完璧な罠(ハニートラップ)と、盤面に乗らないイカサマ師
梅雨入り間近の西東京市。
放課後の下駄箱で、京極雅は完璧な角度で憂いを帯びた表情を作り、外の土砂降りの雨を見つめていた。
(……ターゲットが教室を出ました。間もなくこちらへ来ます)
結社のエージェントとして、彼女の行動に偶然は一つもない。天気予報を完全に把握した上で、わざと傘を持たずに登校したのだ。
狙うは『相合い傘』。
密着した空間、雨音による周囲との隔離、そして触れ合う肩。思春期の男子高校生を落とすための、極めて古典的だが勝率100%の盤面である。
「あれ、京極。傘、忘れたのか?」
足音を立てずに現れたすばるに、雅はビクッと肩を揺らし(もちろん演技だ)、潤んだ漆黒の瞳で彼を見上げた。
「あ……すばる君。うん、朝は晴れてたから油断しちゃって。困ったな……」
雅は寒そうに自分の肩を抱き、すばるの持つビニール傘にチラリと視線を送る。
『入れてくれないかな?』という無言の、しかし強烈なアピール。並の男なら、ここで顔を赤くして傘を差し出すだろう。
だが、極東の王の反応は、雅の計算式を根底から裏切るものだった。
「そっか。風邪ひくなよ」
すばるは、自分のビニール傘を雅の手元にポンと押し付けると、そのまま無造作に土砂降りの雨の中へと飛び出していったのだ。
「えっ……!?」
「俺は走って帰るから、それ貸してやるよ! じゃあな!」
すばるは【1】の権能で自身の質量を極限まで軽くし、雨粒を弾き飛ばすような超音速のステップで、あっという間に校門の向こうへと消えていった。
残された雅は、突き返された500円のビニール傘を握りしめたまま、完璧な美貌をヒクッと引きつらせた。
(……なんなの、あの男。なぜ、この私と肩を並べて歩く『特権』を自ら放棄するの……!?)
雅の工作員としてのプライドに、初めてヒビが入った瞬間だった。
雅の猛攻は止まらない。
翌日の図書室。期末テストの勉強をしているすばるの隣の席を陣取り、雅は甘い香水の匂いを漂わせながら、彼のノートを覗き込むように身を乗り出した。
「すばる君、ここの数式……私、よく分からなくて。教えてもらえませんか?」
胸元が大きく開いたブラウス。吐息が耳にかかるほどの至近距離。
視覚と嗅覚を同時に塞ぎ、思考能力を奪う高等テクニックだ。
(さあ、どうですか? 私の胸元を見て、動揺して、顔を赤くしなさい……!)
雅が内心で勝利を確信した、その時。
「……なぁ京極。お前、香水つけすぎだ」
すばるは、ノートから一切目を離さずに、ひどく冷めた声で呟いた。
「え……?」
「カジノの悪徳ディーラーがよくやる手だ。キツい香水と過剰なスキンシップで、プレイヤーの思考を削ぐ。……悪いけど、俺はそういう『盤面』には乗らねえ主義なんだよ」
すばるがペンを置き、初めて雅の顔を真っ直ぐに見据えた。
その瞳は、恋する少年のものではない。配られたカードの裏にある「イカサマの匂い」を嗅ぎ分ける、生粋のギャンブラーの目だ。
「わ、私はただ……すばる君に勉強を……」
雅が咄嗟に可憐な少女の仮面を被り直そうとした瞬間。
「——泥棒猫、発見ッ!!」
「統! テメェまたこんな女と密着して!!」
図書室の入り口から、セリアと紅刃が弾丸のように突っ込んできた。
「ひぃッ!?」
雅が驚いて仰け反った隙に、紅刃がすばると雅の間に強引に割り込み、セリアが「風紀の乱れは私が正します!」と謎の説教を始める。
「お前ら、図書室では静かにしろ……。ああもう、集中切れた。帰るぞ」
すばるはため息をつき、カバンを持って立ち上がる。
「じゃあな京極。数式なら、そのへんの真面目な奴に聞いた方が早いぞ」
すばるは、二人の騒がしい居候を引き連れて、あっさりと図書室を出て行ってしまった。
放課後。人気のない旧校舎の裏手。
京極雅は、美しく整えられた爪を、ギリッと音を立てて噛み締めていた。
(どういうこと……。私の誘惑が、一切通用しない? 私の顔も、声も、匂いも、あの男の心を一ミリも揺さぶっていない……!?)
結社の最高傑作として育てられ、どんな要人や魔術師も、一瞥するだけでひざまずかせてきた彼女の『武器』が、ただの高校生に完全に無効化されている。
「……焦っているようだな、雅よ」
不意に、木の上から黒いカラスが舞い降り、老人のようなしゃがれ声を放った。
結社『八咫烏』が放っている、使い魔の監視役だ。
「本部も、お前の進捗の遅さに痺れを切らしている。極東の王を取り込むのに、これ以上時間をかけるわけにはいかん。……次で落とせなければ、お前は本部へ強制送還だ。代わりの駒はいくらでもいるからな」
監視役の無機質な宣告に、雅の肩がビクッと跳ねた。
本部へ戻される。それは、エージェントとしての『失敗』であり、道具としての価値を失うことを意味する。幼い頃から結社の命令に従うことしか許されなかった彼女にとって、それは存在意義の抹消と同義だった。
「……分かっています。次で、必ず仕留めますわ」
雅は、冷や汗を流しながらカラスを睨み返した。
(こうなったら、時間をかけた心理戦など捨て去るしかない。……直接、私の『身体』を使って、理性を焼き切る)
雅は、制服のリボンを乱暴に緩めた。
彼女に残された奥の手。誰もいない密室での、強引な肉体関係の既成事実作り。
明日、人気のない旧体育館の用具室にすばるを呼び出し、一線を越える。彼女は工作員としての最後のプライドを懸けて、最悪の決断を下したのだった




