深海の囁きと、消滅する帰る場所
光の届かない、絶対的な静寂に包まれた深海の神域。
そこは、世界の概念そのものを司る『原初の海』を体現する幼き女神・ミリアの退屈な箱庭だった。
フリルのついたゴシックドレスを揺らし、珊瑚の玉座で欠伸をするミリアの前に、その「闇」は唐突に現れた。
『——ミリアよ。相変わらず、ひどく退屈そうにしているな』
深海の闇から滲み出るように姿を現したのは、原初の闇を司る神・エレボス。
だが、その姿を見たミリアは、赤い瞳を微かに見開いた。エレボスの『右腕』が、肩の付け根から無惨にも吹き飛ばされ、ぽっかりと欠損していたからだ。
「エレボス。貴様、その腕はどうしたのだ? 神話の時代より永遠を生きる我ら原初の肉体が、欠けることなどあり得ぬはずだが」
『ああ、これか』
エレボスは痛むはずの右肩をさすりながら、どこか愉快そうに嗤った。
『極東の島国に、ひどく面白い【六王】が誕生してな。小手先のイカサマと物理法則のバグで、私の腕を丸ごと「ゼロ」にして消し飛ばしおったのだ』
「……ほう?」
数千年の間、凪いでいたミリアの感情に、ほんの一滴の『興味』の波紋が広がった。
『御堂統という、ハズレ能力しか持たぬただの人間だ。……ミリアよ、永遠の暇を持て余しているなら、少し地上へ遊びに行ってみるか? だが、あの小僧は普段、その狂犬のような牙をひた隠しにしている』
エレボスは、ミリアの耳元で甘く、そして極めて残酷に囁いた。
『あの小僧の「本気」を見たいのなら……奴が何よりも執着している「ちぐはぐで下らない日常」を、一切の慈悲なく、理不尽に壊してやることだ。そうすれば、極東のイカサマ師は、必ずお前の喉笛に食らいついてくるだろう』
——その日、西東京市の夕暮れは、どこまでも穏やかな茜色に染まっていた。
「ただいまー。おい、言われた通り豚肉と玉ねぎ買ってきたぞ」
俺がスーパーのレジ袋をぶら下げて玄関の扉を開けると、家の中からは出汁と醤油の甘いいい匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい、すばる君! 今日は私が肉じゃがを作ったんです。味見、してくれますか?」
フリルのエプロンを着けた雅が、お玉を持ってパタパタと小走りで出迎えてくれる。
「抜け駆けは許しません! 統、私がお風呂を沸かしておきました! さあ、私と一緒に背中を……!」
「テメェが一番抜け駆けしてんじゃねえかエリート騎士! 統、アタシの焼きそばパンはあるんだろうな!?」
奥の脱衣所からバスタオル一枚で飛び出してくるセリアと、それにドロップキックをかます紅刃。
相変わらず、頭が痛くなるほど騒がしい俺の日常だ。
ヨーロッパの死地を潜り抜け、八咫烏という日本最大の裏社会を味方につけたことで、俺は「これでしばらくは、この静かで騒がしい日々が守られる」と、完全に油断しきっていた。
「はいはい、焼きそばパンは三つ買ってあるから。母さんは?」
「お母様なら、町内会の集まりで夜まで戻らないそうですわ」
雅が微笑みながらレジ袋を受け取ろうと手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
『——警告!!! すばるくん、上空に異常な神威質量ッ!! 空間が、水没しま……ッ!!!』
地下室にいるはずのイヴの、今まで聞いたこともないような『悲鳴』に近い声がインカムに響き、そして——ブツンッ、と完全に途切れた。
音が、消えた。
いや、違う。大気の圧力が一瞬にして異常な数値に跳ね上がり、俺たちの鼓膜が強制的に沈黙させられたのだ。
直後。
メシャァァァァァァァァッ!!!
爆発ではない。ただただ「上から押し潰される」ような、おぞましい圧壊音。
俺たちが見上げていた御堂家の天井が。二階部分が。そして、窓の外に見えていた西東京市の茜色の空が。
まるで、巨大な見えない『深海の底』に放り込まれたかのように、何万トンもの水圧によって一瞬にしてミキサーにかけられ、消滅した。
「なッ……!?」
「きゃあぁぁぁッ!?」
「統ッ!!」
八咫烏が家の周囲に張っていたはずの何重もの結界など、薄いガラスのように破け散っていた。
「——【1の目】・対象の質量、ゼロッ!!」
俺は咄嗟に三人をその場に押し倒し、上空から降り注ぐ巨大な瓦礫や鉄骨の質量を片っ端からゼロに書き換え、強引に三人を守り抜いた。
数秒後。
砂埃が晴れた先に広がっていたのは、見慣れたリビングでも、通い慣れた道でもなかった。
周囲数百メートルにわたって、住宅街がすべて『すり鉢状のクレーター』と化し、完全に更地になっていたのだ。
「……あ、あ……」
雅が、震える声で崩壊した町を見渡す。
俺の帰る場所。俺が今まで、血反吐を吐きながらも死守してきたテーブルが、何の予兆もなく、ただの『気まぐれ』によって粉々に叩き割られていた。
「……ハハッ。見事な反応だ。さすがは原初神の腕を吹き飛ばした男よな」
瓦礫の山の頂上。
西東京市を吹き飛ばした爆心地の空中に、フリルのドレスを着た銀髪の幼女が、ふわりと浮いていた。
「お前……」
俺の頭の中で、すべての線が繋がる。
イヴが警告していた、太平洋から姿を消した異常な神威。公園で見かけた、あの迷子。
「初めまして、人間のオスよ。我が名はミリア。原初の海を統べる者だ」
ミリアは、自分の足元で広がる凄惨な地獄を見下ろしながら、さも「面白いおもちゃを見つけた」とでも言うように、無邪気に笑った。
「お前の『本気』が見たくてな。邪魔な箱庭を、少しだけお掃除させてもらったぞ?」
ブチッ。
俺の脳内で、今までどんな強敵を前にしても保ってきた『ギャンブラーとしての絶対的な理性』が、音を立てて千切れた。
「統……! ダメです、逃げましょう! あの存在は、私たちが今まで戦ってきたモノとは次元が違いすぎます……ッ!」
セリアが白銀の刀を構えながら、絶望に声を震わせる。歴戦の騎士である彼女の本能が「あれは生き物ではない、ただの天災だ」と警鐘を鳴らしていた。
「セリア。紅刃、雅。……お前らは下がってろ」
俺は、ホコリまみれになったレジ袋の残骸から手を離し、完治した右腕をゆっくりと天に掲げた。
「俺の日常を、理不尽にぶっ壊しやがったこと。……そのふざけた胴元の顔面ごと、永遠に後悔させてやる」
激痛を伴う怒りが、俺の血液を沸騰させる。
俺の右腕から、ウロボロスの超再生と、アレスの闘争の神威が、かつてない出力




