完璧な弁当と、甘い罠の攻防
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、俺の机はあっという間に『極上の甘い匂い』に包囲された。
「すばる君。……あの、もしお昼がまだなら、ご一緒にいかがですか?」
転校生の京極雅が、俺の前の席にちょこんと座り、上目遣いで微笑みかけてきた。
彼女の手には、女子高生が持ってくるにはあまりにも豪勢な、漆塗りの三段重の弁当箱が握られている。
「え、いや……俺は購買でパンでも買おうかと……」
「ふふっ、奇遇ですね。私、今日はおかずを作りすぎちゃって。すばる君に食べてもらえたら嬉しいな、なんて」
パカッ、と開かれた重箱の中身を見て、俺は息を呑んだ。
料亭の仕出し弁当かと思うような、色鮮やかで完璧な配置のおかずたち。出汁巻き卵、西京焼き、彩り豊かな煮物。
(……朝の六時に起きてこれを作ったのか? 転校初日の、自己紹介の緊張感がある日に?)
普通の男子高校生なら「すげえ!」と無邪気に喜ぶところだろう。
だが、神々との命懸けの盤面を潜り抜けてきた俺の『直感』が、その完璧すぎる弁当から微かな「違和感」を感じ取っていた。
この女の行動には、一切の『隙』や『ノイズ』がない。まるで、俺という標的を落とすために最適化された、精巧なプログラムのようだ。
「さあ、遠慮しないでくださいね? はい、あーん……」
雅が、美しい箸で出汁巻き卵をつまみ、俺の口元へと運んでくる。
教室中の男子から「御堂ォォォッ! 代われェェェッ!!」という血の涙を伴った怨嗟の声が上がる。
「——そこまでです、泥棒猫ッ!!」
バンッ!! と教室の後ろの扉が蹴り破られ、白銀の刀(※竹光に偽装済み)を構えたセリアと、両手に特大の焼きそばパンを抱えた紅刃が雪崩れ込んできた。
「ハズレ枠の貞操は、第一騎士たる私が守ります! 貴女、どこの馬の骨ですか!」
「アタシたちのテリトリーに勝手に入ってくんな! 統、こんな出所の怪しい卵焼きより、購買のラス1で奪い取ってきた焼きそばパンを食え!」
威嚇する二人の美少女の乱入。教室の空気が一気に張り詰める。
だが、雅は顔色一つ変えなかった。それどころか、困ったように小首を傾げ、極上の『聖母の微笑み』を浮かべたのだ。
「あら。すばる君のお友達ですか? ふふっ、すばる君がいつもお世話になっています。とっても賑やかで、可愛らしいお友達ですね」
「なッ……か、可愛らしいだと……!?」
「子供扱いしてんじゃねえぞ、この黒髪女ッ!」
雅の圧倒的な『余裕』と『大人の女性の品格』の前に、セリアの騎士道も紅刃の狂犬っぷりも、ただの「キャンキャン吠える小型犬」のようにあしらわれてしまう。
(……ちょろい護衛犬ですね。北欧の雷光と、オウルの元・狂戦士。力はあっても、精神年齢は年相応の子供。私の敵ではありませんわ)
雅は内心で冷酷な分析を下しながら、再び俺へと視線を戻した。
「さあ、すばる君。卵焼き、冷めちゃいますよ?」
甘い香りと、完璧な笑顔。
男の理性を溶かすには十分すぎるハニートラップ。
だが、俺は彼女の差し出した卵焼きを直接口で受け取ることはせず、無事な左手でそっと『彼女の箸』を掴んで止めた。
「……え?」
雅の完璧な笑顔が、ほんの数ミリだけ引きつる。
「気持ちはありがたいけどよ。俺、人から直接エサをもらうような行儀のいいペットじゃないんだわ」
俺は箸を受け取り、自分の手でその卵焼きを口に運んだ。
「……うん、美味い。料亭顔負けだな。ありがとな、京極」
俺はニヤリと笑って見せた。
イカサマ師の基本だ。ディーラー(相手)が用意した完璧な盤面には、絶対にそのまま乗らない。相手が「こう動くだろう」と予測している軌道を、意図的にわずかにズラす。
(……この男、私の『餌付け(心理的アンカー)』を無意識に回避しましたわね……? いや、ただの照れ隠し? どちらにせよ、思ったより野生の勘が鋭いようですわ)
雅の漆黒の瞳の奥で、俺への評価が「平凡な少年」から「警戒すべき標的」へと一段階引き上げられた瞬間だった。
「ごちそうさん。美味かったから、お礼に明日は俺が学食のラーメン奢ってやるよ」
「ふふっ……嬉しい。楽しみにしていますね、すばる君」
雅は完璧な笑顔を取り繕ったが、その瞳の奥には、絶対にこの極東の王を自分たち『八咫烏』の陣営に引きずり込んでやるという、底知れない執念が渦巻いていた。
その日の放課後。
西東京市の寂れた神社の裏手。人気のない木陰で、京極雅は自身のスマートフォン(に偽装した結社専用の魔術通信機)を耳に当てていた。
『——状況はどうだ、雅よ』
電話の奥から、しゃがれた老人の声が響く。日本最大の魔術結社『八咫烏』の幹部の一人だ。
「接触は成功しました。……ですが、あの少年、ただのハズレ枠(運だけの凡人)ではありません。アルテアやゼインを退けたのは、決して偶然ではないようですわ」
雅は、教室で見せていた可憐な少女の顔を完全に捨て去り、氷のように冷徹なエージェントの顔になっていた。
「私の誘惑に対し、本能的に『致命傷になる一歩』を踏みとどまる直感を持っています。……落とすには、少し時間がかかるかもしれません」
『構わん。ヨーロッパの無派閥結社が彼の傘下に入り、事態は急を要している。……原初神が完全に目覚める前に、いかなる手段を使っても、あの極東の王を我々「八咫烏」の傀儡(あやつり人形)に仕上げろ』
「御意に」
通信を切り、雅は西東京市の夕暮れの空を見上げた。
「御堂すばる……。あなたのその生意気な警戒心、どこまで私の前で保つことができるかしら?」
彼女の赤い唇が、艶やかな孤を描く。
日常という名の、目に見えない暗殺の舞台。
武力ではなく、甘い毒による「王の簒奪ゲーム」が、静かにその幕を開けたのだった。




