敗北の泥濘と、繋ぎ止める涙
消毒液の匂いと、無機質な電子音。
俺の意識は、深く暗い海の底から引きずり上げられるようにして、ゆっくりと浮上した。
「……っ、あ……」
目を開けようとした瞬間、全身の神経が焼き切れるような激痛に襲われ、声にならない呻きが漏れた。
右腕だけではない。肋骨、大腿骨、内臓の隅々に至るまで、プレス機で潰されたような惨状だ。ウロボロスの超再生がフル稼働しているにも関わらず、原初神ミリアの『海に沈める概念』の残滓が傷口にへばりつき、治癒を極端に遅らせていた。
「統……! 統ッ!!」
「すばる君……! よかった、目が覚めて……ッ!」
ぼやける視界に飛び込んできたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたセリアと雅、そして唇を強く噛み締めている紅刃の姿だった。
ここは西東京市の地下深くに作られていた、八咫烏の緊急避難用シェルターの医療室。
「お前ら……無事、だったか……」
掠れた声で尋ねると、三人はボロボロの服のまま、何度も何度も頷いた。彼女たちもまた、俺を連れて逃げるために無茶をして、全身傷だらけだった。
「俺の、母さんは……」
「お母様は、結社の術者が安全なシェルターへ避難させています。かすり傷一つありませんわ」
雅の言葉に、俺はホッと息を吐き出した。だが、安堵はそこまでだった。
『——お目覚めですね、すばるくん。ですが、休んでいる暇はありません』
医療室のモニターが点灯し、AIのイヴが血の気のない顔で現れた。
「イヴ……。上はどうなってる。あのロリ神は」
俺が身を起こそうとすると、イヴはモニターに『日本列島の衛星映像』を映し出した。
『現在、日本列島の周囲の海面が「異常な速度」で上昇しています。同時に、観測史上最大規模の台風と津波が、四方八方からこの島国を取り囲むように発生中。……ミリアの放った原初の神威が、日本の海域全体を飲み込もうとしています』
「なんだと……?」
『彼女は、この日本という国を丸ごと「海底に沈める」気です。八咫烏が結界で必死に抵抗していますが、もって明日の夜明けまで。……あと12時間で、極東の島国は完全に地図から消滅します』
イヴの無機質な宣告が、冷たい刃となって俺の心臓を貫いた。
ただの気まぐれ。ただの退屈しのぎ。
それだけの理由で、俺が血反吐を吐いて死守してきたちぐはぐな日常も、母さんのいる町も、一億人の命も、すべてが海の底のゴミ屑にされようとしている。
「……ふざ、けんな……」
ブチッ、と。
俺の中で、今までどんな劣勢の盤面でも手放さなかった『ギャンブラーとしての理性』が、音を立てて千切れた。
俺は、激痛に軋む体に鞭を打ち、点滴の針を乱暴に引き抜いて、医療ベッドから無理やり両足を下ろした。
ウロボロスが繋ぎ止めているだけの不完全な足から、ポタポタと血が滴り落ちる。
「統!? 何をしているのですか、まだ傷が……!」
「どけ。……あのクソガキ、今すぐ殺してくる。俺のテーブルをこれ以上、好き勝手に荒らされてたまるか……ッ!」
俺の目は、完全に血走っていた。
かつてないほどの『喪失の恐怖』と『激昂』が、俺の視界を真っ赤に染め上げている。頭の中にあるのは、原初神の喉笛を食いちぎるという、自暴自棄な殺意だけ。
「権能、解放……! 足の骨くらい、歩きながらウロボロスで繋げば……退けって言ってんだろッ!!」
俺が前にのめり込んだ、その時。
パンッ!!!
乾いた音が、医療室に響いた。
紅刃が、俺の頬を力いっぱいビンタで張り飛ばしたのだ。
「紅刃……テメェ……!」
俺が怒りで睨みつけると、紅刃は俺の胸ぐらを両手で力強く掴み、そのままベッドに力任せに押し倒した。彼女の瞳からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
「バカ野郎……ッ! テメェ、自分が今どんな目ぇしてっか分かってんのか!!」
紅刃が、血を吐くような悲痛な声で叫んだ。
「勝てもしねえ相手に、頭に血を上らせて突っ込んで……それじゃあ昔の、ただ死に場所を探して暴れてた『狂戦士』と同じじゃねえかよ!!」
彼女の震える両手が、俺の胸ぐらをきつく握りしめる。
「テメェがアタシをその地獄から引きずり出してくれたんだろうが! なのにテメェが勝手に死に急いでどうすんだよ! テメェが死んだら、誰がアタシたちの帰る場所になってくれんだよ!!」
「……ッ」
俺が言葉を詰まらせた瞬間、セリアがカチャリと音を立てて、自らの白銀の刀を床に放り投げた。
そして彼女は、武器を持たない無防備な両手を広げ、医療室の扉の前に立ち塞がった。
「紅刃の言う通りです! 統、あなたは私に、騎士としての誇りと『温かい食卓』をくれました。……だから、あなたが一人で勝手に命を捨てることなど、第一騎士である私が絶対に許しません」
セリアの翡翠の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。
「どうしても行くというのなら、無抵抗の私を、その特大質量で踏み潰してから行きなさい……! 私にとって、あなたのいない日常など、何の意味もないのですからッ!」
そして。
「すばる君……お願い、です……」
雅が床に膝をつき、血まみれの俺の右手を、自分の両手で大切に包み込んだ。
彼女の熱い涙が、俺の傷だらけの掌にポタポタと落ちていく。
「あなたは私に、誰かの操り人形ではなく、自分で生きる道を選ぶ自由をくれました。……だから、怒りや復讐という感情の『人形』にならないで」
雅は、俺の血で汚れるのも構わず、その右手を自分の頬にすり寄せた。
「……私たちを、置いていかないで。一緒に生きて、一緒にあの家に帰って……っ」
三人の少女たちの、命懸けの制止と、魂を削るような涙。
掌から伝わる雅の涙の温かさ。胸ぐらを掴む紅刃の震え。扉の前に立つセリアの決意。
(……俺は、何をしてるんだ)
俺は、自分を止めようとしてボロボロになっている三人の姿を見て、深く、長く息を吐き出した。
熱くなったら、負けだ。
持っている手札の重さを見失い、ただ怒りに任せて盤面に突っ込むだけの奴は、ギャンブラーじゃない。胴元の手のひらで踊らされる、ただの「カモ」だ。俺が今一番守らなきゃならない手札は、間違いなく目の前で泣いているこの三人じゃないか。
「……悪かった」
俺は、胸ぐらを掴んでいた紅刃の手の上に、そっと自分の左手を重ねた。
「頭、冷えたよ。……お前らの言う通りだ。ただの自爆特攻なんて、負け犬がやることだった」
俺がゆっくりと目を開けると、そこにはもう、怒りに任せた狂犬の姿はなかった。
あるのは、絶対に勝てない圧倒的な胴元を前にして、いかにして盤面をひっくり返し、相手を葬り去るかを企む、底冷えするほど冷静な『最強のイカサマ師』の目だ。
「……泣かせてごめんな、紅刃、セリア、雅」
俺が口元に不敵な笑みを浮かべると、三人は張り詰めていた糸が切れたように、安堵のあまりその場にへたり込んだ。
「よし、イヴ。泣き言は終わりだ」
俺は包帯だらけの体でベッドの上に胡座をかき、画面越しのAIを見据えた。
「ただの一撃じゃ生ぬるい。……あのバカでかい海ごと、ふざけた神様を『破産』させて殺すための、最狂の作戦会議を始めるぞ」
絶望の泥濘の中で、極東の最弱の王は、仲間たちの涙によって再びその牙を研ぎ澄ました。




