絶対零度の旅立ちと、甘い毒の転校生
「——そこだ! セリア、右からの攻撃を防御したまえ! 紅刃は僕の援護を!」
「くッ……このボスの雷撃、私の『迅雷』よりも理不尽な判定を……!」
「アタシの爆炎が火を噴くぜ!!」
ヨーロッパでの死闘から数週間後。
西東京市の御堂家のリビングでは、平和ボケも甚だしい光景が繰り広げられていた。
歴300年の絶対零度の王・レヴィが、どこで買ってきたのか『萌え系アニメのフルグラフィックTシャツ』を着込み、セリア、紅刃と三人並んで、テレビ画面の強敵に向かってコントローラーを連打しているのだ。
「……お前ら、神殺しの闘争の緊張感って言葉知ってるか?」
俺は呆れ果ててため息をつきながら、麦茶の入ったグラスをテーブルに置いた。
レヴィが日本に来てから、我が家の日常はさらにカオスを極めていた。
彼は母さんの作るハンバーグや肉じゃがを「300年生きてきた中で最高の美食だ!」と大絶賛し、秋葉原に通い詰め、すっかり極東のサブカルチャーを満喫する立派な『観光客』と化していた。母さんも「レヴィ君は礼儀正しくて銀髪のイケメンだから」と完全に彼を気に入ってしまい、我が家のエンゲル係数は上がり続ける一方だ。
「フフッ、すばる。これも重要な『情報収集』の一環さ」
ボスを撃破し、満足げにコントローラーを置いたレヴィが、ふと真面目な顔つきになった。
その瞬間、リビングの空気がわずかに冷え、彼が身に纏っていた「観光客の緩み」が完全に消え去り、絶対零度の王としての凄みが顔を出す。
「実はね、今日でこの居心地の良いアジトとも、一旦お別れなんだ」
「……お別れ? 日本の観光にはもう飽きたのか?」
俺が尋ねると、レヴィは静かに首を振った。
「まさか。極東の島国は最高だよ。……だが、僕の本来の目的を忘れたわけじゃない。憎き『原初神』の痕跡が、世界各地で微かに動き始めているという情報を掴んだ。僕が直接、世界中を飛び回ってその尻尾を掴みに行く必要がある」
レヴィの銀色の瞳の奥に、かつて愛した者を奪われた復讐の冷たい炎が宿る。
俺は小さく頷いた。「そうか。……なら、気を付けて行けよ、ダチ」
俺の言葉に、レヴィは嬉しそうに微笑んだ。
そして、彼は自分のコートのポケットから、美しく透き通った『氷の結晶』を取り出し、俺に向かって放り投げた。
「おっと……冷たッ! なんだこれ?」
「神器『氷星の涙』。……僕が作り出したものじゃないよ」
レヴィは少しだけ目を伏せ、氷の結晶を見つめながら、遠い過去を思い出すように語り始めた。
「神器ってのは、神獣を狩るか、神を殺した時のオマケでしか手に入らない代物だ。……彼女が死んで、僕が絶望の中で無心に雪山を放浪していた時。偶然遭遇した氷雪の神獣を八つ裂きにして、その時のルーレットで手に入れた僕の過去の遺物さ」
それは、300年の王が最も孤独で、血の涙を流していた時期の象徴。
「すばる。君はアルテアとゼインという二人の六王を敵に回し、ヨーロッパの結社を傘下に収めた。これから先、君の日常には間違いなく、理不尽な死の危険が迫るはずだ。……もし、君のイカサマでもどうにもならない絶体絶命の危機に陥ったら、その結晶を砕きたまえ」
俺は手のひらに乗る、絶対に溶けない氷の結晶を強く握りしめた。
「砕くと、どうなるんだ?」
「地球上のどこにいようとも、僕が君の座標へ『一瞬で転移』する」
レヴィは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ただし、効果はたった一度きりだ。……忘れないでくれよ、すばる。君が僕の復讐を背負わないように、僕も君の戦いを代行する気はない。でも、君が本当に一人で死にそうになった時は、ダチとして絶対に助けに行ってやるからね」
「……」
ヨーロッパの谷底で俺が彼に告げた言葉を、彼の一番重い過去の遺物と共に、そっくりそのままお返しされた形だ。
俺は少しだけ照れくさくなり、その氷の結晶を制服のポケットの奥深くにねじ込んだ。
「へえへえ。財布忘れて晩飯代が払えなくなった時にでも、ありがたく砕かせてもらうよ」
「アハハッ! その時は、君を頭から氷漬けにしてやるから覚悟しておきたまえ!」
レヴィは高らかに笑い、窓を開け放った。
初夏の生ぬるい風が吹き込む中、彼は雪の舞う吹雪と共に、音もなく西東京市の空へと消えていった。
数日後の、月曜日の朝。
レヴィが去り、元のちぐはぐな三人(俺、セリア、紅刃)の生活に戻った俺は、完治した右腕を回しながら登校していた。
「統! 荷物はお持ちします! 私が正妻として……!」
「アタシが持つって言ってんだろ! つーかオマエ、制服の着こなしが堅苦しすぎるんだよエリート気取り!」
相変わらずギャーギャーと騒ぐ二人を連れて教室の扉を開けると、いつもの見慣れた日常の風景がそこにあった。
だが、その日のホームルームは、どうにも浮き足立った空気に包まれていた。
「えー、席につけ。今日は転校生を紹介する」
担任の言葉と共に、教室の前の扉が開く。
その瞬間、クラス中の男子はおろか、女子生徒たちすらも言葉を失い、息を呑んだ。
そこに入ってきたのは、現実離れした『美しさ』を持つ少女だった。
腰まで届く艶やかな黒髪に、吸い込まれるような深い漆黒の瞳。歩くたびにふわりと香る、甘く危険な花の匂い。制服姿でありながら、どこか妖艶で、抗いがたい魅力を放っている。
「初めまして。京極 雅と申します。……不慣れな点も多いですが、どうかよろしくお願いしますね?」
鈴を転がすような、甘く響く声。
教室の男たちの顔が、一瞬にしてだらしなく緩むのが分かった。
雅は静かに教壇からクラス全体を見渡し——そして、窓際の一番後ろの席に座る『俺』と目が合った瞬間、ハッとしたように小さく息を呑んだ。
彼女の白い頬が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。
(……すげえ美人だな。でも、なんだろう。この感じ……)
俺がハズレ能力のイカサマ師として培ってきた『直感』が、微かな警鐘を鳴らしていた。彼女の所作には、一切の隙がないのだ。
そんな俺の視線など気にする素振りも見せず、雅は指定された空席に向かう途中で足を止め、一直線に俺の席の真ん前へと歩み寄ってきた。
「えっ……?」
クラス中の視線が突き刺さる中、彼女は俺の机にそっと両手をつき、上目遣いで俺を見つめてきた。
甘い香りが、俺の脳を直接揺さぶる。
「……あの、突然ごめんなさい。私……教室に入って、あなたと目が合った瞬間、胸がすごくドキドキして……」
雅は、恥じらうように視線を泳がせ、最後に真っ直ぐに俺の瞳を射抜いた。
「私、あなたに『一目惚れ』をしてしまったみたいです。……あの、お名前、教えてもらえませんか?」
「な、なんだとォォォォッ!?」
俺が名前を答えるよりも先に、教室が爆発したような阿鼻叫喚に包まれた。
「転校初日で公開告白だとォ!? 万死に値するゥゥゥッ!!」
窓の外からは、別クラスのセリアと紅刃が「統(ハズレ枠)!! あの泥棒猫は誰だ(誰ですか)!!」と鬼の形相でガラスを叩いている。
突然のラブコメ展開。
俺は「御堂すばる、だけど……」と引きつった顔で答えるのが精一杯で、心臓は別の意味で冷や汗を流していた。
(なんだこの女……魔力の気配は一切ないのに、目が、完全に『狩人』のそれだ……)
混乱する教室の喧騒の中で。
京極雅は、恋する乙女のように頬を染めて微笑みながら、その漆黒の瞳の奥で冷酷な計算式を弾き出していた。
(——御堂すばる。アルテアとゼインを退けたという、新たなる極東の王。……見たところ、ただの平凡で純情な少年のようですね)
彼女の正体。
それは、日本という国そのものの裏社会を牛耳る、最大にして最古の魔術結社『八咫烏』から派遣された、特級の工作員であった。
力で支配しようとしたから、アルテアたちは反撃に遭い、敗れたのだ。
結社の幹部たちは、新たなる「王」を自らの陣営に取り込むために、最も効率的で確実な手段を選んだ。
——すなわち、『ハニートラップ』である。
(男のプライドをくすぐり、甘い毒で骨抜きにして、我々結社の便利な『傀儡(あやつり人形)』にして差し上げますわ。……覚悟してくださいね、すばる君?)
「すばる君、ですね。ふふっ、素敵な名前。これから、たくさんあなたのことを教えてくださいね?」
雅は小首を傾げ、完璧な『恋する乙女』の仮面を被って、俺の手にそっと自分の指先を重ねた。
ヨーロッパの激闘を終え、ようやく戻ってきたはずの俺の日常は。
今度は「色仕掛け」という最悪の絡め手によって、再び大きく狂い始めようとしていた。




