第三章:狼煙と怨嗟②
「季節を運ぶ天空の父よ、疾く風の加護を与えよ! ミストラル・ブースト!」
レイシャは己へ風の魔法を纏わせると、村外れへ向かう足をより早めた。ヒュウという己の体が空を切る音が聞こえる。彼女は、髪の間から覗く尖った耳の先に空気抵抗でぴりぴりとした痛みを覚えながらも風の速度で走り続ける。
レイシャが外壁の近くまで迫ったとき、目の前に人影が立ちはだかった。
「ジレイア・シェイリーン……!」
紫紺の髪に紅の瞳。魔族特有の黒いツノと翼。妖艶な肉体を惜しげもなく曝け出した、この場にひどく不似合いな出で立ちのその女は、間違いなく現魔王の側近かつ婚約者だと名乗ったその人物だった。
「《藍玉の賢者》。あたくし、申し上げましたわよねえ? 余計な真似をすれば、村人を殺すと。わざわざ忠告して差し上げたというのに、嘆かわしいことですわ。エルフ、あなたのその無駄に長い耳はただの飾りですの?」
ジレイアは流し目でレイシャを見やると、小馬鹿にしたようにふん、と鼻を鳴らす。レイシャは緑の目できつくジレイアを睨み据えると、
「ルテルナの人たちは殺させないし、この村はあなたたち魔族の好きにはさせないわ。ジレイア、あなたは私が今ここで倒してみせるわ」
「言っていなさい。あたくしが村人を皆殺しにするのと、お前があたくしを倒すの、どちらが早いかしらね。見物ですわ」
余裕の笑みを崩さないまま、ジレイアは鎖鎌を抜き放つ。魔力を帯びたその得物はジレイア自身の髪の色にも似た禍々しい光を湛えている。
レイシャへと向かって巨大な鉄球のついた鎖の先端が振り下ろされる。残像を宙に描きながら迫りくる、鉄球をレイシャは風の魔法を纏った脚を駆使してどうにか避けたが、執拗に彼女を追い続けてくるその鉄球から逃れ続けることは難しい。ジレイアは涼しい顔で手元の鎖鎌を操り、レイシャを蹂躙し続ける。
(どうにかして、この女の動きを止めないと……!)
レイシャの息が上がり始める。肩が激しく上下し、鼓動が激しく脈打っている。足の筋肉が攣りそうだった。魔法で強化されているのはあくまで移動速度だけであり、レイシャ自身の筋力や基礎的な身体能力が底上げされているわけではない。
「……っ、聖なる鉄槌よ、彼の者を繋ぎ止める楔となれ……!」
息も絶え絶えにレイシャは口の中で呪文を唱える。迫りくるジレイアの攻撃から目を離せない以上、魔法に集中しきれず、否応なしにいつもより魔力の練度が低くなる。
「ディヴァイン・スパイク!」
轟音とともに雷撃がジレイアを襲う。しかし、ジレイアはつまらなさそうに手元の鎌を振るうと、稲光を切り裂いた。
「かの《藍玉の賢者》も大したことありませんわね。この程度の魔法、このあたくしには効きませんわよ」
魔王に重用されているというだけあって、この女は強い。自分だけで勝てるだろうか。レイシャはふと弱気になる。
(やらないと駄目なのよ。この村の人々のために、みんなのために、私を信じて一番大変な役回りを引き受けてくれたヴェーゼのためにも……!)
レイシャは手の中の杖を強く握りしめると、目を閉じる。精神が研ぎ澄まされていくのを感じる。この杖の質は決して悪いものではないが、かつての相棒だった《青の魔杖》に比べて魔力伝導率がはるかに劣るこの杖でこの魔法を使うには大量の魔力が必要になる。ただでさえ昨日からろくに休んでいない状態で魔法を使い続けている今、これでジレイアを仕留めきれなければ、この戦いは一気に厳しいものとなる。しかし、活路を切り開くためにはそれでもやるしかなかった。
「世界を創りし祖なる光、混沌を切り裂く標となれ」
ジレイアの鎖が頬を掠り、レイシャの横顔に血の筋が走る。鎌の刃先がいたぶるように、レイシャのローブを裂き、脇腹の肉を抉っていく。痛みこそ感じているものの、レイシャの思考は驚くほどクリアで冷静だった。レイシャは自分をいたぶるジレイアの得物の動きをどこか他人事のように視界に捉えながら、体の中の魔力を練り上げ、手の中の杖へ纏わせていく。
「ケラウノス・クェーサー!」
強く濃く練り上げられたレイシャの魔力が杖を通じて解き放たれ、眩い光がジレイアを目掛けて迸る。しかし、ジレイアは濃い色の紅で染められた唇を歪める、不敵な笑みを浮かべると、
「先ほどよりはいくらかましなようですけれど……遅いですわよ」
ジレイアの握る鎖鎌が、彼女の背丈を優に超える大鎌へと姿を変えていく。彼女は巨大なそれを指先で軽々と弄ぶようにして放り投げる。車輪のようにくるくると宙を舞いながら、激しい炎を纏っていくそれの進路を目にしたレイシャは血相を変える。大鎌の向かう先には、ルテルナの人々がいる。血にまみれた双剣で魔族たちと戦い続けるヴェーゼの姿がある。人々を守りながら走るイーリンとナリアの姿がある。
「っ……させない、わ……!」
レイシャは自分の体から力が抜けていくのを感じた。視界が白み始め、膝からその場に頽れる。
「……っ……!」
詠唱中に受けた傷により、血を失いすぎた。せめて魔法で応急処置をしてしまいたいところだったが、そんなことを言っている場合ではない。今は目の前で起きようとしている惨劇への対処が最優先だし、今しがた行使した魔法のせいで使える魔力はもう残り少ない。
(どうしよう……これじゃあ、この場の全員を守ることなんて……!)
レイシャは血で汚れ、冷たくなった頬を強張らせた。いくらレイシャが魔力に恵まれたエルフであるとはいえ、限界が近かった。
ロイスと行動しているであろうシスルは、すぐに指示を出せるような場所にはいない。魔力切れを起こしかけている今のレイシャでは、この場にいる全員を守りきれない。それでもせめて自分の大切な仲間たちくらいは守りたい、とともすれば途切れそうになるぼんやりとした意識の片隅でレイシャは思った。どうにかしないと、と気力を振り絞って、レイシャは愛用の杖へと縋りついた。
「……っ……、大地を巡る息吹の歌い手よ、守護者となりて此方へ集え……っ! ブリーズ・シェイド!」
なけなしの魔力を無理やりかき集めて練り上げ、レイシャは魔法を発動させる。人々を守り切るには小さな風の盾が仲間たちを中心として、形作られていく。
ジレイアの大鎌が振り撒く火の粉が逃げる人々の頭上へと降り注ぐ。運悪く火の玉が着弾したその場所からは、じゅっという音を立てて、一瞬前までその場にいた村人を灰と化し、忽然と消し去った。
レイシャは己の無力さに唇を噛み締める。しかし、これが今のレイシャにできる精一杯だった。ジレイアは勝ち誇ったように高笑いを響かせている。
レイシャの魔法の範囲からあぶれた人々が、生きたまま高温の炎に溶かされる痛みに悲鳴を上げながら、物言わぬ灰へと姿を変えていく。地面では沸騰した血液がふつふつと泡立っていた。
これは自分が招いてしまったことなのだとレイシャは思った。無意識のうちに、守るべき人々よりもレイシャは自分の仲間たちの命を優先してしまっていた。それがこうして、無辜の人々の命を奪うことに繋がってしまっていた。
レイシャの魔法ももう長くは持たない。これ以上、魔法は使えそうにもないし、人々や自分たちがこの場を生き延びるにはどうしたらいいのだろう。
「堅き世界の礎よ、古の神の盾を此処に顕せ! アダマント・ウォール!」
ふいに澄んだ少女の声が響いた。声のしたほうを振り返ると、少し離れた高台に立った金髪金眼の少女が人々を守るように土の防御魔法を発動させていた。
「シスル……!」
掠れた声でレイシャは少女の名前を呼ぶ。シスルは少し申し訳なさそうな顔をすると、
「ごめんなさい、レイシャさん。遅くなりました」
「俺たちもあの場から撤退するのに手間取ってな。悪かった」
「ロイスも……!」
シスルの側で片膝をつき、ライフルのスコープを覗き込んでいる赤毛の青年はロイスだった。
シスルは痛ましげにぼろぼろになったレイシャの姿を見ると、
「レイシャさん、こんなにぼろぼろになって……! すぐ治療しますね」
金髪の少女は美しい羽の意匠の杖を掲げ持つと、鈴のような声音で歌うように呪文を紡ぎ始める。
「空高く響くは天使の声、降り注ぐは救いの歌! セイクリッド・アンジェラス!」
空からきらきらとした光が降り注ぎ、レイシャの体を包んだ。体がじんわりと温かくなり、楽になっていくのを感じた。少しずつ体に力が戻ってくる。
遠くで戦っていたヴェーゼの動きに鋭さが戻っていた。どうやらシスルの魔法は、この距離からたくさんの傷を負ったヴェーゼのことをも癒したらしかった。
「ちっ……厄介なのが来ましたわね」
ジレイアが露骨に嫌そうな表情を浮かべ、舌打ちをした。絶大な力を持つ回復役のシスルが合流したことで、戦況が動いたことは間違いなかった。
そのとき、藍色の髪の魔族の男が現れた。背後に配下と思しき数人の魔族を連れていることから、彼もまた高位の魔族であることが容易に推して知れた。レイシャたちの間に緊張が走る。ジレイア一人にすら苦戦している状況だというのに、強力な魔族が更に増えたともなれば、この戦いの趨勢は決したも同然だった。絶望感と無力感がレイシャの胸を満たしていく。
しかし、藍色の髪の魔族の青年は、冷静な顔でレイシャたちに一瞥をくれると、ジレイアへと歩み寄った。彼は槍を携えてこそいたが、レイシャたちに敵意はないのか、それを向けようとする様子はない。彼がジレイアへと何事か耳打ちすると、ジレイアは深々と溜め息をついた。
「これは陛下の治世に必要なことだというのに、どうして陛下はお分かりくださらないのかしら……」
切なげにジレイアはそう呟く。しかし、魔族の青年の冷ややかな銀色の視線に気がつくと、いかにも不承不承といったふうながらも、彼女は自分の配下の魔族たちに撤退の指示を出した。
唐突に終わりを告げた戦闘に半ば唖然としながらも、レイシャたちにはその場でことの成り行きを見守っていることしかできなかった。




