図書室の出会いと、魔術協会の思惑
放課後。紅刃とセリアの終わらない冷戦、そして葵の致命的な誤解という地獄のトライアングルから逃れるため、俺は旧校舎の図書室へ逃げ込んでいた。
埃っぽい古書の匂いの中で重い溜息をつこうとした瞬間、ふわりと、この場所には似つかわしくない甘い香水が鼻をくすぐった。
「お疲れのようですね、新たなる王よ」
振り返ると、司書のデスクに一人の女性が座っていた。
黒いタイトスカートに、知的なアンダーリムの眼鏡。手には分厚い革張りの魔道書。ウチの学校にこんな美人の司書がいただろうか。
「……誰ですか、アンタ」
「初めまして、御堂統くん。簡単な認識阻害の魔術を解かせてもらいました。私はイヴ。【魔術協会】の最高幹部を務める魔女です」
イヴと名乗った女性は、くすりと艶やかに微笑むと、魔道書をパタンと閉じた。
「警戒しないでください。私はあなたと殺し合い(ダイス・マキア)をする気はありません。協会の密命で、新参の【六王】であるあなたが、我々の『脅威』となるかを見極め……あわよくば、協会陣営へと取り込むために潜入した次第です」
「取り込む? お断りだ。俺は平穏な日常を生きたいだけなんだよ」
「それは無理な相談です。あなたはもう、世界のパワーバランスの中心にいるのですから」
「紅刃の所属する過激派組織『オウル』が、なぜあなたを即座に殺しに来ないか分かりますか?」
イヴの問いに、俺は首を傾げた。
「……俺がまだ新米で、力を使いこなせてないからか?」
「逆です」
イヴは眼鏡を中指で押し上げ、冷徹な瞳で俺を見た。
「あなたが【6】を引き当てたからです。歴史上、片手で数えるほどしか存在しない最高位の権能保持者——【六王】は、単独で国家を滅ぼし得る『歩く戦略兵器』であり、理不尽な魔王と同義です」
神殺しの闘争において、最も重要なのは「相手の権能(手札)を知ること」だという。
「アレスを倒したあなたが、サイコロでどの概念を簒奪したのか。『大剣』か、『戦車』か、あるいは『不死性』か、はたまたその全てか。
強大すぎるが故に、その手札が『未知』である間は、いかなる巨大組織も迂闊に手出しはできません。ロシアンルーレットの弾倉に、核爆弾が入っているようなものですからね」
だから紅刃は、俺が権能を使用し、その正体と代償を晒すまで「観察」という名目で泳がせているのだ。
手札を隠し持つ限り、俺は不可侵の王として君臨できる。
「手札を見せなければ安全……。なら、協会だって俺に手出しできないだろ」
「ええ。ですが、それは『人間の神殺し』が相手なら、の話です」
イヴの声の温度が、急激に下がった。
「神殺しが本当に恐れるべきは、アレスのような『顕現型』の神ではありません。世界そのものを己の庭と錯覚し、最初から人間に擬態して日常に溶け込んでいる存在。神話の根源、【原初神】です」
イヴの言葉が、重く響く。
「彼らは息をするように現実を歪める。もし出会ってしまったら最後、あなたが【6】の権能を抜く隙すら与えられず、この世から消滅させられるでしょう」
イヴの不吉な警告を背に図書室を出た俺は、頭を冷やすために屋上へと向かった。
歩く戦略兵器だの、原初神だの。スケールが大きすぎて眩暈がする。
ガチャリと重い鉄扉を開ける。春のうららかな陽光が降り注ぐ、誰もいないはずの屋上。
だが、給水塔の陰にあるベンチで、一人の見知らぬ男子生徒が寝転がっていた。
着崩した制服。顔に文庫本を乗せて、気持ちよさそうに昼寝をしている気怠げな上級生。
「……ふぁあ。うるさいな、最近は下界が騒がしくて安眠できないや」
俺の足音に気づいたのか、その上級生がゆっくりと起き上がった。
漆黒の髪に、どこか底知れぬ深淵を感じさせる黒い瞳。黒須と名札のついた先輩は、ベンチに座ったまま、俺を見るなりくんくんと鼻を鳴らした。
「君、変な匂いがするね」
「……汗臭かったらすみません。邪魔しました」
「いや。血と鉄と……あぁ、思い出した。ギリシャの筋肉馬鹿の匂いだ」
ピタリと、俺の足が完全に凍りついた。
背筋に、氷の柱を脳髄まで突き立てられたような悪寒が走る。
一般の学生が、アレスの名をこんな文脈で口にするはずがない。
「あいつ、人間に殺されて権能を奪われたって泣きついてきたけど。まさか、こんなヒョロヒョロの子供にやられるなんてね。傑作だ」
黒須先輩は、心底可笑しそうにクスクスと笑った。
「アンタ……何者だ」
俺が反射的に【1】の権能を行使し、距離を取ろうと後ろへ跳んだ瞬間。
黒須先輩が、面倒くさそうにパチンと指を鳴らした。
ドメインの展開音も、詠唱も、魔力の波動も一切なかった。
ただ「それ」は、唐突に起こった。
「え……?」
太陽が消え、空が消え、西東京市の景色が消える。音すらも闇に吸い込まれていく。
春の屋上が、一瞬にして上下左右の感覚すら喪失するほどの『絶対的な暗黒空間』に塗り潰されたのだ。
残されたのは、底なしの闇の中心でただ一人ベンチに座り、足を組んでいる黒須先輩だけ。
権能を使おうにも、魔力が闇に溶けていくように霧散し、指先一つ動かすことができない。アレスの時に感じた「重圧」など比ではない。これは生存本能が「絶対に勝てない」と警鐘を鳴らす、純粋な『死』の空間。
不可侵の【六王】の肩書きなど、この圧倒的な暴力の前では紙屑同然だ。
イヴの警告が、最悪の形で現実となった。
「僕? 僕はただの留年スレスレの高校生だよ」
黒須先輩——いや、人間に擬態した『それ』は、三日月のように口角を歪めた。
「……暇を持て余した、『原初の闇神』だけどね」
世界で最も恐ろしい絶望が、ニヤリと笑って、俺の喉元に冷たい牙を突き立てていた。




