最古の胴元(ディーラー)と、極東初の【王】
土砂降りの雨の中から救出された京極雅は、西東京市の御堂家のリビングで、すばるの大きめのジャージを借りて身を小さく縮めていた。
「……ほら、泥棒猫。風邪引くからさっさと頭拭け」
「紅刃! お客様に対してその態度は騎士として見過ごせません! ……京極さん、温かいココアを淹れました。毒は入っていませんので安心してください」
「アンタのその言い方が一番怖いんだよ、セリア!」
ギャーギャーと騒ぎながらも、紅刃が乱暴にバスタオルを雅の頭にバサッと被せ、セリアが湯気の立つマグカップをテーブルにコトリと置いた。
今まで「敵の工作員」としてすばるを騙そうとしていた自分に対し、文句を言いながらも世話を焼いてくれる二人。
「……ありがとう、ございます」
雅は震える両手でマグカップを包み込んだ。
掌から伝わるココアの温もり。リビングに漂う、夕飯のカレーの匂い。そして、損得勘定の一切ない、ただの騒がしくて平和なやり取り。
結社の冷たい無機質な部屋で、標的を落とすための知識だけを詰め込まれてきた雅にとって、それは生まれて初めて触れる「当たり前の日常の体温」だった。
(これが、すばる君の守りたかったもの……)
マグカップの縁を見つめながら、雅の胸の奥がキュッと締め付けられる。
彼がただの平凡な高校生として生きてきたこの愛おしい世界を、自分は組織の命令で壊そうとしていたのだ。その強烈な罪悪感と、彼への紛れもない本物の恋心が、雅の心をぐちゃぐちゃに掻き乱していた。
「着替え終わったか? 悪いな、むさ苦しいジャージで」
タオルで髪を拭きながら、すばるがリビングに入ってくる。
「あ……ううん、すごく温かい。……その、ごめんなさい。私みたいな裏切り者を、こんな温かい場所に……」
雅が消え入りそうな声で俯くと、すばるは「気にすんな」と軽く手を振った。
「お前はもう俺の『傘下』に入ったんだ。手札の面倒を見るのは胴元の責任だろ。……それより、イヴ」
すばるが壁のモニターに向かって声をかけると、ノイズと共にAIのイヴが姿を現した。
『はい、すばるくん。……全く、あなたはまた厄介なものを拾い上げましたね』
イヴは呆れたようにため息をついた後、モニターの画面を『日本地図』へと切り替えた。
その中心、古都・京都のエリアが赤く発光している。
『京極さんが所属していた魔術結社【八咫烏】。……極東において、その名は単なる裏組織の枠に収まりません。数百年前から、日本の政治、経済、そして魔術の裏社会のすべてを裏から操ってきた最大のシンジケートです』
イヴの冷徹な声が、リビングの空気を一段階ピンと張り詰めさせる。
『彼らの一存で、国が一つ動くほどの影響力を持っています。……しかし、彼らのダイスは最高でも【5】。神や六王を武力で殺害することは絶対に不可能です。だからこそ、彼らは「盤面の胴元」として、強力な王を搦め手で洗脳し、自らの傀儡(あやつり人形)にしようと企んでいるのです』
イヴは、地図上にいくつかの不気味な魔力波形を映し出した。
『近年、これまでに類を見ない異常なペースで六王が誕生し、神殺しと神の闘争が激化しています。
そのうねりに日本が呑み込まれることを恐れた八咫烏は……この極東に誕生した「史上初の日本人の六王」であるあなたを、結社の最強の抑止力として陣営に引き込みたくて、ひどく焦っているんです』
イヴの解説に、雅は青ざめた顔で小さく頷いた。
「……イヴの言う通りです。私の祖父であり、八咫烏の幹部の一人である京極弦斎は、王を『便利な兵器』としか見ていません。私のような工作員を使ったハニートラップが失敗したと知れば、次は実力行使に出ます」
雅は、自分の膝をギュッと握りしめた。
「力で殺せないのなら、脳を壊すまでです。彼らは何千人もの魔術師を動員し、都市一つを丸ごと覆うほどの『多重結界』にすばる君を閉じ込め、魔力回路を封じて洗脳する気です。……私を逃がしたと知れば、彼らは必ずこの西東京市の平和な日常ごと、あなたを絡め捕りに来ます」
雅の震える声に、セリアと紅刃が息を呑む。
アルテアやゼインのような「個人のバケモノ」とは違う。国家の裏側そのものである「巨大なシステム」が、明確な悪意を持ってこの町を侵食しにくるのだ。
「すばる君……私、やっぱり出て行きます。私がここにいたら、あなたたちの日常が……」
雅が悲痛な顔で立ち上がろうとした、その時だった。
「座ってろ、雅」
すばるの低く、しかし絶対に揺るがない声が、雅の動きをピタリと止めた。
いつの間にか、彼が彼女を呼ぶ名前が「京極」から「雅」へと変わっていた。
「……すばる、君?」
「お前が今更ここを出て行ったところで、あのジジイどもが俺を狙うのをやめるわけねえだろ。
俺が極東の【王】である以上、あいつらは俺を操り人形にするまで、何度でも結界師や刺客を送り込んでくる」
すばるは完治した右腕を軽く回し、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「毎日毎日、いつ見えない結界を張られて日常がぶっ壊されるか分からない。……そんなの、俺の愛する『ちぐはぐな日常』じゃねえ。ただの我慢比べだ」
「じゃあ、どうするのですか統! 結社の連中が来るのを、ここで迎え撃ちますか!?」
セリアが白銀の刀の柄に手をかける。だが、すばるは首を横に振った。
「迎え撃つなんて、受け身のゲームは御免だ。西東京市を戦場にしたら、母さんや近所の人たちまで巻き込んじまうからな」
すばるは、モニターに映し出された『京都』の地図を指差した。
「イカサマ師が、自分に不利な盤面を押し付けられた時にやることは一つだ」
すばるの瞳の奥で、ギャンブラーとしての黄金の光が鋭く瞬く。
「——胴元のいるカジノに直接乗り込んで、テーブルごと全部ひっくり返す。それしかねえだろ」
その宣言に、リビングが静まり返った。
日本最大の魔術結社の本拠地である、京都。敵の罠と魔術師が何千人と待ち構える、文字通りの『死地』へと、自分から殴り込みに行くというのだ。
「……正気ですか、すばる君。相手は、何百年も続く最古の結社ですよ……!? 私たちだけで、本部に乗り込むなんて……」
雅が震える声で止めるが、すばるは全く怯む様子もなく、雅の頭にポンと手を置いた。
「俺はいつだって正気だぜ。それに、お前のご立派なお祖父様に、直接教えてやらなきゃ気が済まねえんだよ」
すばるは、雅の漆黒の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「『女の子一人を縛り付けるようなケチな組織は、俺がぶっ潰す』って、さっきタンカを切ったばっかりだからな。男に二言はねえよ」
その瞬間、雅の目から再び大粒の涙が溢れ出した。
結社の恐ろしさを誰よりも知っているはずなのに。彼のその無茶苦茶な自信と、自分を守るために敵の懐に飛び込もうとする不器用な優しさが、雅の心を完全に満たしていた。
(ああ……私、本当に……この人のことが、好き……っ)
雅は顔を真っ赤にして、すばるのジャージの袖をギュッと握りしめた。
「ハハッ! 面白えじゃねえか! アタシの爆炎で、京都のポンコツ結界ごと全部灰にしてやるよ!!」
紅刃が両拳を打ち合わせ、獰猛な笑みを浮かべる。
「ええ! 私の迅雷で、すばるの道を切り拓いてみせましょう! ……ところですばる、京都といえば、八ツ橋というお菓子が美味しいと聞きましたが……!」
セリアがすでに観光気分の目を輝かせている。
「お前らなぁ……遠足じゃねえんだぞ」
すばるは呆れたようにため息をつきながらも、頼もしい居候たちを見て小さく笑った。
「イヴ。明日から学校は一週間『病欠』ってことで、適当に診断書を偽造しといてくれ。……新幹線のチケット、四人分だ」
『了解しました。……相変わらず、無茶苦茶な王様ですね』
モニター越しのイヴも、どこか楽しそうに肩をすくめた。
西東京市の日常を守るため、そして、新たなる手札となった一人の少女の自由を取り戻すため。
最弱のイカサマ師と、美しき反逆の工作員、そして騒がしい居候たちの、日本最大の結社を相手取った『最悪の修学旅行(京都編)』の幕が、今、切って落とされた。




