白銀の憂鬱と、奪われる前の夜
「……なるほどな。世界のバケモノどもの顔ぶれと、1000年の仮説は分かった」
俺は立ち上がり、首をポキポキと鳴らした。
「だが、俺は自分から他人の領土を荒らしに行く気はねえ。向こうがちょっかいを出してこない限り、俺は西東京市から一歩も動かないつもりだぜ」
「それで構いません。……さあ、講義は終わりです。シャオ、彼に『死なない程度の痛み』を教えてあげなさい」
「はい、女帝様」
「シッ!」
「痛ぇッ! お前、顔面は狙うなっつってんだろ!」
直弟子のシャオが、音もなく俺の目の前に踏み込み、鋭い正拳突きを放ってきた。
俺は【1の目】で質量を操作しながら、ギリギリでその拳を躱すが、シャオの動きは俺の素人くさい回避を完全に先読みしていた。
鳩尾に軽く拳が沈み、俺は床に転がりながら荒い息を吐いた。
「……動きが単調です、義弟様。権能のブラフを本物に見せるためには、最低限の体術の型が必要です。さあ、もう一本」
翠蓮が厳しく指導する中、俺はボロボロになりながらも、決してこの特訓から逃げようとはしなかった。
神話のバケモノから、このちぐはぐな日常のテーブルを守り抜くためだ。やれることは全部やって、手札の精度を上げておく必要がある。
その日の夜。
特訓で全身筋肉痛になった俺が、御堂家のリビングの食卓につくと、珍しい光景が広がっていた。
ガシャンッ!
「あ……っ、申し訳ありません、統! お皿を……!」
キッチンで、エプロン姿のセリアが、手を滑らせて皿を割ってしまっていたのだ。
「珍しいですね、セリアさんがそんなミスをするなんて」
雅が割れた皿を片付けながら首を傾げる。
「おいエリート騎士、テメェ顔色悪いぞ。シャオのヤツにボコられた統より酷い顔してんじゃねえか」
紅刃が口に唐揚げを放り込みながら指摘した。
「い、いえ! 私は騎士として常に完璧な体調管理を……っ」
セリアは慌てて否定したが、その翡翠の瞳には、かつてないほどの『深い疲労と焦燥』が色濃く浮かんでいた。
「……セリア。何か隠し事してないか?」
俺が真っ直ぐに見つめて尋ねると、セリアの肩がビクッと跳ねた。
「な、何もありません! 統の第一騎士として、私の心は常に晴れやかです! さあ、冷めないうちに夕飯を……!」
セリアは無理やり笑顔を作り、キッチンへと逃げるように戻っていった。
(……おかしいな)
俺は、イカサマ師としての『直感』が微かに警鐘を鳴らすのを感じていた。
深夜。
俺たちが寝静まった頃、セリアは自室の暗闇の中で、一枚の『羊皮紙』を握りしめ、ボロボロと涙を流していた。
羊皮紙には、彼女の古巣である欧州の修道会からの、血印が押された「絶対命令」が記されていた。
『——我ら修道会は、東欧より侵攻してきた第七位の王【鋼王・カルマ】の武力に屈し、その傘下に下った。
あらゆる金属と武器を支配する鋼王は、極東にいる我が修道会の最高傑作、「白銀の雷光を操る騎士」を自らのコレクションとして所望されている。
セリア・アークライト。ただちに極東の王の元を離れ、帰還せよ。さもなくば、鋼王の刃が西東京市を火の海にするであろう』
セリアは、羊皮紙を胸に抱きしめ、声を殺して泣き続けた。
第七位とはいえ、相手は不老不死の理に至った真正の『王』。
もし自分がこの命令に逆らえば、間違いなくカルマの軍勢がこの町に攻め込んでくる。
統は、自分の日常を守るために、連日の死闘と特訓ですでに満身創痍だ。これ以上、彼に他の王を敵に回させるわけにはいかない。
(……統。紅刃。雅さん。……お母様)
セリアは、御堂家で過ごした騒がしくも温かい日々を思い返し、胸が張り裂けそうな痛みに耐えながら、そっと白銀の刀を手にした。
(私に、あの温かい食卓の居場所をくれて……本当に、ありがとうございました)
彼女は、誰にも見つからないよう、制服と武器だけを持って、自室の窓枠に足をかけた。
愛する王の『日常』を守るために、自らを犠牲にして鋼王の元へ投降する。それが、彼女が出した最初で最後の「第一騎士としての決断」だった。
「……さようなら、私の愛した王様」
セリアが闇夜に向かって飛び出そうとした、まさにその瞬間だった。
「——水臭えことしてんじゃねえよ、ポンコツ騎士」
「……え?」
暗闇の部屋のドアの前に。
ジャージ姿の統が、ポケットに両手を突っ込んだまま、静かに立っていた。




