第三章:狼煙と怨嗟④
暮色に染まる空の下、大きなシャベルを手にした青年の姿があった。風が鋭い冷たさを帯び始めた季節にもかかわらず、騎士服の白い上着を土まみれにした彼の額には汗が滲んでいる。
「ヴェーゼ」
レイシャが声をかけると、彼は作業の手を止め振り返った。
「レイシャ、どうしたんですか」
彼の口調は柔らかいが、逆光でその表情はわからない。しかし、見えないはずの彼の顔に苦悩と葛藤が滲んでいるような気がして、レイシャはたまらない気分になる。レイシャはそっとヴェーゼへと近づくと、
「ロイスとイーリンが、ヴェーゼはここにいるって教えてくれたの。その……ヴェーゼはどうして……」
「どうしてこんなことをしているか、ですか?」
尻すぼみになりかけたレイシャの言葉をヴェーゼは拾い上げる。揺れる彼の双眸には哀しみの色が見えた。ええ、とレイシャは躊躇いがちに頷く。
「ヴェーゼが亡くなった人たちのことを想っていることはわかります。けれど……これが原因でヴェーゼが傷つくことになるんじゃないかって思ったら、私……」
ありがとうございます、とヴェーゼは口元に淡い笑みを浮かべる。
「レイシャ、あなたは優しいんですね。私もわかってはいますよ。私がこうやって亡くなった方々を弔うのをよく思わない人たちが少なからずいることは」
「だったら、どうして……!」
そう問うたレイシャの声が思わず高くなる。自分が傷つくかもしれないことがわかっているのなら、わざわざそんな真似をしないで欲しかった。彼が傷つくところを見たくはない。
「それでもそうせずにいられないのが、私という人間だからです。
教会騎士なんていう仕事をしていれば、人の死なんて嫌というくらい目にします。私たち教会騎士は基本的には守るのが仕事ですけれど、それでもすべてを守れるわけじゃありません。
人の死を仕方ないで片付けることは簡単ですが、私はそうはしたくない。ちゃんと覚えていたいんです。そのために私はきちんと人の死に向き合って、その上でちゃんと前に進んでいきたい」
それは人の在り方としては正しいけれど、同時にひどく苦しい生き方であるようにレイシャには思えた。
「ヴェーゼは……強いのね。だけど、そんなふうに向き合い続けることは辛くはないの?」
「そうですね……守れなかった命を目の当たりにする度、自分の弱さを突きつけられているような気分にはなりますね。だけど、その現実から目を逸らすわけにはいきません。向き合い続けるしかないんです」
もう日が沈んでしまいますね、と空を仰いだヴェーゼの横顔が何だか苦しそうにレイシャの目には映った。シャベルを握り直し、土を盛り重ねていくヴェーゼの右腕を思わずレイシャは掴んだ。
「レイシャ?」
ぽすんとレイシャはよく鍛えられたヴェーゼの背中へと額をつけると、
「昨日の夜、私は一人じゃないってヴェーゼは言ってくれたでしょう? 私が辛いときや不安なときは支えるって。
だから、私にもヴェーゼの気持ちに寄り添わせてほしいの。ヴェーゼが一人でそんなふうに抱え込んでいるのを見ていたくない。私にも、ヴェーゼのことを支えさせて」
ヴェーゼは振り返ると、足を折り、少し低いところにあるレイシャへと目線を合わせる。
「駄目ですね、あなたにこんな顔をさせてしまうなんて」
苦笑まじりにそう呟くと、ヴェーゼはシャベルを土に突き立て、黒い手袋を外す。彼はレイシャの顔へと手を伸ばすと、彼女の緑の双眸を濡らすものをそっと指で拭い取った。
「どうしておかあさんを守ってくれなかったの?」
二人の背後で舌足らずな幼い少女の声が響いた。薄闇に紛れるようにして、栗色の髪を二つに結った五歳ほどの少女が二人を見上げていた。
「エルフのおねえさんと騎士のおにいさん、朝、魔族と戦ってた人でしょ? みんな言ってるよ。あたしのおかあさんが死んだのも、お隣のおばあちゃんが死んだのも、道具屋のおじさんが死んだのもぜんぶぜんぶ、おねえさんたちのせいだって」
「こら、やめなさい」
少女の父親らしき憔悴した顔の男が慌てて駆け寄ってきて、少女を嗜めた。彼はすみません、とレイシャたちに頭を下げると、
「あなたたちが私たちのために戦ってくださったことには感謝してしています。あなたたちにこんなことを言うのはお門違いですし、あのままならどのみちあの魔族たちに村中が皆殺しにされていただろうということも理解しています。
けれど、どうしても思ってしまうんです。あなたたちがこの村に介入しようとしなければ、妻が死ぬことはなかったと。あなたたちが魔族たちに好き勝手させられないほど強ければ、妻が命を落とすことはなかったと……!」
男の口から漏れ出した怨嗟の言葉に、申し訳ありません、とヴェーゼは詫びを口にした。更に言葉を続けようとする彼をレイシャは目で制すると、深々と頭を下げた。
「すべては私たちの責任です。私たちが不甲斐ないばかりに、このような結果を招いてしまい、本当に申し訳ありません」
かつて無辜の人々を守りきれずに頭を下げたアラドの気持ちが少しだけわかったような気がした。無用に仲間たちを傷つけられたくはない。そして、自分たちのもたらした結果を誰よりも真摯に受け止め、このような悲劇の繰り返しから一日も早く人類を解放したいと希っていたからこそ、彼は甘んじて投げかけられる石と罵声を一身に受け止め、頭を下げたのだ。
今度こそ、魔族の脅威に怯えなくてよい永遠の平穏をこの世界に取り戻さなければならない。そのためには自分たちは確実に魔王を討たねばならないとレイシャは痛いほどの実感とともに、改めて決意を胸に刻み込んだ。
翌朝、レイシャたちはルテルナを発った。レイシャたちに感謝を示す者もいたが、一方でレイシャたちへと恨み言をぶつけてくる者も多かった。
去り行くレイシャたちの背中を睨みつけるルテルナの人々の怨嗟の視線が痛かった。しかし、レイシャはそれでも毅然と顔を上げる。
「皆、ルテルナのこの一件は氷山の一角に過ぎないわ。私たちはもうすぐ、国境を越え、魔族領へと入る。そうしたら、今回以上の悲劇を目にすることも増えるでしょう。
それでも、私たちは魔族に脅かされる人々の平和な日常を取り戻すために、進まないといけない。今度こそ、永遠の平和を世界にもたらすために、魔王を討たないといけない。
正直、これは相当分の悪い戦いよ。だけど、どうかお願い。皆、私に力を貸してほしいの」
レイシャの言葉に、違うでしょうとヴェーゼが訂正を入れる。
「私たちはあなたに力を貸しているのではありません。共に戦っているんです。私たちは皆、戦う理由がある仲間なのですから」
「ごめんなさい、そうだったわね」
ヴェーゼの言葉にじんわりと胸が熱くなる。
分の悪い戦いであることには変わりはないはずなのに、レイシャの心の中にはもしかしたら、という希望が芽生え始めていた。一人ではないということが、共に戦ってくれる仲間がいるということが心強かった。
まだまだこの旅の道行きは長い。レイシャは背後に小さく見えるルテルナを振り返ると、自分たちの手で世界に巣食う数多の悲劇を終わらせてみせると誓った。




