111話 アスペクトオブウルフ
リットの空を映したような青い瞳が地面を追う。
道行く人々によって踏み潰されたミストーム師の足跡を、リットは迷うこと無く追っていく。
精霊魔法のハンターインサイトとアスペクトオブウルフの魔法の助けもあり、俺にはまるで見えない痕跡も、リットにははっきり見えているようだ。
ハンターインサイト(狩人の洞察)は、集中力を高め微細なことにも気がつくよう、知覚能力を過敏にする魔法だ。
そして、“アスペクトオブウルフ”は、狼の様相を得て、狼が獲物を追跡し続けるのに使う、さまざまな知覚能力を得ることができる。
アスペクト(様相)の魔法は、変身系と呼ばれるカテゴリーの魔法に属する。対象の様相を身にまとい、その能力の一部を得るという魔法だ。変身系には、パワー、アスペクト、フォーム、シェイプの4種類の魔法がある。
パワーは、変身対象の身体能力の一部を得る魔法で、術者の姿は全く変わらない。筋力などが純粋に強化される魔法だ。“パワーオブウルフ”なら狼の筋力や瞬発力を自分の能力に上乗せする。
対して、アスペクト以上の魔法は自分の姿形を変身対象に変化させる。“フォームオブウルフ”なら、二足歩行できる狼といった人間と狼の中間のような姿に、“シェイプオブウルフ”なら完全に狼の姿に変わる。
では“アスペクトオブウルフ”はどうなるかというと……。
「こっちよ」
俺達の前を歩くリットのスカートから狼の尻尾がゆっくりと揺れている。頭からはぴょこんと飛び出した狼の耳がある。
アスペクトの魔法だとこんな感じに、変身する対象の一部が現れるのだ。
なんというか……可愛い。意味もなく頭をなでてたくなる。
「?」
俺の視線に気がついたのかリットが振り返った。さすがは狼の感覚だ。俺は何でも無いと手を振って、ちょっと恥ずかしくなってリットから視線を外す。
「リットすごい」
ルーティは感心しているようだった。そういえば変身系の魔法をアレスは嫌っていて全く使ってなかったな。ヤランドララは植物を操る方に使える魔法が偏っていて使えなかったし、法術魔法にはパワー以外の変身系魔法がないからテオドラも使えない。そして、ルーティは変身系魔法を使えない上に、変身系魔法に対する完全耐性があった。
『勇者』は人類最強の加護ではあるが、戦闘能力以外の点でも万能というわけでもない。それでも、どれも平均以上にはできるのだが、追跡にかけてはリットの方が上だろう。
今ミストーム師の足跡を追いかけているのはリット、俺、ルーティ、ティセの4人だ。ルーティ達も、一度ミストーム師達に話を聞いてみたいとのことで、急遽一緒に追いかけることになった。
ルーティ側の調査もすでに詰めに入っており、あとはアヴァロニアの教会に送った手紙の返事を待って、ヴェロニア側から直接聞くという段階らしい。
なので、ルーティ達も一緒にミストーム師達のところへ行くことにしたのだ。
あの晩、ミストーム師は冒険者ギルドに行った後、その夜のうちにガラディンの家へ移動していた。
翌朝早朝、シエン司教のいる教会へ移動し、数時間後に馬に乗って町の外へ。
「その日って、ヴェロニアの軍船が来た日ですよね」
ティセが言った。
その通りだ。あの船がやってきた時にミストーム師達は、一度ゾルタンの外に脱出していた。
「彼らはみな、ゾルタンの中枢とも言える人たちですよ。それが揃ってゾルタンを離れてたなんて」
「ガラディンにしろモーエンにしろシエン司教にしろ、責任感が無いわけじゃない。故国であるゾルタンに対する愛情もある」
「にしては行動が無責任のような」
「つまり、ヴェロニアがゾルタンに危害を加えに来たわけじゃないと、確信していたんだよ」
そうすれば彼らの行動の理由が分かる。悪魔の加護事件で見せた、モーエンの家族に対する愛情、ガラディンのゾルタンを荒らしたアルベール達への怒り、あれらが軽いものとは思えない。
「自分たちがゾルタンを離れていても問題が無いことを知っていたのね」
リットは彼らの行動に納得がいったようで頷いた。
ゾルタンの町を離れ、草原の街道から森へと足跡は続く。踏み固められた道が一応はあるが、ぬかるみもあり靴が泥で汚れるあまり良くない道だ。
荷車で通るにはしんどい道だろう。
「それだけに足跡ははっきり残るな」
ここのは俺にも分かる。
ぬかるんだ道には最近何往復も馬が通った形跡が残っていた。
「にしても森か、ここは来たこと無いな」
ゾルタンから北西に歩いて2時間くらい。
湿地帯の土地では十分な栄養が無いのか、木々は痩せ、曲がりくねっている。それが、なんだか不気味な様子で、ゾルタン人達はこの森にハグという人食いのモンスターが潜んでいると噂している。
「もっとも、ハグを実際に見たって人はいない。子供を叱りつける時の常套句みたいなものだな。良い子にしてないと森のハグがやってきて連れて行ってしまうぞって」
「ロガーヴィアにもあったなぁ。私は聞いたこと無いけど、惑わしの森のウッドエルフの亡霊達が暗くて寒い穴の中に連れて行くって」
「俺の村にも、山からオーガが降りてきて子供をさらってバリバリと食べてしまうって言ってたな」
「へぇ、どこにでもあるのね」
リットの頭上に生えた狼の耳がピクリと動く。
「物音がした」
「うん、私も聞こえた」
ルーティも剣を抜いた。ティセはスローイングナイフに手を添え、俺は剣の柄に手をかける。
急に霧が立ち込め始めた。白い霧の向こうから人影が歩いていくる。
そこにいたのは、ローブをまとい俯く……賢者アレスの姿だった。
アレスは俺を恨めしそうな目で睨み、両腕を俺に向ける。アレスの両手がぼろりと落ち、そこから血が溢れ出す。
俺は迷わず剣を抜き、目の前を一閃した。
ピチャリと緑色の粘液が剣に付着する。アレスの姿はデッサンが狂ったように歪むと、立ち込めていた霧が慌てて逃げていった。
「ホラーフォッグだ」
リットは少し驚いていたようだ。今のモンスターはガス状の身体をしたモンスターで、相手の恐怖心を煽る幻影を出し、精神力や魔力を食べるという生き物だ。
幻影自体はシチュエーションに合わせたものではないため、落ち着けばそう怖いものじゃない。物理的な攻撃手段を持たず、相手を殺すのにも時間がかかるため危険度は低い方だ。ただ、ガス状の身体は対処が難しい。簡単なのは火などを浴びせる方法だろう。
まぁここに居る4人ならば、“霧を構成する粒を剣で斬る”くらいなら当然できるので何も問題ない。
「今のは誰かのペットだったみたいですけど」
ティセとルーティがすぐに反撃しなかったのは、ホラーフォッグに番犬のような雰囲気を感じ取ったためだろう。リットはホラーフォッグというモンスターの存在を知らなかったようだから、気が付かないのも無理はない。
「多分、ミストーム師かミストーム師と一緒にいる人が飼い主だと思う。ミストーム師の匂いがした」
だが、ホラーフォッグというモンスターのことは知らなくても、狼の様相を得たリットの嗅覚は、生ける霧に残る僅かな匂いを察知したようだ。ミストーム師はこの森にいる。
となれば、
「思いっきり手加減してある。命に別状はないはずだ。あれを追っていけばやっとミストーム師に会えるな」
森には緑色の粘液がポツポツと続いている。ホラーフォッグの傷から出た血だ。
「これならもう魔法はいいかな」
リットは魔法を解除しようと、精神を集中させた。
「あ、待った」
「ん?」
我慢は良くないよな。うん。
俺は平静を装いつつリットに歩み寄る。
「どうしたの?」
「あー、ここまでリットのおかげで追いかけられたよ。ありがと」
という建前で、俺はリットの頭にある狼の耳の後ろのあたりを、リットの髪が乱れないよう注意しつつ、そっと撫でた。やはりフワフワしてた。気持ちいい。
リットは一瞬、驚いて目を丸くしたがすぐに受け入れ、顔を赤くして俯いている。尻尾が激しく揺れているところを見る限り嫌ではないようだ。
良かった。でも、スカートの中が見えちゃうから人がいるところではやらないようにしようと心に決めた。
結局、リットは魔法を解除することなく進むことにしたようだ。
俺の隣を歩くリットの尻尾は、嬉しそうに揺れていた。