絶望の秒針と、命を懸けた共犯者たち
日本沈没のタイムリミットまで、残りわずか。
西東京市があった広大なすり鉢状のクレーターの上空で、原初の海を統べる幼き女神・ミリアは、分厚い雨雲の中でふあぁと小さな欠伸をした。
「……遅いな。逃げたか、あるいは恐怖で心が折れたか」
眼下では、八咫烏の魔術師たちが血反吐を吐きながら日本沿岸の防衛結界を維持しているが、それも時間の問題だ。すでに太平洋側の海面は数十メートル上昇し、黒く濁った『原初の海水』が、静かに、しかし確実にこの島国を飲み込み始めている。
「エレボスの戯言に乗って地上まで来てみたが、無駄足であったな。これ以上、弱い者いじめをしても退屈なだけだ。……さっさとこの島を沈めて、深海へ帰ろう」
ミリアが、指揮棒を振るように小さな指先を下に向けた。
彼女の周囲には、目には見えないが、向かってくる一切の物理的質量と魔力を海に沈めて圧壊させる『原初の絶対防壁』が、何重にも張り巡らされている。
まさに、難攻不落の空飛ぶ要塞。神話の理そのものだ。
だが、その絶対の死地に、泥にまみれた最弱のイカサマ師と三人の少女たちが、静かに、そして確実に牙を剥こうとしていた。
瓦礫の陰。暴風雨が叩きつける中、俺は完治したばかりの体を低く屈め、上空のミリアを見据えていた。
「いいか、もう一度確認するぞ」
俺の声は、雨音にかき消されないよう低く、しかし絶対に揺るがない熱を帯びていた。
「俺が質量を【ゼロ】にした瞬間。雅が視界を奪い、セリアと紅刃が全力で俺の背中を撃ち抜く。……コンマ一秒でもズレれば失敗だ。俺は蒸発するか、潰されて死ぬ」
「……ッ」
俺のすぐ後ろで、紅刃がギリッと奥歯を噛み締める音がした。
彼女の両手には、すでに最大出力まで高められた『獣神の爆炎』が渦巻いているが、その手は小刻みに震えていた。
「……なぁ、ハズレ枠。やっぱり、アタシには……」
紅刃が、血を吐くような声で絞り出す。
「アタシの炎は、全部を灰にするための力だ。……こんな最大火力を、無防備なテメェの背中にゼロ距離でぶっ放すなんて。もし、テメェの再生が追いつかなくて、アタシの炎でテメェを殺しちまったら……!」
狂戦士として恐れられた彼女が、初めて見せた『力を振るうことへの恐怖』だった。
隣に立つセリアもまた、白銀の刀に『北欧の迅雷』を極限まで圧縮させていたが、その翡翠の瞳は痛ましいほどに揺れていた。
愛する王の背中を、自らの全力で撃ち抜かなければならない。その絶望的な矛盾が、騎士としての彼女の心を激しく軋ませていたのだ。
「紅刃。セリア」
俺は振り返り、震える二人の少女の頭に、左右の手をポンと置いた。
「勘違いすんな。お前らの攻撃は、俺を殺すためのもんじゃない。……俺を、あのクソ偉そうな神様の懐まで運んでくれる『最強のエンジン』だ」
俺は、雨に濡れた顔でニヤリと笑った。
「俺はイカサマ師だぞ。自分の命を賭けるテーブルで、信じられない身内なんか使わねえよ。……お前らの全力なら、俺は絶対に死なない。俺がそう張ったんだ。自信を持て」
その言葉に、紅刃の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……バカ野郎。テメェが死んだら、絶対に許さねえからな……ッ!」
紅刃は涙を拭い、炎を纏う両手を俺の背中へと真っ直ぐに向けた。セリアもまた、深く息を吸い込み、刀の切先を俺の背へとピタリと合わせる。
「……我が王の命、しかとお預かりいたしました」
迷いは、消えた。
あとは、神の目を欺く『たった一瞬の暗闇』を作るだけだ。
「雅。……お前のタイミングが、このイカサマのすべての起点になる」
俺が声をかけると、瓦礫の最前線に立つ雅が、漆黒の妖刀『黒曜』を鞘からゆっくりと引き抜いた。
「はい。……私のすべてを懸けて、必ず」
雅の漆黒の瞳が、上空のミリアを真っ直ぐに射抜く。
結社の操り人形だった彼女が、初めて自分の意志で、愛する者のために命を燃やす瞬間。
妖刀が彼女の魔力と生命力を異常な速度で吸い上げ、刀身から禍々しくも美しい『黒い桜の花びら』が舞い散り始める。
「——行くぞッ!!」
俺の号令。
「妖刀・黒曜——『桜花暗転』……ッ!!」
雅が、寿命すら削る気迫で妖刀を天に向かって振り抜いた。
その瞬間。
西東京市の暴風雨の轟音が完全に消滅し、ミリアの周囲の空間が、光も、音も、魔力感知すらも届かない『絶対の漆黒の桜吹雪』に覆い尽くされた。
「……ほう? 視界を奪う程度の小手先で、我の気を引こうというのか?」
暗闇に包まれたミリアは、余裕の笑みを崩さなかった。見えなかろうが、彼女の絶対防壁は自動で敵を圧壊させる。何の脅威にもならないと高を括っていた。
だが、この暗闇は攻撃ではない。ミリアの知覚を、たったコンマ一秒だけ遅らせるための『目隠し』。
そして、そのコンマ一秒の間に。
「——神判行使。【1の目】……俺の質量、ゼロ」
俺が自身の肉体の質量を完全に世界から消し去った、その直後。
「行けェェェェェッ、統ゥゥゥゥッ!!!」
「我らの祈り、神に届けェェェッ!!」
セリアの『北欧の迅雷』と、紅刃の『獣神の爆炎』。
二人の少女の、文字通り神を殺すための最大火力が、寸分の狂いもなく同時に、質量を失った俺の背中へと直撃した。
ズガァァァァァァァァァァァンッ!!!!!
質量ゼロの物体が、背後から極大のエネルギー(推進力)を受けた結果。
俺の肉体は、理論上、この世界の物理法則の限界速度である『光速』へと到達した。
「ガ、ァァァァァァァァッ!!?」
加速の瞬間、俺の全身の皮膚が弾け飛び、筋肉が断裂し、眼球が破裂した。光速移動という世界からの強烈な拒絶反応により、俺の肉体が原子レベルで分解されようとする。
だが、その崩壊速度に追いつくように、右腕に宿るウロボロスの【6の目】が、超絶的な速度で肉体を再生し、強引に形を繋ぎ止める。
崩壊と再生の無限ループ。想像を絶する激痛。
俺という『質量を持たない光の弾丸』は、雅の作った暗闇を切り裂き、神の知覚すら置き去りにして、上空の原初神ミリアの懐へと一直線に射出された。
神殺しのイカサマは、今、物理法則の壁を越えた。




