横から
その日は、とても暑い日だった。少しの間であれば心地良いと思えたが、段々と暑いという感覚が勝ってくる、そんな暑さの日だった。蝉の声がより一層暑く感じさせるという言葉の意味を今年もまた思い知らされるような日でもあった。こういう日には家で網戸のある部屋で昼寝をしたいものだ。エアコンがよく効く部屋ではなく、じんわりとした暑さとの中で風がよく、というわけでもないが吹き込む場所のほうが心地良く眠れた。風で木々や壁掛けのカレンダー、洗濯物をほしたハンガー同士がぶつかる音が心地良いリズムを刻み、時折響く蝉の声、車の走行音、家がきしむ音等が程良いアクセントとなり、天然の子守歌となる。普段寝付きが悪い自分でも、こういったロケーションではすぐに眠れてしまう。夏を嫌いになれない数少ない理由が、ここにある。だが自分がこの環境で眠れるのは一年に一度しかない。盆で親の実家、つまり祖父母の家に行く時のみである。自分の家は、地方の中で一番発展した都市にある。なので騒々しさとは切っては切れぬ関係である。朝の七時を過ぎれば車の走行音が鳴り止まず、人の歩行音と話し声がけたたましい合奏曲となり、夜になれば若者の騒ぐ声が響き、ビルの光が眩しく光る。だが祖父母の家は比較的田舎にあるので、都市部の騒々しさは噓の様になくなる。都市の便利さを捨ててまでこちらに移りたいとは思わないが、暫くはこちらで過ごしたくなる程である。
話を戻そう。その日自分は、自分等は居間で母兄妹祖母が揃って昼寝をしていた。そして全員が目覚めた後のことだった。午後の一時ちょっとに寝始めたので、目を覚ましたのは三時半を過ぎてからだった。寝起きで皆気力が無く、何もやりたくないと思える程気力が出ていなかった。かくいう自分が一番ひどく、目を覚ましたというのに体を起き上がらせようとせず、寝そべったままだった。まあでも起きないとなと思い、何とか体を持ち上げ、立とうとした時だった。足音が聞こえた。家の中からではなく、外からだった。だが別にそれ自体は何も珍しいことではない。大方、近所の人が回覧板でも持ってきたか、郵便局の人が配達物を渡しに来たかだろうと思った。だがそんな人影は見えなかった。正面からは。その足音が聞こえてきたのは家の正面からではなく、横からだった。もちろんその足音は野生動物のそれではなく、人間のものだった。次第に恐怖が生まれてきた。得体の知れない何かに対する恐怖が。一歩ずつ、ほんの少しの間を空けながら、それは近付いて来た。そしてついにガラス戸に、その姿が見えてきた。その瞬間、体中を、脳を、肺を、胃を、内臓を、全身の感覚器官に至るまでを舐め回す様な、恐怖に近い様でそれとは全く違う様な感覚が、感情が襲って来た。その姿を一言で言うならばそれは、鬼だった。秋田伝承のなまはげの様な作り物の様なものではなく、古事記等の絵巻に出てくる様な、妖怪やその類のものだった。現実に存在するはずの無い存在が目の前にいた。明確な大きさは多少猫背だったのもあって分からないが、百六十センチ前後だと思われる躯体に、原色、主に赤や黄色といった明るい色を複数あしらった服を身に着けていた。そしてまさしく文字通りの鬼の形相をしていた。明るい色に恐怖を与えられたのは初めてだった。そういえばあの鬼を見て以来、明るい色を嫌う様になった。深い理由は特になかったが、これが無意識に嫌っていた事由かもしれない。そしてそれを見た瞬間自分は二階へと逃げ出した。それに続いて兄妹も逃げ出した。そして二階の一室の扉を勢いよく開け、兄妹が入りきるのを待って同じく勢いよく閉めた。そして急いで近場にあった物を扉の前に積み重ね、バリケードを作った。気付くと自分は涙を浮かべていた。自分の記憶上、恐らく初めて恐怖で泣いていた。兄妹とも一切口を利かず、ただただうずくまってあの鬼が去るのを待った。早く母がもういいよ、大丈夫だよと言ってくるのをひたすら待った。その時間はまさしく一つの感情にのみ心を支配されていた時間だった。待っていた時間は、ほんの十分にも満たなかったそうだが、一時間も二時間も経っていたかのように思えた。そして待ちに待った言葉が、部屋の外から聞こえてきた。もう良いよ、と母の声が。そこで自分の緊張感というべきものが一気に切れた。安堵感が止まらなかった。泣いて歪んだ顔は、一気に笑顔になった。その時に自分の喉が枯れて声が出ないことに気が付いた。兄妹曰く、今まで聞いたことも無い、とてもとても低い声で泣き叫んでいたらしい。獣が雄たけびを上げるよりも、建物が崩れる音よりも、大量の機械が鳴らす重低音よりも、どんな音よりも低かったという。そしてあの場所に戻ると、まるで何事も無かったかの様だった。
あの鬼の正体が何なのか、どうやって母は追い払ったのか、それともどのようにして去って行ったのか、気にはなったが親に尋ねようとはしなかった。兄妹も同様だった。だが自分の多少なりとも存在した怖いもの見たさが、自分を駆り立てた。実はあの鬼の正体に心当たりがあった。この家には実はもう一人住人がいる。曾祖父である。齢は詳しくは知らないが、当時百に近い歳だったらしい。記憶上一番古い記憶の中ではもう既に介護状態だったはずだ。歩くのがやっとで、それも壁か何かに手をつかなければ歩けないような状態だった。そして歩く頻度も一日に二回あるかどうかという、ほとんど寝たきりの状態だった。曾祖父の部屋は居間とはかなり離れていて、家の構造上、曾祖父の部屋と居間は対角にあり、正確な距離は分からないが結構離れている。そしてその部屋にはガラス戸が付いている。足腰の弱い曾祖父でも、多少なりとも無理をすれば自力で外に出られなくもない。だが外から居間まではとなると、かなり遠い。大きく外回りする必要があるので、壁に手をつかなければ歩けないような曾祖父には到底不可能のように思える。もちろん壁に手をつけば不可能か可能かと言われれば、不可能というわけでもないだろう。そしてその道すがらにはガラス戸が数枚ある。そこに手形でも残っているのではと考えたが、中からも外からも手形らしきものは見当たらなかった。それだけでなく、体重を押し付けたと思しき跡も無かった。ガラス戸同士の間に数センチコンクリートでできた隙間がある。だがそんな小さい所を狙って体を支えるなんていう器用な真似を果たして曾祖父に出来るのか怪しい。そうして何らかの痕跡が無いかと探していると、あるとんでもないことに気付いた。地面から曾祖父の部屋まで、二十センチ程の高低差があることに。あの足腰の弱い曾祖父に、こんな高さを上り下りすることが出来るはずがない。仮に可能だとしても、それはかなりの体力や時間をかけることになる。もちろん声もあげるだろう。だが自分は曾祖父が喋っている所を見たことも聞いたことも無い。もしあの時に聞こえたとしてもそれを自分は車の走行音か野生動物の鳴き声か何かかと勘違いしていたのかもしれない。簡単な話、母か曾祖父にでも直接訊けば解決するだろう。だが自分に訊くという勇気は無かった。結局、自分はうやむやなまま諦めることにした。だが身内の誰かがやったとすれば真っ先に挙げるとすれば祖父ではないのかと誰もが言うだろう。だが祖父はその時間帯仕事に行っており、家にはいなかった。仕事場の場所は詳しくは知らないが、車で十数分離れている所だという。その距離を徒歩や自転車で来たとは考えにくいし、車で来たとしても近場に車走行音や停めるような音は聞こえなかった。何より、わざわざ孫を驚かせるためだけに仕事を抜け出すとは、普通には考えられない。事実祖父が帰ってきたのは鬼が現れてから二時間も後だった。その日はもう一度鬼が現れるのではとびくびく怯えながら過ごした。結局盆の滞在中にはそれ以上は現れなかった。家に帰っても誰かに訊いたり話したりは一度もしなかった。鬼の正体を母や祖母は恐らく知っているはずだ。だが訊く気にはならなかった。単に正体を知ってしまうのが怖かったのかもしれないし、知らないままでいたかったのかもしれない。どちらにせよ、もうあの鬼には現れてほしくなかった。
その次に祖父母の家を訪れたのは、約二ヶ月後の秋だった。正直、あの鬼については忘れていた。単に祖父母に会えるのが楽しみだった。そして祖父母の家に着いた途端、曾祖父がいることを思い出した。そしてそれに紐づいて鬼についても思い出してしまった。一気に帰りたくなった。だが自力で家に帰る手段は無い。ただ自分には鬼のことなど忘れたふりをして早く時が過ぎるのを祈ることしか出来なかった。到着したのは二時を過ぎたぐらいで、前回現れた時間を考えると、現れるであろう時間の前に着いていた。だがその日は何事もなく過ぎた。正直いつ現れるのか分からないので、現れないでほしいと願うばかりだった。今回は二泊三日する。一番怪しいのは二日目だ。一日中家で過ごすのはその日だけなので、現れるとすればその日だろうと思った。あの日もそうだった。墓参りを前日に終え、一日中家でゴロゴロしていたあの日と。自分は母と離れるのが怖かった。一人でいるとき、目の前にあの鬼が現れたら多分何も出来ない。恐怖で逃げることもままならないだろう。もし捕まりでもしたら、その後にどんなことをされるのかなんて、想像もしたくなかった。だからその日はいつも以上にほとんど離れようとはしなかった。ほとんど同じ空間や視界の範囲内にいた。そして三時を過ぎたぐらいだったか。祈りが届かず、あの鬼が現れた。どう正しく行動すれば良いか分からない。あの日は二階に逃げ込むことで難を逃れた。ならば同じ方法を取れば良いだろうと思い、全速力で逃げた。結果、あの日と同じく何事もなく時が過ぎた。その日も色々と探したが、正体に繋がる様なものは発見出来なかった。
そして自分が祖父母の家に二泊以上する日は決まって二日目か三日目に、あの鬼が現れた。帰る度に忘れ、訪れる度に思い出す。そうして二年程が経った。その日は初めて鬼が現れなかった。二泊三日の中、一度も。それからというものの、あの鬼はその日を境にぱったりと現れなくなった。何度祖父母の家に訪れようとも、一度として現れなかった。それから約十ヶ月後、曾祖父が亡くなった。名前も知らない親戚が、自分を少しでも元気付けようと冗談を何度も、何個も言っていたのをよく覚えている。その日に暫く忘れていた、あの鬼のことを思い出した。既にあの鬼の記憶はほとんど無かった。服の色やものすごくぼんやりとした顔ぐらいしか思い出せない程に。結局曾祖父に訊けないままだった。そういえば時期的にも曾祖父を全く見かけなくなったのが、約十ヶ月前のあの鬼が現れなくなったあの日からだ。それまでは滞在中に一回は必ず見ていたのに。やはりあの鬼の正体は曾祖父だったのか。今となっては確かめる手段は無い。母や祖母はそのことをすっかり忘れており、訊くと逆に何言っているのと返される始末で、子供の頃の空想だと思われてしまう。兄妹ももうその存在をすっかり忘れていた。結果として、あの鬼は自分の記憶の中だけの存在となってしまった。このことを時折思い出す度に正体を知りたいと思うが、確かめる手段はもうこの世には存在しない。だがそれで良かったと思っている自分がいる。結局のところ、あの鬼の正体を、自分は知りたくなかったのだ。