深淵の戯れと、反逆の爪痕(スクラッチ)
春の西東京市から隔絶された、上下左右の感覚すらない絶対的な暗黒空間。
『原初の闇神』こと黒須先輩は、ベンチに座って文庫本を開いたまま、ひどく退屈そうに息を吐いた。
「怯えなくていいよ。君を殺す気はないからさ。せっかく生まれた珍しい【六王】のおもちゃを、初日で壊す趣味はない」
エレボスは文庫本のページをめくりながら、人差し指を軽く振った。
ドゴォォォォン!!
見えない巨大な鉄槌で殴られたような衝撃が、俺の全身を襲った。
「ガハッ……!?」
肺の空気が強制的に吐き出され、俺は暗黒の床に叩きつけられる。
骨が軋む。アレスのような「重い一撃」ではない。空間そのものが俺という異物を排除しようと、四方八方から圧殺しにきているのだ。
「ちょっとしたストレス発散だよ。ほら、君の手札(【6】の権能)で防いでみなよ」
嘲笑うエレボス。
だが、俺は右腕の黄金の刻印を起動させなかった。
ここで【6】を使えば、監視しているであろう『オウル』に手札を晒すことになる。それに、アレスの『不落の大盾』はあくまで物理・魔術攻撃を防ぐものだ。空間や概念そのものを歪めるこの原初の闇に、どこまで通用するか分からない。
——なら、意地でも【1】のハズレ能力で凌ぐしかない!
「……痛ぇな、先輩。後輩への可愛がりにしては、ちょっと過激すぎませんかね」
「おや、まだ喋れるんだ。頑丈だね」
エレボスが再び指を鳴らそうとした瞬間。
俺は制服の胸ポケットに入っていた「ボールペン」を握りしめ、自分自身の肉体とボールペンに【1】の権能を全開で発動させた。
体重がゼロになる。
エレボスが放った全方位からの「空間の圧」を逆利用し、俺は押しつぶされるのではなく、その圧力の波に乗って(サーフィンするように)暗黒の空間を猛スピードで滑空した。
「へぇ、器用だね。でも」
エレボスはベンチから一歩も動かない。彼が視線を向けただけで、俺の目の前に「絶対に通れない闇の壁」が出現した。
「届かないよ」
「俺は届かなくていいんだよ!」
俺はゼロ距離で闇の壁に激突する直前、握りしめていたボールペンを、エレボスの顔面めがけて全力で投擲した。
同時に、権能を【解除】し、限界を超えて【1】の「逆位置」——無理やり対象を「重く」する禁じ手を、ボールペンのみに行使する。
「物理法則の時間だ、神様」
超加速からの、質量の急激な復活。
だが、相手は原初の神だ。ただの重いボールペンなど、彼の周囲を覆う概念障壁に触れた瞬間に粉のようになって消滅した。
——しかし、俺の狙いは「ペンそのもの」ではない。
「……っ?」
砕け散ったペンの破片。その中の、ほんの数ミリの極小のプラスチック片が、防ぐ価値もない「ただのゴミ」として神の障壁をすり抜け、エレボスの頬を鋭く掠めた。
ツゥ……と。
人間に擬態した黒須先輩の頬から、一筋の赤い血が流れた。
静寂。
絶対的な暗黒空間の中で、エレボスは自分の頬を指でなぞり、そこに付着した赤い血をじっと見つめた。
「……あはは」
最初は小さな笑い声だった。それが徐々に大きくなり、やがて腹を抱えるような狂笑へと変わる。
「アハハハハッ!! 傑作だ! ただの物理法則の応用と、最底辺のゴミみたいな権能で、原初である僕の概念障壁の隙間を縫ったのか!」
エレボスは心底嬉しそうに、目をキラキラと輝かせて俺を見た。
「君は面白いね、御堂統! 最高の暇つぶしだ! 今回は僕の負けにしておくよ。もっと足掻いて、強くなって……いつか、僕を本気にさせる『宿敵』になってくれ!」
パチン、と彼が指を鳴らす。
途端に、圧倒的な闇が嘘のように晴れ渡った。
春の陽光。見慣れた屋上のフェンス。遠くから聞こえる吹奏楽部の練習の音。
俺は全身の脂汗を拭いながら、屋上のコンクリートにへたり込んだ。たった数分の出来事だが、寿命が十年は縮んだ気分だ。
「……じゃあね。また遊ぼう、新米の王様」
エレボスが機嫌よく手をひらひらと振り、屋上の鉄扉の方へと歩き出した、その時だった。
ドガァァァァン!!
屋上の鉄扉が、凄まじい爆炎と共に吹き飛ばされた。
ひしゃげた鉄の向こう側から、燃え盛る炎を纏った女が姿を現す。
「見ぃつけたよ……『原初』の神核!」
両腕をマグマのような獣の爪に変貌させた狂戦士、紅刃だった。
彼女は、屋上の影から先ほどの暗黒空間でのやり取りを全て目撃していたのだ。そして彼女の耳元のインカムからは、過激派組織『オウル』のボスからの非情な命令が漏れ聞こえていた。
『ターゲットを変更する。未知の手札を持つ【6】のガキは後回しだ。その学園にいる原初神を狩れ。アレの力を奪えば、我々が世界の覇権を握れる』
「おい、紅刃! やめろ! そいつは格が違う!」
俺の制止も聞かず、紅刃は獣のような咆哮を上げて、帰ろうとしていたエレボスの背中へと真っ直ぐに跳躍した。
「アタシのサイコロの肥やしになれェェェ!!」
【4】の権能、最大出力。空間を焼き尽くすほどの爆炎の爪が、無防備な黒須先輩の首筋へと迫る。
だが、振り向いたエレボスの瞳には、俺に向けたような「楽しげな光」は一切なかった。ただただ、路傍の石ころを見るような、絶対零度の冷酷さだけがそこにあった。
「……うるさいな。君じゃ、サイコロを振る価値もない」
最弱の俺が生き延びた直後。
強者であるはずの紅刃の、絶望的な特攻(自殺行為)の幕が切って落とされた。




