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第四章:遠い記憶①

「ジレイア、一体どういうつもりだ」

 黒衣に身を包んだ黒髪の青年は、紫の双眸に険しい色を宿し、厳しい声音でそう問うた。彼の頭部には大きな黒いツノ、背には立派な黒い翼が生えている。艶めかしい体つきを強調するように、背中と胸元が大きく開いた真紅のドレスに身を包んだ魔族の女は、何のことだか心当たりがないとでも言いたげな顔で、

「ザグスト様、一体何のことを仰っておられるんですの?」

 ザグストと呼ばれた青年は、苦々しげな溜め息をつくと、こめかみを押さえ、

「とぼけるな、ルテルナの件だ。なぜ、あのような勝手な真似をした」

「ザグスト様に敵意を持つ者がいるとの情報を耳にしたからですわ。不穏の芽は早めに摘んでしまうのが一番ですもの。ですからあたくし、ザグスト様の治世のためにはああするのが最善だと判断したんですの」

 ザグストは低い声でジレイアの名を呼ぶ。その声色から不機嫌さを感じ取り、反射的に彼女は居住まいを正す。

「俺は魔王だ。人間たちに敵意や反感を持たれることはある程度仕方のないことだ。

 我々魔族を統べる者の座が長らく空位だった影響で、今の魔族領内は荒れている。人間の領土を侵す余裕があるのなら、領内の立て直しに尽力しろ」

「ですが、ザグスト様。今のこの状況で、人間どもが牙を向けば、我々魔族の受ける痛手は計り知れませんわ。なればこそ、人間どもに対しては先に手を打っておくべきだとあたくしは考えますわ」

「何度同じことを言わせるつもりだ、ジレイア。そのような真似、俺は許可するつもりはない。次、同じようなことがあれば、お前といえど処分は免れないものと思え」

「……承知いたしましたわ」

 いかにも不承不承といったふうでありながらも、ザグストの言葉にジレイアは頷いた。しかし、その紅の瞳には納得できないと言わんばかりの不満の色がありありと浮かんでいた。

 下がれ、という言葉によって会話を打ち切られ、ジレイアはザグストへと首を垂れる。

「ザグスト様、それでは失礼しますわ」

 ごきげんよう、と淑女らしくドレスのスカートをつまんで膝を折ると、ジレイアは部屋を出て行った。

 ザグストは落ち着いた色の調度品で彩られた執務室の中からジレイアの姿がなくなったことを確認すると、黒い革張りの椅子の背もたれへともたれかかる。今しがたのジレイアとの問答で、心がぐったりと疲弊していた。

(俺は人間と反目し合いたいわけじゃない)

 領民である魔族たちに危害を与えられることがあれば、場合によっては戦うこともやむを得ない。しかし、それは最後の手段にしておきたかった。

(戦いは何も生まない。戦いの後には負の感情しか残らない)

 先日、ジレイアの独断専行により、起きてしまったルテルナの一件はザグストにとってはひどく不本意なものだった。知らせを耳にしたザグストはもう一人の側近であるディロンを伴って、ルテルナへ急行した。

(そういえば……あのエルフの娘、《藍玉の賢者》といったか? どこかで見覚えが……)

 聖戦と呼ばれる二百年ほど前の戦いで先代魔王を討った人類側の英雄の一人である彼女の存在は、ザグストも常識として知ってはいる。しかし、ルテルナで一瞬視線が交錯した彼女に、以前にどこかで会ったことがあるような気がしていた。

 彼女のことを考えると、なぜか胸が苦しくなった。その感情は、婚約者であるジレイアには覚えたことのない類のものだった。

 ザグストは黒い革手袋をはめた手で黒い髪を掻き分け、左耳のピアスにそっと触れる。彼の耳朶を彩る透き通った薄青の石は、彼が生まれてきたときに手の中に握りしめていたものだった。

 ルテルナで彼女と邂逅したとき、一瞬、耳元のこれが何かに反応するようにちかりと光を放った。そして、共鳴するかのように彼女の胸元で揺れていた赤い石のネックレスも同様の反応を示していたのを見た。

 彼女と自分の間には何かがあるということなのだろうか。彼女に関する記憶が薄膜を隔てたすぐそこにあるような気がするのに、何もわからないことがひどくもどかしかった。

 ザグストは己の内に込み上げてきた感情を持て余しながら、執務机の隅に置かれたカップに手を伸ばした。並々と注がれたコーヒーは、ジレイアとの話の間にすっかり冷め切ってしまっており、ひどく苦かった。

 馬鹿馬鹿しいと思うのにあの日の彼女のとの一瞬の邂逅が頭から離れない。ザグストは口の中の液体を飲み下すと、自分の中で蠢き出した不穏な感情の存在を追い払おうと、かぶりを振る。

 舌の上に残るコーヒーの余韻が今日はやけに苦いとザグストは思った。


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