空気のような令嬢
「——あなたは、私たちの家族ではありませんから」
その言葉は静かで、ナイフのように冷たかった。
私の名は、男爵令嬢ヘーゼル・ロンド。
両親を早くに亡くし、遠縁の男爵家に引き取られた。
けれど——そこに、居場所はなかった。
「それくらい、自分でできるでしょう?」
「本当に、気が利かない子ね」
養母ロザンナは、私を娘として扱わない。
隣で笑う娘マリーも、同じだった。
最初は戸惑った。
どうしてこんな扱いを受けるのか、わからなかった。
「お父さん、お母さん、どうして私を一人にしたの……」
何度も、夜に泣いた。
——あの日までは。
冬の朝。
幼い私は、井戸から引いた水桶を運ぶ手を滑らせた。
冷たい水が、庭に広がる。
運悪く、そこにはマリーがいた。
「ちょっと!私のドレスが濡れたらどうするのよ!」
鋭い声とともに、頬を叩かれる。
「ほんと役立たず!私の前から消えて!」
突き飛ばされ、花壇に頭を打ちつけた。
視界が揺れ、温かい血が流れる。
——その瞬間。頭の奥で、何かが弾けた。
泣き声。怒号。
誰かが必死に訴えている。
『……先生、話を聞いてください……っ』
知らないはずの光景が、はっきりと浮かぶ。
整った校舎。制服を着た子どもたち。
そして——受付カウンター。
(……あれは、何?)
次の瞬間、理解した。
——記憶だ。
日本という国で、私は学校の受付として働いていた。
泣いている子ども。見て見ぬふりをする教師。
保護者からの理不尽なクレーム。
弱い立場の子どもが、追いやられる世界。
——そのすべてを、私は知っている。
(……ああ)
不思議と、呼吸が落ち着いた。
どうすれば、この環境で生きていけるのか。
答えは単純だった。
誰にも期待しない。空気のように生きる。
そして——いち早く、この家を出る。
十二歳。
私は貴族学校の入学試験に挑み、特待生として合格した。
カルディア王国には三つの学院がある。
王族と上位貴族のカルディア学院。
中位貴族のルミナリス学院。
そして男爵と平民のブロッサム学院。
本来なら、私の行き先はブロッサム。
けれど特待生として、ルミナリス学院への入学が決まった。
マリーはブロッサム。
結果に納得せず、何度も叩かれた。
そして——私は追い出された。
「高収入の職を見つけてきなさい」それだけを言い残して。
ルミナリス学院での寮生活がはじまった。
やっと解放されて、私は嬉しかった。
学院はとても建物も生徒も華やかだった。
けれど私は、関わらないと決めていた。
目立たず、近づかず、波風を立てない。
教室に男爵がいるだけで、嫌な顔をされるのだ。
だから面倒事を避けるためにも空気として過ごした。
ただ一つ——例外がある。
勉強だ。(どうせやるなら、無駄にはしたくない)
結果は単純だった。
主席。
「男爵のくせに?」
ざわめきは広がったが——すぐに消えた。
「どうせ意味はない」その一言で。
そして卒業。
他の令嬢たちは、結婚や王室勤め、王女付きの侍女に進む。
けれど私には、何もない。
後ろ盾も、人脈も。首席であることすら、意味を持たなかった。
「……もちろん働いてもらうわよ」
養母の声は、変わらず冷たい。
そのときだった。
「ひとつ、紹介できる仕事がある」
声をかけてくれたのは、学院の教師だった。
「カルディア学院の受付事務だ」
——受付。前世で、ずっと立っていた場所。
カルディア学院。
王族と侯爵家が通う、名門中の名門。
そして——最も闇が深い場所。
権力で揉み消される問題。切り捨てられる弱い立場の子ども。
(……世界が変わっても、人は変わらない)
私は静かに顔を上げた。
「……謹んでお受けします」
それが、私が受付になると決めた瞬間だった。
(本当に、質が悪い)
子どもたちが安心して過ごすべき場所で、
大人たちがその居場所を奪うなんて。
——だから。
「これまで空気として生きてきたけど」
小さく息を吐く。
「この世界でも、私の信念を貫いてやろうじゃない!」
これは——
問題だらけの学院で、お節介にも子どもたちの居場所を守るために動き出す物語。
やがて、ひとつの噂が広がる。
「受付に、とんでもない人間がいる」
——その名は、貴族学院中に知れ渡っていくのであった。




