増殖する食客と、消えた海の神
京都駅を出発した帰りの新幹線の指定席。
車窓から流れる夕暮れの景色を見つめながら、俺は深く、ひどく疲労の混じったため息を吐き出した。
「統! この『八ツ橋』という極東の伝統菓子、素晴らしいですね! ニッキの香りが私の故郷の……」
「お前一人で食ってんじゃねえよ! アタシにも寄越せ、このエリート騎士!」
通路を挟んだ隣の席で、セリアと紅刃が買ってきたばかりの土産物を巡って、いつものように小競り合いを繰り広げている。
そして、俺のすぐ隣の窓際席では。
「……すばる君。あの、私の分、半分食べますか?」
黒曜の妖刀が収められた白木の箱を膝に抱え、京極雅が、ほんのりと頬を染めながら八ツ橋を差し出してきた。
エージェントとしての計算された作り笑いではない。ただ一人の少女としての、少し不器用で本物の微笑み。
「いや、俺は甘いもんはいいよ。お前が食え。……どうだ、自分で選んで買ったお菓子の味は」
俺が座席のひじ掛けに腕を乗せて尋ねると、雅は八ツ橋を小さくかじり、漆黒の瞳をキラキラと輝かせた。
「はい……。すごく、甘くて美味しいです」
彼女の人生で初めて、組織のプログラムではなく、自分の意志で選んで食べたお菓子。その自由の味を噛み締めるように、彼女は何度も頷いた。
そして、雅はそっと俺の肩に自分の頭を預け、嬉しそうに目を閉じた。
(……おいおい、ずいぶん無防備になったな)
俺は少しだけ肩をすくめながらも、西東京市へ向けて加速する新幹線の揺れに身を任せた。
数時間後。西東京市の御堂家に帰還した俺を待っていたのは、予想通りの阿鼻叫喚だった。
「あらあら、すばる。今度は黒髪のすっごく綺麗な和風の女の子……! あなた、ついにどこかのお金持ちのお嬢様までたぶらかしてきたの!?」
目を輝かせる母さんの前で、雅は三指をついて完璧な、それこそ大和撫子の手本のようなお辞儀をした。
「初めまして、お母様。すばる君には、私の人生のすべてを救っていただきました。このご恩に報いるため、私は彼に一生尽くし、お側でお世話をさせていただきたく……」
雅は立ち上がると、そのまま真っ直ぐに俺の元へ歩み寄り、俺の右腕にギュッと抱き着いた。
「すばる君。私、あなたのこと……本当に、大好きです」
「なッ……!?」
その光景を見た瞬間。セリアと紅刃の動きが、ピタリと止まった。
今まで雅がやっていたのは「結社の命令による色仕掛け」だった。だが、今の彼女の瞳には、打算など一切ない。命を救ってくれた俺への、純度100%の「本気の恋心」が溢れ出していたのだ。
「ちょ、ちょっと待ちなさい泥棒猫! 統の世話は第一騎士である私が……!」
セリアはいつものように反論しようとして、ふと、自分の胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
(……あれ? 私は王を護衛する騎士として、側にいるはずなのに。どうして今、彼女が統に触れているのを見て、こんなに……胸が苦しいのでしょう?)
「ふざけんな、アタシが……アタシが毎日、統の隣で一緒に飯食うんだよ……ッ!」
紅刃もまた、無意識に拳を握りしめていた。ただの居候として美味しいご飯が食べられればいいと思っていたはずなのに、雅の真っ直ぐな好意を目の当たりにして、自分の中にある「統を誰にも取られたくない」という独占欲に、初めて気がついてしまったのだ。
「おい、お前ら急に黙り込んでどうした?」
俺が首を傾げると、二人は顔を真っ赤にして「な、なんでもありません!」「うるせえハズレ枠!」とそっぽを向いてしまった。
俺は早々に三人の気まずい空気から逃げ出し、地下室に偽装したセーフハウスへと階段を降りた。
『お帰りなさい、すばるくん。早速ですが、吉報と凶報があります』
地下室のモニターが青く発光し、AIのイヴがいつになく真剣な顔で出迎えてくれた。
「吉報から頼む」
『結社【八咫烏】の持つすべての情報ネットワークへのアクセスに成功しました。これで、日本国内の魔術的な異常はリアルタイムで把握できます。……これが吉報です』
イヴはモニターに、太平洋の広大な海域のマップを映し出した。
『そして凶報ですが……数時間前、太平洋のど真ん中で、極めて強大な「神の顕現」をキャッチしました。原初神クラスに匹敵する、凄まじい魔力質量です』
「なんだと? またどこかの六王が儀式でもやったのか?」
俺が眉をひそめると、イヴは首を横に振った。
『いえ、自然発生に近い異常な波形です。……しかも不気味なことに、その神は顕現した直後、自らの魔力を極限まで圧縮し、レーダーから完全に「姿を消して」しまいました』
「消えた……?」
『はい。おそらく、自らの巨大な神威を人間サイズにまで圧縮し、受肉して「人に紛れた」可能性が高いです。……現在の行方は不明ですが、海流と最後の波形から推測するに、すでにこの日本国内に潜伏しているかもしれません』
「……おいおい」
俺はモニターを見つめながら、軽く頭を掻いた。
六王同士の派手な殺し合いならまだ対処のしようがあるが、人に紛れて姿を消した神様を日本中から探し出すなんて、砂漠で針を探すようなものだ。
「まあいい。八咫烏の監視網に引っかからないなら、向こうから尻尾を出すまで待つしかねえな」
俺はため息をつき、地下室の電気を消した。
日本の裏社会を味方につけ、盤面は安定したように見えた。だが、世界を巻き込む神殺しの闘争は、水面下で確実に次のフェーズへと移行しつつあった。
それが、俺の愛する「西東京市の日常」のすぐ傍まで迫ってきていることなど、この時の俺はまだ知る由もなかったのだ。




