初夏の雪と、凍りつく日常
翌朝。春から初夏へと移り変わる、少し汗ばむような生ぬるい風が西東京市を吹き抜ける。
俺は右腕を三角巾で吊ったまま、セリアと紅刃という二人の異常な美少女を連れて、見慣れた通学路を歩いていた。
「統、カバンはお持ちします! 負傷した主の荷物持ちは騎士の務め!」
「アタシが持つ! 居候の分際でタダ飯は食えねえって言ってんだろ!」
「お前ら、俺のカバンを引っ張り合うな! 中の弁当が寄るだろ!」
周囲の男子生徒たちから飛んでくる「殺意の視線」も、今となっては心地よいスパイスだ。
俺の右腕の【6】の権能は沈黙している。ハズレ能力の【1】しか使えない、ただの満身創痍の高校生。それでも、横でギャーギャーと喧嘩する二人を見ていると、アルテアと命懸けで殴り合って、この平穏な日常を守り抜いた甲斐があったと心底思える。
——同刻。日本から遠く離れた、ヨーロッパの雪深き古城。
薄暗い玉座の間で、チェス盤の駒を弄んでいる長い銀髪の青年がいた。
彼の背後には、絶対零度の冷気を放つ「巨大な氷の竜」の骸骨が控えている。
「……アルテアが、極東の島国で敗れただと?」
青年は、チェスの「キング」の駒を指先で弄びながら、面白そうに目を細めた。
「150年ぽっちの若造とはいえ、同じ【六王】の玉座に座る者が、新米のガキと相打ちになるとは。……重力計算を狂わせる質量のイカサマ、か」
青年が指先に力を込めると、チェスの駒が一瞬にして『絶対零度の氷』に包まれ、粉々に砕け散った。
「面白い。実に面白いイレギュラーだ。僕が【6】を引き当ててからの『300年』……これほど退屈を紛らわせてくれそうな玩具は久しぶりだ」
300年。アルテアの倍の時間を生き延び、無数の神を凍りつかせてきた古参中の古参。
青年の冷たい瞳が、地図上の『日本』へと向けられる。
「この僕の『静止空間』に、そのイカサマがどこまで通用するか……直接、極東の島国へ出向いて試してみたくなったよ」
舞台は戻り、西東京市の高校の屋上。
昼休み。俺たちはベンチに座り、母さんの作った弁当箱を広げていた。
「統、アタシの卵焼きと、オマエのタコさんウィンナー交換しろ」
「お前それ絶対等価交換じゃねえだろ」
そんなくだらない言い合いをしていた、その時だった。
「……あれ?」
初夏の温かい風が吹いていたはずの屋上で、紅刃がふと、身震いをした。
彼女の口から吐き出された息が、真っ白な『白い息』に変わっている。
「なんだ、急に寒く……」
俺が空を見上げた瞬間。
青く澄み渡っていたはずの初夏の空から、ひらりと、一枚の『雪の結晶』が舞い落ちてきた。
それは俺の弁当箱のフタの水滴に触れた瞬間、パキィィッ!と不気味な音を立てて、水滴だけでなくプラスチックのフタごとを一瞬で「絶対零度の氷」へと変えてしまった。
「なッ……!?」
「統、伏せてッ!!」
セリアが血相を変えて俺を押し倒す。
直後、屋上のフェンス、給水塔、そして空を飛んでいた鳥までもが、連鎖的にパキパキと音を立てて真っ白く凍りついていく。
『——統くん!! 今すぐそこから逃げなさい!!』
インカムから、イヴの悲鳴のような通信が飛び込んできた。常に冷静な魔女が、かつてないほど取り乱している。
『西東京市の上空に、異常な気象ドメインが急速展開しています! 観測される神威の波形……アルテア以上のバケモノです! 歴300年を誇る【六王】の最古参クラスが、直接そちらへ向かって……ッ!』
通信の音声すらも、強烈な冷気によるノイズで途切れていく。
俺は凍りついた地面に手をつき、青空がまるで「巨大な氷のドーム」のようにヒビ割れていくのを絶望的な気分で見上げた。
「……ウソだろ。退院して、まだ一週間も経ってねえぞ……」
俺の右腕は、まだ三角巾で吊られたままだ。戦う術はない。
平穏な日常の賞味期限は、あまりにも短すぎた。
「上等だ……。このイカれた神殺しの盤面、絶対に俺がぶっ壊してやる……ッ!」
凍てつく初夏の空の下。
右腕の使えない最弱の王は、次なる圧倒的な絶望に向けて、静かに牙を剥いた。




