、過剰な活性が起こり、破裂が起こる。この症状は壊死にも似ている。非常に危険だ。
老人の病は肉体機能を低下させる病だ。一見すると呪いにも似ている。肉体の内外問わずに各所が衰え、死に至る。
その上で、治せない病ではない。若く、健康なら、この程度。若ければ肉体の内部で破裂が起きても、自然治癒能力が勝り大して問題ではない。
しかし自分は老いている。体力も少ない。多少のミスでも致命傷になる。若ければ多少は雑でも問題ない。多少の失敗では死なない。しかし老いぼれの自分では、千の作業の内、たった一つのミスでも死ぬだろう。
高貴な家に生まれ、長年に渡り活動した自分に止めを刺したとなれば、治療師生命の終わりだ。だから誰も治さない。治せるほどの高位の治療師は、すでに十分な名声と財産を得ているが故に。
老人は分かっていた。自分の死を望むもの達がいると。
自分が当主の椅子に座ってから五十年。四十歳で当主の椅子についてから、代替わりせずにずっと懸命に働き続けた。
仕方のないことだ。老人にも息子に代替わりする意思はあったが、何人かは殺され、残りも死んだ。暗殺の可能性も考えたが、どれだけ調べても痕跡が出なかったので、きっと本当に不運な事故だったのだろう。ずっと前に真実の愛に目覚めたのだと言い出して勘当した馬鹿息子の居場所も分からなかったので、譲れる相手がいなかったのだ。
この世界の貴族は同族経営の会社に近い。自分の血が入った近しい者しか当主の椅子を譲れない。場合によっては養子を取る選択肢もあるが、魔装を代々継いでいる自分たちにはできない。
だから仕方のないことである。老人はそう思っている。
しかし、そう思わないものもいる。
具体的には孫の世代だ。いい加減に当主の椅子から退けと、代替わりを望まれているのだ。
理解できないわけではない。既に自分は老人。自分の意思ではベッドから起き上がることも、ペンを持つこともできない。寝たきり状態になってからの十年で、呂律も回らなくなった。自分が自覚していないだけで痴呆かもしれない。
見えない目の代わりに使用人が、動かない腕の代わりに使用人が。それもいいだろう。貴族にはそれをするだけの権利がある。
しかしそんな状態で義務であるパーティーに出るのはみっともないことであり、自分の家の名前に泥を塗る行為である。
理解していながらも当主の椅子に座り続けるのは、孫たちが自分の求める水準に達していないからだ。要求が高すぎるとは思わない。ひ孫の代なら、認めてもいい者もいるのだから。
しかし周囲はそうは思わない。ボケた爺の戯言として受け取ってくれない。もうできることはない。醜く衰えた体でもなんとか長生きして、状況が良くなるチャンスを待つ。出来ることはそれだけだ。
そう考えて十年。状況は何も良くならなかった。自分の病は改善することなく衰え続け、孫たちは醜くなり続けた。
もしかしたら、アイビー公爵が介入しているのかもしれない。十分にあり得ることだ。王家が四つの公爵家に支えられているように、公爵家も四つの伯爵家に支えられている。中でも自分の家は最も大きく、四つの伯爵家の家力を合計したら、半分以上が自分の家の力になる。それほどまでに大きな力を一つの家が独占することは非常に危うい。
加えて、自分が年長者であるというのも大きいだろう。アイビー公爵家と自分たちミルホルン家は宗家と分家の関係にあたり明確な上下関係にあるが、その上で同じ貴族同士でもあるのだ。貴族同士の上下関係は、貴族と平民の関係のような絶対的な壁ではない。歳が四十ほど離れ、自分の親や祖父母の世代の相手がまだ現役というのはやりづらいものなのだ。
そんな相手が寝たきりともなれば、後継者を擁立し、家の力を奪い、もしくは分散させようというのは非常に正しい行動だ。証拠はないが、この予想は外れていないという確信がある。
同時に、自分はこのまま死ぬのだろうという確信も。
だから、最初は分からなかった。
ベッドの傍に立った、ベッドの足と同程度の背丈の少年が、自分を治しにきたことを。
「治りましたよ」
「……ぁぁ」
目が見えなく手も理解できる神々しい輝きが収まると、喉から掠れた音が鳴った。
少年の差し出したコップを取った。動かしたくても動かせなかった、枯れ枝のような腕が、まるで鞭のようにしなやかに。
どろりとした液体を飲んだ。続けて肉を放り込んだ。
喉を通り、胃腸にたどり着く。懐かしい快楽に心が湧き立つ。お粥しか通らず、日によっては水さえ通らなかった喉を素通りし、どんなものでも拒絶した胃腸は栄養を取り込んだ。
「そこまでだ!当主から離れ……」
「下がれ、バルト」
「!?……そんな、本当に、治って……」
侵入者を切り捨てるべく駆けつけた兵士が青ざめた顔で膝を突く。
名前が事前に調べた一覧に覚えがある。確か孫の一人だったか。
「君が治してくれたのか。見ない顔だな。それに幼い」
「レイと申します。偉大なるゲオルグ国王陛下に仕えています」
「そうか、私が寝込んでいる間に、世の中は大きく変わったらしい」
老人の目には、少年の背から神々しい光が差しているように見えた。
「バルト、着替えをよこせ。ここ最近で何があったか、事細かに話せ」
「はっ、はい……しかし……」
「構わん、話せ」
「ぐっ……わ、分かりました。では……」
レイがこの場にいるにも関わらず、詳細を話し始めた。
ミルホルン伯爵家に仕えていないものの前で内情を話させる。おそらくはレイに……レイが使えている国王の派閥に移るという意思表示なのだろう。
(うまく行くといいなー)
あと一ヶ月の命と言われ、周囲もその前提で動いていたアイビー公爵家の重鎮、ミルホルン伯爵家の当主、グスタフ・ミルホルン伯爵の寿命を十年伸ばしたレイは内心でほくそ笑む。
レイの予想通り、大きな混乱が生まれた
「余計なことしやがって……ッッ!!!!!」
数日後、同じく王都にある邸宅で老人が過去十年で一番かもしれないほどの怒りの籠った気炎を吐きながら憤怒の形相を浮かべていた。
ヘラルド・アイビー公爵。王家に最も忠誠を尽くし続けた家であり、同時に最近は王家な不審な行動に疑念を抱き独自に活動している家の当主。
そしてレイが治療した老人の宗家に当たる人物だ。
「もう次の当主は決まっていた。領地の人員もだ。全て白紙だな。はは」
「確かに、治せなくはないと治療師達は言っていたが、失敗した時のことを考えていないのか?まだ我らアイビー公爵派は最も王家に近い忠義の家。その中でも有力な家臣を殺すリスクを負ってまで治すとは。生き急いでいるのだろうか、な」
「すでに十分な功績を立てているだろうに。あとはゆっくりと王家に媚びながら立場を築けば安泰だろうに。ふふ、これが若さか。いや、幼さというのかね。はは」
部屋にはアイビー公爵家の重鎮たちもいる。全員が激怒している。
血走った眼を経験に基づく全霊を以て抑え込み、理性的に会話をしている。一見すると怒っていないようにも見える。まるで嵐の前の静けさ。噴火の前の沈黙。精霊が完璧に封印を維持しているおかげで悪魔なんていないかのように思えてしまう禁忌領域。
まだ若く状況が飲み込めていない貴族が飲み物でも持ってこさせようとして、使用人たちは怖くて気絶していることに今更気が付いた。
「ララクマ帝国との戦場が消えた影響で起きた不景気もまだ改善していない。ふふ、これはあのクソガキが統治と経済に対する知識の乏しさ故か?それとも意図的なか?ふふ、失敬、どちらでも変わらないな」
「そうだな。農作が出来ない季節は村単位で従軍し、本格的な戦闘が起こる前に報奨金だけもらって帰る。これが出来なくなったおかげで景気が落ち込み、盗賊に身を落とす者が増え、治安が低下している。陛下も黙認してたのだがな。あのガキ、生きたまま頭部を開いてやりたい気分だ」
「何もかもが急すぎるのが最大の問題だ。根回しという概念が無いのか?」
「いや、報告によると財務大臣の婆様から、自分が利益を得るときは自分以外の誰かにも利益が生じるように立ち回りなさい、と教わっていた聞いている。実際、その教えを守り、王家派を筆頭に利益を得ているものも多いぞ」
「そうか。となると、我らが不利益を得ているのは意図的なのだろうな。ふふふ」
「困ったものだ。せめて、どこか辺境にでも飛ばせないものか」
「難しいな。少なくとも今年度は王都から一歩も出てはならないと陛下から命令を受けているらしい。しかも正式な王命だ。どうやっても外には出せない」
「ああ、姫様方が頼んだのだったか。ふふ、我らの想定を上回っているな。ははは」
激怒しながらもアイビー公爵たちは冷静に状況を整理する。長年に渡り政治をしている彼らは怒りを抑える術を知っているが、抑えられるだけで怒りを覚えないわけではないのだ。
おそらく怒りで頭の血管も切れている。レイの想定以上の怒りっぷりだ。
「ふ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~………………。
良し、みな、一時落ち着こう。それで今回はミルホルン伯爵家だったな。様子はどうだ?」
アイビー公爵が大きく息を吐き、仕切り直すように号令をかける。重鎮たちも頭を冷やす様に務め、一人が報告書を読み上げた。
「はい。予想は全て悪い意味で的中しました。病が完治し、加齢による影響も見られなくなりました。昨日は自領で育てている牛の肉をたらふく食べ、涙を流しながら祈りの言葉を読み上げたそうです。ちなみに対象は賢神様と、あの小僧だそうで」
「そうか。まあ予想通りだな。十年も寝たきりで、そのずっと前から好物の肉を喰えなかったと聞いている。我らの根回しもあるが、誰も治してくれなかった中で治してくれるものが現れたのだ」
忌々しそうに呟くも、その中身は行動には理解を示すような言葉だ。
ヘラルド・アイビー公爵も既に高齢。肉体が衰え始めてから久しい。健康は不老不死の劣るが準じる程度には望まれる人類の夢。永遠に生きるより百年間の健康を願うものだって珍しくない。
同時に、そんなことが出来るレイに嫌悪と称賛の思いが生じ、即座に目を逸らす。
「また、ミルホルン伯爵領で生産される全ての農産物および畜産物の卸先を王家に優先すると発表しました。まだ本格的に影響が出るのは先でしょうが、既に様々な貴族家や商会の動きが目に見えて慌ただしくなっており、我らアイビー公爵家派から離脱するものが出るのさ避けられないでしょう」
「だろうな……ちっ、かなりの痛手だ」
畜産の歴史は古い。
原初の人間は狩りをし、獲物を逃がさないように一定範囲を柵で囲い、獲物を管理しやすくして、どこかのタイミングで肉にするよりもミルクや毛、角を採取したほうがいいと気が付いたのだという説がある。そして富を蓄え易くなったのだと。
この世界は魔物がいて世界中が危険だが、比較的危険な場所があるように、比較的安全な場所もある。極めて危険な場所があるように、極めて安全な場所もある。安全な場所に人があるまり、集落を築く。
立地と環境は人が生きていくうえで非常に大きい要因だ。作物が育ちやすい環境、動物が集まりやすい立地。文明の発展と共に人工的に再現できるようになるだろうが、そもそも天然で最初から近くにあるというのは圧倒的なアドバンテージである。
ミルホルン家はその典型例だ。魔物が少なく野生動物が多い森の近くにいつからか住み、富を築き、アイビー家を主家と仰ぎながらも一定の力を蓄えた。
武力こそ乏しいが、その代わりに酪農に力を入れている。中でも品種改良を重ねたミルホルン領でしか育たない牛、通称ミルホルン牛はアロス国でも最高級の品質で、王族御用達のでもある。レイが大好きで姫様たちからこっそり分けてもらっている肉もこれだ。
貴族たちの間では冗談めかして、もし家畜にS級冒険者がいるならミルホルン領の家畜だろうと称えるものもいるほどだ。冗談ではあるが、誰も否定せず、確かにその通りだろうなとみなが笑うほどには評判がいい。
そうして蓄えた富は圧倒的。アイビー公爵家を支える四つの伯爵家の中でも特に馬鹿でかく、筆頭家臣を名乗りながらも全ての家臣の石高を合わせた半分はミルホルン家が占めているほど。
王家を支える最も大きな柱はアイビー公爵家だが、そのアイビー公爵家を支える最も大きな柱はミルホルン伯爵家なのだ。
そんな家の当主がようやく死んで自分の思い通りに動いてくれる馬鹿貴族を当主に据えられると思ったのに。
「いかん。また殺意が湧いて来た」
「抑えよ。皆同じ気持ちだ」
「そうですな……しかし、あの老人が死ぬのを待たず、殺しておけば、という気持ちも今更ながらぶり返してきてしまっているのも正直なところです」
「……いうな。今更言っても遅い。それにあの時はあれが最善……いや、無難の手だったのだ。結果的には失策でも過剰に悔いる必要はない」
実のところ六十を過ぎてもまだ当主の席に座っていた老人の疎ましく思うものは大勢いて、暗殺が計画されたことも少なくない。しかし本人が悲観的な性格かつ、後継者に求める水準が非常に高かったこと以外は特に問題なかったために毎回実行されずに終わっていたのだ。
非常に大きく歴史あり現在も有力な家の当主ともなれば、求める水準が高くて不味いことはない。むしろ妥協する方が問題だ。
それに、もし暗殺や強制的に隠居させたら、他の公爵家が横やりを入れてくるだろうという問題もあった。
事実は変わらずとも見方を変えるだけで物事の評価は一変する。貴族や政治家はこれが非常に得意だ。
グスタフ・ミルホルン伯爵は九十を過ぎても当主の椅子に座り続ける老害だが、見方を変えると身内の能力不足を一人が埋め合わせ続ける偉大な功労者に言い換えられる。
もし強制的に当主の椅子から退けると、必ず他の家が難癖をつけて攻撃してる。間違いない。
だからこそ、大きな問題が起きないため急いでいないことも相まって、老衰で死ぬのを待っていたのだ。
だというのに。
「ふ~~~~~~~~~~~~~~~~~……………………。
……話を進めよう。あの小僧を責める口実はあるか?」
「難しいでしょうな。事実を並べても、多くの治療師たちがさじを投げた患者を助けただけ。称賛する言葉は思いつきますが、非難するのは難しい」
「ぐうっ……回復魔法による勢力の拡大は非常に強力だと聖王国の件で実感していたが、個人でここまでやるのか」
「警備をすり抜けて不法侵入した件はどうだ?……すまない。無理だろうな」
「そうだな。当主本人があちら側についた以上、あの件は当主を助け出したと解釈される。それでも多少は攻撃できるが……無理だな」
各々が頭を抱えるが、有効な案は出てこない。
しかし明確に分かることもある。
「ミルホルン家はうちの傘下だ、間違いなく我々の陣営を取り込む一歩でしょうな」
「ああ。アイビー公爵家が王家の傘下に収まるだけではなく、勢力そのものを切り取りに来たのだろうう」
「となると、公爵、これは明確な攻撃です」
「……その通りだ」
部屋にいる面々に緊張が走る。王家からの攻撃。これは公爵が認めたことは大きい。戦争への一歩が進んだ。
いや、戦争はもう始まっていると認めたに等しいのだ。
「公爵、王家に抗議すべきではありませんか!?」
「いや待て!しかし、今回あの小僧がやったことは病人を治しただけだ!これに抗議すればミルホルン家が離れるのは確実。もう少し慎重になるべきでは?」
「もう遅い!我らはグスタフ殿を十年も見捨て続けてのだぞ!?もはやこちらに戻ってくることはない。間違いなくな」
「そも、一番の問題はあの小僧だ。何度調べなおしても信じがたいが、あの小僧の背後にも誰もいない。陛下よりいくらかの権利を認められているが、具体的な行動はあの小僧が考えて実行している。全て独断だ、全くもって信じがたい……信じたくないが」
「だが陛下は我らの訴えを全て破却している。これは黙認といっていいだろう。それにあの小僧は王家派なのだがら、王家からの攻撃に等しい」
部屋中に怒りと混乱、そして不和が広がっている。
そしてついに一線を越えた。
「公爵!こちらも攻撃に出るべきです」
「その通りだ。公爵、これは明確な攻撃です!」
「……結論が出たな。我ら以上の権力に守られている以上、正攻法であの小僧を排除するのは難しい。ならば、暗殺者を放つ」
公爵の言葉に部屋中が無言で沸き立つ。獰猛かつ凶悪な笑みを浮かべ、見るものに暴力的な印象を与える。
「ここまでの事態になれば、内心では陛下に反感を持つ者も増えるだろう。これは明確な攻撃である。しかし我らも王家と適当するのはまずい。狙いはあくまであの小僧だ」
「他の者はよろしいのですか?」
「ああ。他にも厄介な者はいるが、我らの手の者やオーレリユ公爵家の手先とにらみ合いをしてたり、あの小僧が巻き起こす混乱の後始末で手が回っていないからな。
どの勢力も戦力も人材もそれなりに豊富だが拮抗していて、そんな中であの小僧だけが『空き』なのだ。あの小僧さえ始末すれば、こちらが一方的に攻撃されることはなくなるだろう」
アイビー公爵家派は怒りを滲ませた声でそう断言した。