絶対的な蹂躙と、使い捨ての命
「アタシのサイコロの肥やしになれェェェ!!」
春の西東京市、都立高校の屋上。
狂戦士・紅刃の両腕から放たれた【4】の権能『獣神の爆炎爪』が、業火の竜巻となって原初の闇神である黒須先輩を飲み込んだ。
ドガァァァァン!!
屋上のコンクリートが融解し、防護フェンスが飴細工のようにぐにゃりと曲がる。
俺は熱波から顔を庇いながら、思わず叫んだ。
「バカ、やめろ紅刃! そいつは次元が違う!」
俺の警告は遅かった。いや、仮に間に合っていたとしても、簒奪者としての闘争本能に火がついた彼女は止まらなかっただろう。
数千度に達するであろう炎の獣が、完全に黒須先輩の身体を噛み砕き、燃やし尽くした——かに見えた。
「……熱いし、うるさいな。最近の野良犬は躾がなってない」
炎の渦の中心。
そこには、制服に煤一つ、焦げ目一つ付けていない黒須先輩が立っていた。
彼が面倒くさそうにパチンと指を鳴らす。
ただそれだけで、屋上を舐め尽くしていた紅刃の爆炎が、まるでビデオを逆再生するようにシュルシュルと手のひらサイズの「黒い球体」へと圧縮され、消滅した。
概念そのものの書き換え。炎という現象の否定。
「な……アタシの全力の【4】が……?」
驚愕に目を見開く紅刃。彼女が次の行動を起こすよりも早く、黒須先輩はため息をつきながら彼女の目の前に「転移」していた。
「遅いし、脆いし、つまらない。君じゃ、サイコロを振る価値もない」
黒須先輩が、軽く紅刃の腹部に触れる。
ドゴォォォォン!!
「ガ、ハッ……!?」
まるでダンプカーに撥ねられたような衝撃音が響き、紅刃の身体が「く」の字に折れ曲がって宙を舞った。
屋上の給水塔に激突し、分厚い鉄板をへこませて地面に叩きつけられる。
「あ……がっ、あ……」
口から大量の血を吐き、紅刃の瞳から獣の光が消え失せる。【4】の権能が強制解除され、両腕の炎爪がボロボロの生身の腕へと戻っていた。
骨が何本も折れているのは、素人目にも明らかだった。ピクピクと痙攣し、立ち上がることすらできない。
「ほら、御堂統くんがせっかく僕を楽しませてくれたのに、君みたいな三流が割り込むから空気が冷めたじゃないか」
黒須先輩は倒れ伏す紅刃を一瞥すらせず、俺の方を向いてひらひらと手を振った。
「じゃあね。君のペット、ちゃんと鎖に繋いでおきなよ。次に僕の昼寝を邪魔したら、その時は君の日常ごと『闇』に沈めてあげるから」
黒須先輩が一歩を踏み出すと、彼の足元から広がった影が彼自身を飲み込み、そのまま音もなく西東京市の景色の中へ溶けて消えた。
圧倒的な暴力の嵐が去り、後には春の生ぬるい風だけが残された。
「おい……紅刃! しっかりしろ!」
俺は慌てて駆け寄り、血まみれの紅刃の肩を抱き起こそうとした。
「触るな……ッ! ハズレ枠に、同情される、謂れは……」
彼女は激痛に顔を歪めながらも、俺の手を弱々しく振り払った。そして、震える指先で耳元の小型通信機のスイッチを入れる。
「……ボス。ターゲットは、バケモノです。アタシの【4】じゃ、傷一つ、つけられな……至急、撤退の許可と、医療班を……」
過激派組織『オウル』。孤児だった彼女を拾い、力を与え、居場所を作ってくれた「家族」のようなものだと、彼女は以前豪語していた。
だが、通信機から漏れ聞こえてきた男の声は、底冷えするほど無機質で、残酷だった。
『撤退? 何を寝ぼけている、紅刃。お前は原初神を見つけたのだぞ。我が組織が世界の覇権を握るための、千載一遇のチャンスだ』
「ボス……でも、アタシの体はもう……肋骨が肺に刺さって……」
『それがどうした?』
ボスの冷酷な声が、屋上に響く。
『動けないなら、命を燃やせ。神の核を暴走させて自爆し、原初神の防壁の底を引き出せ。お前の死のデータさえあれば、我々は次の一手を打てる』
紅刃の瞳孔が、絶望に大きく見開かれた。
『いいか、逃げるなよ。お前の使い捨ての命は、組織のために散ることで初めて価値を持つのだ。……プツン』と無機質な電子音が鳴り響く。
それが、彼女が信じていた「家族」からの最後の言葉だった。
紅刃の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちた。
痛みのせいではない。自分がただの「観測用の肉塊」としてしか見られていなかったことへの、どうしようもない絶望と悲哀。
「……あはは。なんだよ、それ。アタシの命、サイコロの目より安いじゃないか……」
彼女は壊れた人形のように笑うと、血まみれの手でフェンスを掴み、無理やり立ち上がった。
折れた足が嫌な音を立てるが、彼女は構わず、黒須先輩が消えた街の方向へと足を引きずり始める。
「おい、どこ行くんだよ! 動いたら死ぬぞ!」
俺が叫ぶと、紅刃は振り返らずに呟いた。
「行くんだよ。……命令、だからさ。アタシには、ここしか居場所がないんだ」
「ふざけんな! 使い捨てにされて、なんでそんな奴らのために!」
「うるさいッ!!」
紅刃が血を吐きながら叫び返した。その横顔は、死を受け入れた者の空虚さに満ちていた。
「オマエみたいに……平穏な日常を持ってる奴に、アタシの何が分かる! アタシは、組織の犬なんだよ……!」
彼女の背中が、重い屋上の鉄扉の向こうへと消えていく。
俺は、その場から動けなかった。
イヴの忠告が脳裏をよぎる。『原初神には関わるな』と。俺の【6】の権能を使ったところで、右腕が吹き飛ぶ重い代償を払って、あのバケモノに勝てる保証はどこにもない。
見捨てればいい。昨日まで俺を殺そうとしていた敵だ。俺の愛する「日常」には関係のない女だ。
——だが。
右腕に刻まれた黄金の刻印(王の証)が、俺の臆病な心臓を激しく打ち据えるように、熱く、熱く脈打っていた




