第四章:遠い記憶④
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水を汲もうと川のほとりにかがみ込んだとき、レイシャは誰かの足音を聴覚に捉えた。顔を上げると、茂みの奥で一瞬何か青いものがちかっと光るのが見えた。レイシャは咄嗟に杖に手をやり、身構える。誰、と誰何を問うと、がさりと川の向こう側の木の葉が揺れ、黒衣に身を包んだ青年が姿を現した。青年の頭には大きなツノが、背には黒い翼が生えている。
「魔族……!」
レイシャが声を上げると、魔族の青年は彼女に背を向けて立ち去ろうとする。しかし、レイシャはその魔族の青年に見覚えがあった。
(彼は……ルテルナで見かけたあの……!)
黒い髪に紫の瞳。彼の顔を形作るパーツの一つ一つが、その眼差しが、纏う気配が、レイシャのよく知る彼のものとあまりにも酷似していた。
「お願い、待って!」
レイシャは魔族の青年を思わず呼び止める。
「あなたは……イェルンなの……?」
「レイシャ……?」
魔族の青年は紫の瞳を瞬かせた。レイシャと青年の視線が交錯する。無意識に口にした名に彼ははっとした。彼はレイシャが呼んだ名前を実感のないままに口の中で繰り返し呟く。
「俺は……イェルン、なのか……?」
イェルン・アルニスト。それは二百年前の聖戦の最後に命を落とした《紅玉の勇者》の名だ。魔王ザグスト・イグル・ガヴィーニアとして、今の時代を生きる彼のものではない。
ザグストはやはり、レイシャのことを知っていると思った。会うのは二度目だが、それでも彼女は自分にとって特別な存在なのだと直感が告げていた。
長くさらさらとした銀色の髪。エルフの特徴的な長く尖った耳。ザグストのことを見つめる微かに潤んだ新緑を思わせる色の双眸。儚げなのに凛とした強さを併せ持つ面差し。そして、ザグストのことをイェルンと呼んだ、透き通っているのに憂いと切なさを孕んだ声。
彼女の胸元で赤い石が散りばめられたネックレスが揺れていた。ちらちらと輝くその石は、かつての自分の相棒――《赤の聖剣》を彩っていたルビーの欠片だと確信した。
どくどくとザグストの心臓が鳴った。そして、脳裏に知らないはずの光景の断片が奔流となって流れ込んでくるのを感じた。
ヴィリア王国の王城で初めて彼女と顔を合わせたときのこと。初陣のころ、危うく殺されかけるところだった自分を庇ってくれた彼女の背中。夜中に見張りをしながら、焚き火越しに言葉を交わし、お互いのことを少し知ることができたあの日。ほんの少し指先が触れ合っただけで、恥じらうように俯いた彼女の表情。秘めた想いを伝え合い、初めて唇を重ね合った日の、星が降り注ぐ夜空。募る想いと衝動を押さえきれずに互いの体を求め合ったあの夜の、抱きしめた彼女の素肌から伝わる狂おしいほどの熱と何度溢れても止まることを知らない愛しいという感情。そして、遠のく意識の中、霞んだ視界で最後に見た彼女の泣き顔。
それは紛れもない前世の記憶だった。前世の自分は、《紅玉の勇者》イェルン・アルニストを生きていた。
そして、川を隔てた向こう側から自分を見ているのは、かつてイェルンだった自分自身が誰よりも愛した女性だった。長い時を生きる彼女は、ほんの少しだけ大人びてはいたが、あのころとほとんど変わらない姿でそこにいた。目に映る彼女の姿に、懐かしさと愛おしさ、そしてやりきれなさが込み上げてくる。
何を話せばいいのだろう。彼女にどんな言葉をかければいいのだろう。再会を喜ぶ言葉だろうか。それとも、あのとき最期に泣かせてしまったことを詫びる言葉だろうか。ザグストは頭を悩ませたが、結局口をついて出たのは月並みな言葉だった。
「レイシャ……その、元気そうでよかった」
中身のないただそれだけの言葉に、レイシャの目から涙が溢れ出した。彼女は流れる涙を拭おうとすらせずに、
「イェルン……! やっぱり、イェルンなのね……! 会いたかった……! ずっとずっと、会いたかったの……!」
そう言うとレイシャは、彼女らしくもなく声を上げて泣き始めた。ひくっ、ひくっと揺れる華奢な体を抱きしめたい衝動に駆られ、ザグストは一歩踏み出した。
「レイシャ。そのネックレスは、もしかして、俺の……?」
ザグストがそう問うと、レイシャは目元を白く細い指先で拭いながら、
「ええ。あの戦いが終わった後、あなたの砕けた《赤の聖剣》のルビーをかき集めて作ったのよ。どうしてもイェルンのことを忘れられなくて、ずっとこれを見てイェルンのことを想ってたの」
パシャリ、と黒いブーツの先が川面を蹴る。足にまとわりつくひんやりとした感触に、ザグストは一気に現実に引き戻された。
今の自分はイェルンではないし、彼女の仲間ですらない。それどころか、魔族の長である今の自分は彼女と相反する立場にある。とても彼女に触れられるだけの資格があるとは思えなかった。
「レイシャ。今の俺はイェルンであってイェルンじゃない。レイシャのことが好きだったイェルンは過去の――前世の俺だ。
見ての通り、今の俺は魔族だ。レイシャとは相容れない存在なんだ」
そのとき、レイシャの背後から騎士服に身を包んだ茶髪の青年が姿を現した。
「レイシャ、一体水汲みにどれだけ掛かってるんですか。……って、レイシャ?」
レイシャの顔が涙で濡れていることに気づくと、訝しげにヴェーゼは彼女へと声をかける。そして、川の中に立つザグストの存在に気づくと、ヴェーゼはその甘く整った顔に険しい表情を浮かべ、双剣の柄へと手をかける。
「魔族……! レイシャに一体、何をしたんです!」
怒りを露わにし、今にも魔族の青年に斬りかかりそうになっているヴェーゼの白い上着の袖をレイシャは掴むと、
「ヴェーゼ、やめて! 別に何かされたわけじゃないから」
「ですが……」
ヴェーゼは困惑する。しかし、お願い、とレイシャに訴えかけられて、ヴェーゼは渋々剣から手を離した。
「レイシャ。もう、俺のことは忘れて欲しい。俺にとっても、レイシャにとっても、そのほうがきっと幸せなはずだから。そのネックレスも捨てて欲しい。今のあなたには必要のないものだから」
そう言うと、ザグストは踵を返す。彼は川から上がると、生い茂る木々の葉を揺らしながら、夜闇の中へと消えていく。
「待って!」
彼を呼び止めようと、レイシャは叫んだ。しかし、彼は今度は振り返ることはなかった。
「……今の人は?」
そう尋ねながら、川辺に座り込んだままのレイシャの横へとヴェーゼは腰を下ろした。しかし、その問いに答えることはできず、レイシャは唇を噛み締めて下を向く。
先ほどのレイシャは、ヴェーゼが見たこともないような顔をしていた。魔族の青年に向けられたレイシャの視線は、まるで生き別れの恋人に向けるような切ない熱を帯びていた。
そして今、黙り込んでしまった傍らの彼女の顔には悲痛と苦悩が浮かんでいた。ひどく辛そうな彼女の様子に、腹の底からふつふつと凶暴な衝動が込み上げてくるのをヴェーゼは感じた。
あんな魔族なんかにレイシャがこんな顔をさせられているのだと思うと腹立たしかった。レイシャがあんな魔族に自分の知らない顔を見せていたのだと思うと苛立たしくて仕方なかった。
ヴェーゼは衝動的にレイシャの肩へと手を伸ばす。先ほどの魔族の青年のことを考えているであろうレイシャに、今、側にいる自分のことを無理矢理にでも見させたかった。
いっそこのまま押し倒して彼女をめちゃくちゃにしてしまいたい、と雄の本能が首をもたげたが、レイシャの様子があまりにも痛々しくて伸ばしかけた手が宙を泳ぐ。
ヴェーゼははあ、と深いため息をつくと、
「レイシャ。言いたくないと言うのなら、私は無理には聞きません。あなたにだって、気がかりなことの一つや二つくらいあるでしょう。
けれど、これだけは忘れないでください。あなたが今、やらねばならないことは何なのか。最も優先しなければならないのは何なのかということを」
「ええ……わかっているわ」
蚊の鳴くような声でレイシャはそう言った。
「それなら、今は私はもうこれ以上、何も言いませんし、聞きません。
それはそうと、そろそろ皆のところに戻りましょう。そろそろ夕食ができているころでしょうから」
ヴェーゼは木桶を拾い上げると立ち上がる。そして、レイシャへと手を差し伸べると、彼女を立ち上がらせる。レイシャは抵抗しなかった。
ヴェーゼは微かに震えるレイシャの手を引きながら、木立の続く川沿いを歩き始めた。




