密室の奥の手と、操り人形の瞳
放課後。薄暗い雨雲が西東京市の空を覆う中、俺は旧体育館の裏手にある薄暗い用具室へと足を運んでいた。
『探し物を手伝ってほしいんです。……誰にも見られたくない、大切なものなの』
京極雅から送られてきた、そんな意味深なメッセージに呼び出されたからだ。
錆びた鉄の扉を開けると、ホコリとカビの匂いに混じって、あの強烈に甘い香水の匂いが漂ってきた。
「……京極? 探し物ってなんだよ」
俺が足を踏み入れた瞬間。背後の扉がバタンと閉まり、ガチャリと内側から鍵がかけられた。
「来てくれて嬉しいです、すばる君」
跳び箱の陰から現れた雅の姿を見て、俺は思わず眉をひそめた。
彼女は、指定のブラウスのボタンを大きく外し、胸元のリボンも床に投げ捨てていた。白い肩が露わになり、極端に短くされたスカートからは、滑らかな太ももが艶かしく覗いている。
「……何の真似だ? 探し物ってのはお前の服のボタンか?」
俺がわざと呆れたようにため息をつくと、雅は潤んだ漆黒の瞳で俺を見つめ、ゆっくりと距離を詰めてきた。
「私……もう、我慢できないんです」
彼女の白い両腕が、俺の首に絡みつく。豊かな胸の感触と、男の理性を焼き切るような体温が、制服越しに直接伝わってくる。
「すばる君のことが、頭から離れない。……ここで、私を好きにしていいですよ? 誰にも言いません。私を、あなたのものにして……ッ」
それは、特級エージェントとしてのプライドを完全に投げ打った、肉体による強引な既成事実の構築。
逃げ場のない密室。誘惑を拒む理由など、普通の健全な男子高校生には一つも存在しない。雅は自分の全てをチップとして賭け、この盤面の勝利を確信していた。
だが。
俺は、首に回された雅の細い腕を、無事な左手でガシッと掴んだ。
決して乱暴ではなく、しかし絶対にそれ以上踏み込ませない、鋼のような拒絶の力で。
「……え?」
雅の甘い吐息が止まる。
「やめとけ、京極。お前のその手札、完全に透けて見えてるぞ」
俺は、密着していた彼女の身体をゆっくりと引き剥がし、彼女のはだけたブラウスの襟を、首元までしっかりと引き上げた。
「す、すばる君……? どうして……私じゃ、不満ですか……?」
雅が混乱と焦燥に顔を歪める。色仕掛けを完全に無効化された彼女の顔には、今まで張り付いていた「完璧な美少女」の余裕は欠片もなかった。
「不満とかそういう話じゃねえ。……お前の目だよ」
俺は、薄暗い用具室の中で、彼女の漆黒の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「俺はイカサマ師だ。他人にやらされてるだけの『負け戦』に、自分の命をベットしてる奴の顔くらい、一目で見抜ける」
雅の肩が、ビクッと大きく跳ねた。
「お前の目は、恋する女の目なんかじゃない。ディーラーの裏にいる『胴元』に逆らえなくて、怯えながら無理やり盤面を回してる、ただの操り人形の目だ」
俺は、床に落ちていた彼女のリボンを拾い上げ、その手に握らせた。
「俺は、他人の糸で動いてるだけの人形は食わねえ。……風邪ひく前に、服着て帰れよ」
それだけ言い残し、俺は用具室の鍵を開け、雨の降る外へと一人で歩み去っていった。
バタン、と扉が閉まる音が、旧体育館に虚しく響いた。
取り残された雅は、握りしめたリボンを見つめたまま、その場に力なくへたり込んだ。
(……見透かされていた。最初から、何もかも。私の覚悟も、誘惑も、彼にとってはただの『操り人形の滑稽なダンス』でしかなかった……ッ)
全身の震えが止まらない。
結社の最高傑作としての自負が、完全に粉々に砕け散った瞬間だった。
「——見苦しいぞ、雅よ」
不意に、換気扇の隙間から一羽の漆黒のカラスが舞い降り、老人のようなしゃがれ声で彼女を見下ろした。
『八咫烏』の監視役である使い魔だ。
「まさか、色仕掛けの奥の手すらも通じぬとはな。……極東の王、ただのハズレ枠のガキと侮っていたが、どうやら本物の『怪物』の器らしい」
「ま、待ってください……! あと一度、あと一度だけチャンスを……!」
雅は泥に塗れるのも構わず、カラスに向かって必死に手を伸ばした。
だが、カラスの目は冷酷そのものだった。
「作戦は終了だ。本部の『お館様』からの直々の命令を伝える。……京極雅、貴様を特級工作員の任から解く。直ちに本部へ帰還せよ」
「……あ……」
雅の喉から、ひゅっと空気が漏れる。
「ガラクタには用はない。帰還次第、貴様を地下牢へ幽閉し、次の任務のための『再教育』を施す。……我ら八咫烏に、自由意志などという不要なバグは許されんのだ」
カラスはそれだけ告げると、羽ばたいて闇の中へと消えていった。
「あ、ああ……嫌……」
雅は薄暗い床にうずくまり、声を殺して泣き崩れた。
生まれた時から家の命令に従い、道具として生きることしか許されなかった彼女の人生。その唯一の価値であった「完璧な工作員」という役割すらも、今、完全に奪われた。
彼女にはもう、逃げる場所も、生きる理由も、残されていなかった。
一方、その頃。
雨の中を傘もささずに歩いていた俺は、ふと足を止め、後ろを振り返った。
「……統。どうしたのですか? さっきから難しい顔をして」
「ハズレ枠のくせに、雨に濡れて黄昏れてんじゃねえよ。風邪引くぞ」
いつの間にか迎えに来ていたセリアと紅刃が、俺の頭上に傘を差し掛けていた。
「いや……」
俺は、自分の直感が鳴らしている『警鐘』の正体について思考を巡らせていた。
京極雅。あの女が何らかの裏組織の回し者であることは間違いない。
だが、最後に俺に見せた彼女の瞳。あそこに浮かんでいたのは、敵対心ではなく、本物の『絶望』と『恐怖』だった。
(……あの女、このまま放っておいたら、裏の連中に『処分』されるんじゃないか?)
自分の日常を守るためなら、敵の工作員など見捨てるのが一番の正解だ。
だが、他人の理不尽なルールで、手札のない人間が一方的に盤面から排除される。……それは、俺が一番嫌いな「クソみたいなゲーム」のやり方だった。
「……セリア、紅刃。悪いけど、ちょっと付き合え」
俺は雨の降る空を睨みつけ、踵を返した。
「厄介な『イカサマ』の匂いがする。……裏の胴元の顔を、直接拝みに行ってやる」




