84話 ゾルタンに降る雪
古代エルフの遺跡での戦いから5日後。
「レッド! 起きて!」
眠っていた俺をリットが揺すってくる。
「なんだよ……アレスにメチャクチャにされた店を、昨日ようやく片付け終わって疲れてるのに……それに今日は寒いな、俺まだベッドから出たくない」
「いいから外!」
リットに手を引かれ、俺は渋々起き上がる。
「ふぁぁ」
あくびをすると、水差しから水を1杯注いで飲む。
夜に冷気で水は冷えていて美味しい。
「早く!」
今日のリットはやたら急かす。
一体何なんだ。
外に出ると、その理由はすぐにわかった。
「雪か」
空から、ハラハラと白い雪が舞っていた。
ゾルタンで雪が降るのは珍しい。薬草を取りに行く山の上の方だと雪を見かけることもあるが、ゾルタンの街で降るのは滅多にない。
「雪だよレッド! 去年も一昨年も降らなかったのに!」
リットははしゃいでいる。北国であるロガーヴィア公国で、雪は冷たい冬の象徴だったが、ゾルタンでは純粋に綺麗な光景だ。
「積もらないかな?」
「うーん、難しそうだな」
俺達は店の外で空を見上げ、手のひらに触れて溶ける雪を感じていた。
「お兄ちゃん」
後ろから声がした。
振り返ると、雪のように白いワンピースと、その服によく似合う白い帽子を被ったルーティがいた。
ワンピースは下町で俺と一緒に買った、ただの服だ。魔法の防具なのではない。
それにルーティの腰には剣がない。指輪、アミュレットなど身につけていた魔法の装備も、いまはすべて外している。
どこにでもいる普通の少女がそこにいた。
ただ、
「くしゅん」
「そりゃ寒いだろ」
いくらゾルタンとはいえ、雪の降る日に上着も着ないでワンピースは寒いに決まってる。
「えへへ」
くしゃみをしたルーティは、だが嬉しそうだ。
「寒さを感じたのなんて久しぶりだから嬉しくて」
「風邪引くぞ」
「私、風邪引いたことない。初めての風邪、楽しみ」
俺は急いで部屋に戻り、俺が使っている外套を持ってきた。
「ほら、男物で悪いが」
「……あったかい」
ルーティは、普通の少女のようにそう呟いて、ニコリと笑顔を浮かべた。
ルーティから勇者の加護が失われたわけではない。勇者の加護は今でもルーティの中にある。
だが、ルーティに新しく生まれた無名の加護は、『シン』という名前に変わっていた。ルーティによると、正確には加護ではないらしい。
加護に接触したときに感じるデミス神の存在を、『シン』に触れるときには感じないそうだ。
つまりは神から与えられた“加護”ではないということ。聖方教会に知られたら大変なことになるだろう。
『シン』には衝動も存在しない。ということは、『シン』には役割がないようだ。
それ以外の点では、基本的に『シン』は加護と同じだ。レベルがありスキルがある。成長させるためには、加護を持っている相手を倒せばいい。
『シン』のスキルは、特殊でレベルさえ上がれば自由に選べるというわけではなく、条件を満たさないと取れるようにならないらしい。
ルーティが取ったスキルは“支配者”。触れた相手の加護のスキルを無効化したり強制的に発動させたりできるというとんでもないものだ。もはや伝説に謳われる最上級のデーモンロード達でさえ、ルーティには太刀打ちできないだろう。
だがルーティにとって何よりの福音だったのは、この能力が自分にも発動できるという点だろう。
今、ルーティは自分の『勇者』の加護を支配し、その完全耐性や衝動などをほとんど無効化していた。
「くしゅん」
「やっぱり寒いな、朝食作るから中で待っててくれ」
「うん、分かった」
俺達は家の中へと移動する。玄関をくぐる前に、ルーティとリットはもう一度後ろを振り返り、空を舞う白い雪を名残惜しそうに眺めていた。
☆☆
戦いが終わった後、テオドラ、アルベールとは翌日すぐ別れた。
2人は魔王軍の前線での戦いに加わるつもりだそうだ。
「お別れだな」
テオドラはそう一言だけ別れの言葉を伝えると、二度と振り返らなかった。
ルーティは旅で得た装備などを渡そうとしたようだが、「いつかあなたが望む戦いのために必要になるかもしれない」と受け取らなかった。
テオドラがゾルタンにくることはもう無いだろう。
ダナンはゾルタンの療養所で半年は治療に専念することになっている。随分無理をしたようで、さすがのダナンもしばらくは大人しくしなければならないだろう。
ゴドウィンは自由にした。ルーティにはもう悪魔の加護は必要ない。それに今回の戦いでは、ゴドウィンの活躍は勝利に不可欠だった。その活躍に報いたいとルーティはゴドウィンの罪に目をつぶることにした。
勇者であった頃のルーティにはできない選択だっただろう。
十分な路銀を受け取ったゴドウィンは、聖方教会の影響が薄い、南の群島諸王国を目指すらしい。
「群島諸王国でなら、悪魔の加護の件で教会を敵に回している俺でも暮らしていけるだろう。そうだな、そこで薬屋でもやろうか」
俺を見て、ゴドウィンはそう言って笑った。
☆☆
「今日の朝は、ベーコンと白豆のトマトスープ煮込みと、余ったトマトを使ったピザ、それにオレンジを絞ったフレッシュジュース」
「「いただきます!」」
朝の食卓はいぜんよりも賑やかになった。
「お兄ちゃんのごはんいつも美味しい」
ルーティはニコニコと笑ってご飯を食べている。
これまで勇者の加護によって抑えられていた喜びが解放されたかのように、ルーティは毎日を楽しんでいた。
「今日もティセと?」
「うん」
ルーティとティセは、今、北区の農場を1つ買い取り、そこで薬草などを育てようとしている。
薬草は需要はあるが、要求される種類が豊富で面積当たりの収穫量も少ない。普通の農家は効率が悪いと手を出さないのだが、ルーティはあえて薬草を育ててみたいと挑戦している。
「もうちょっとしたら種をまくつもり。キノコを育てるための原木も用意してるわ。がんばる」
ルーティがこんな表情を見せてくれる日がくるとは思わなかった。
勇者としての人生を歩まされてきたルーティが、初めて自分のやってみたいことに挑戦している。
兄として、俺は今のルーティの変化を心から喜んでいた。