雨中の廃棄物と、恋に落ちた操り人形
土砂降りの雨が、西東京市の旧校舎を黒く濡らしていた。
裏門に停められた漆黒の高級車の前で、京極雅は黒スーツの男たちに両腕を掴まれ、乱暴に後部座席へと押し込まれた。
「……大人しくしろ、欠陥品」
氷のように冷たい声。男たちの胸元には、日本最古の魔術結社『八咫烏』の紋章が銀色に光っている。
「……はい」
雅は抵抗することなく、濡れた髪のままシートにうずくまった。その漆黒の瞳からは、完全に光が失われていた。
彼女の人生は、生まれた瞬間から「結社の道具」として決定づけられていた。
八咫烏の幹部である祖父から与えられたのは、愛情ではなく「教育」と「洗脳」。着る服も、食べる物も、学ぶ知識も、すべては標的を落とすための『完璧な工作員』を作り上げるためのプログラムに過ぎなかった。
『お前は八咫烏の美しき人形だ。道具に、己の意志など必要ない』
それが、彼女に与えられた唯一の存在意義。
だからこそ、すばるを籠絡するという任務に失敗した今、彼女の価値は「ゼロ」になった。これから本部の地下牢へ連行され、人格を完全に破壊する再教育を施される。自分の記憶も、感情も、すべてが白紙に戻される。
(……これで、いいのよ)
雅は、冷え切った自分の両手をそっと抱きしめた。
最初から、私という人間に『中身』なんてなかった。ただ綺麗な箱庭で踊らされていただけ。だから、壊れて捨てられるのも当然だ。……そう、思い込もうとしていた。
「出せ。本部へ帰還する」
黒スーツの男が運転席に乗り込み、エンジンをかけた、その時だった。
ズドォォォォォンッ!!!
突然、凄まじい衝撃音と共に、漆黒の高級車のボンネットが「くの字」にへし折れ、車体が後部座席ごと大きく跳ね上がった。
「な、何事だッ!?」
男たちが慌てて車外へ飛び出すと、ひしゃげたボンネットの上に、一人の少年が立っていた。
土砂降りの雨の中、安物のビニール傘をさし、もう片方の手をズボンのポケットに突っ込んでいる。
「御堂すばる……!? なぜ、貴様がここにいる!」
エージェントの一人が魔術の込められた短刀を抜き放ち、すばるを睨みつける。背後の暗がりからは、セリアと紅刃がいつでも飛び出せるよう、静かに殺気を放っていた。
「……す、ばる、君……?」
車内で震えていた雅は、信じられないものを見るように目を見開いた。
すばるはボンネットからゆっくりと降りると、黒スーツの男たちを一瞥して、ひどく面倒くさそうにため息をついた。
「忘れ物を届けに来てやったんだよ。お前らの組織の『工作員』が、用具室にブラウスのリボンを落としていったからな」
「愚かなガキめ。その女が何者か、薄々気づいているのだろう?」
黒スーツの男が、嘲笑うように鼻を鳴らした。
「その女は我々『八咫烏』が貴様を籠絡し、操り人形にするために差し向けた毒婦だぞ。そんな裏切り者のスパイを、わざわざ助けに来たとでも言うのか?」
「ああ、知ってるよ。お粗末な三流のハニートラップだったからな」
すばるは冷たく言い放つ。
車内でその言葉を聞いた雅の胸が、ズキリと痛んだ。そうだ、私は彼を騙そうとした最低の敵だ。助けられる理由など、一つもない。
「ならば、大人しく道を開けろ。そいつは任務に失敗した、ただの壊れた道具だ。我々が持ち帰り、スクラップにして作り直すだけのこと——」
「……だから、気に入らねえんだよ」
すばるの低い声が、雨音を切り裂いた。
彼の一歩が水たまりを踏みしめた瞬間、男たちが一斉に短刀を構えて飛びかかろうとした。
だが、次の瞬間。
「ガ、アァァァッ!?」
男たちの体が、まるで透明な巨象に踏み潰されたかのように、一斉に泥の地面へと叩きつけられた。
「——権能解放。【1の目】・特大質量」
すばるが左手を軽く下へ向けるだけで、男たちの着ているスーツと肉体の質量が数十倍に跳ね上がり、彼らは指一本動かすことすらできず、カエルのように地面に這いつくばった。
「どこのカジノにも、てめえらみたいな腐った『胴元』がいるよな」
すばるは、地面で呻く八咫烏の工作員たちを冷徹な目で見下ろした。
「手札を持たない人間を盤面に座らせて、イカサマを強要し、負けたら『壊れた道具』扱いでゴミ箱に捨てる。……俺は、そういうクソみたいなルールを押し付ける奴らが、世界で一番嫌いなんだよ」
男たちの呻き声だけが響く中、すばるは後部座席のドアを乱暴にこじ開けた。
そして、暗い車内で膝を抱えて震えている雅を見下ろした。
「……どうして」
雅の口から、掠れた声がこぼれ落ちる。
「どうして、助けに来たの……? 私は、あなたを騙して、結社に利用しようとしたのよ……? なのに、どうして……!」
彼女の完璧だった美貌は、涙と雨でぐしゃぐしゃに崩れていた。エージェントとしての仮面が剥がれ落ちた、ただの17歳の少女の顔だった。
「勘違いすんな。俺は正義の味方じゃない。お前のハニートラップは最低だったし、騙される気も一切ねえよ」
すばるはビニール傘を傾け、雅の頭上から降り注ぐ雨を遮った。
「だけどよ。誰かの糸で縛られたまま、自分でゲームを降りる権利すら与えられずに退場させられるのは……あんまりにも不格好だろ」
すばるは、右手を雅の目の前へと差し出した。
「選べよ、京極」
その声は、甘い誘惑でも、命令でもなかった。ただの、対等な人間としての問いかけだった。
「このまま組織の都合のいい人形として、箱の中でスクラップにされるか。
……それとも、全部の糸をぶち切って、俺の『傘下』に入って、自分の足で盤面を歩いてみるか」
雅は、差し出されたその手を見つめた。
選べ。彼はそう言った。
着る服も、食べる物も、愛する人すらも組織に決められてきた彼女の人生に、初めて差し出された『自分の意志で選ぶためのカード』。
(ああ……)
雅の胸の奥で、何かが激しく熱を帯びて弾けた。
今まで組織のために被ってきたどんな仮面よりも、どんな計算よりも、もっと深く、制御できない感情の波。
完璧な罠を仕掛けたのは、私のはずだったのに。
彼の放つ圧倒的な自由と、その不器用な優しさの前に、私自身の心の方が、完全に絡め取られてしまったのだ。
「……私、は」
雅は、震える両手を伸ばし、すばるの暖かく力強い右手を、しっかりと握り返した。
「私……もう、誰かの人形なんて、嫌……っ。自分の意志で、あなたと一緒に……!!」
大粒の涙が、彼女の頬を伝って零れ落ちる。
すばるは「……言質は取ったぞ」とニヤリと笑い、彼女の体を車の中から力強く引っ張り上げた。
「き、貴様ら……! 八咫烏を敵に回して、ただで済むと……!」
地面に這いつくばったまま、男が血を吐きながら呪詛を吐く。
「統、こいつらトドメを刺しますか!?」
「アタシがまとめて炭にしてやるよ!!」
セリアと紅刃が臨戦態勢に入るが、すばるは手でそれを制した。
「いや、こいつらは伝書鳩として送り返す」
すばるは、男たちの質量を少しだけ軽くしてやり、しゃがみ込んでその胸ぐらを掴んだ。
「本部のジジイどもに伝えておけ。……女の子一人の人生も自由に選ばせてやれねえようなケチな組織は、俺のイカサマで盤面ごと全部ぶっ潰してやるってな」
日本という国の裏社会を支配する、最大にして最古の結社に対する、明確な宣戦布告。
最弱のイカサマ師の傘下に、美しき反逆の工作員が加わった瞬間だった。
雨はいつの間にか、小降りになっていた。
すばるの隣で、雅は彼の制服の袖をギュッと握りしめ、濡れた顔をほんのりと赤く染めていた。
それはエージェントとしての嘘の好意ではなく、一人の少女として、本気で彼に『一目惚れ』をしてしまった、紛れもない真実の表情だった。




