地下の聖域と、箱庭のトラウマ
「……あ、がっ……!」
西東京市の地下深く。廃棄された旧地下鉄のトンネルを改装した、魔術協会の隠しセーフハウス。
強固な魔術結界が張られたその部屋のソファに倒れ込んだ瞬間、俺は右腕の激痛に顔を歪めた。
「無茶をしないでください、統! 傷が開いています!」
セリアが慌てて治癒魔術をかけ直す。だが、物理的な傷以上に、アルテアの放っていた圧倒的な「格の違い」が、俺の心臓を冷たく締め付けていた。
「イヴ。……あいつ、アレスよりヤバいぞ。息をするだけで空間が歪んでた」
俺が冷や汗を拭いながら言うと、コーヒーを淹れていたイヴが静かに頷いた。
「ええ。アルテアはギリシャの巨神アトラスなど、重力や空間を司る複数の神を喰らい、その権能を150年かけて自分用に『最適化』しています。未熟な【6】の権能一つでは、到底太刀打ちできません」
「……勝てるわけ、ないんだよ」
部屋の隅。毛布にくるまり、膝を抱えていた紅刃が、うわ言のように呟いた。
「ボスは絶対だ。あの重力の前じゃ、アタシの爆炎(【4】)なんてマッチの火と同じだった。逆らえば、潰される……」
「紅刃。お前、ずっとあんなヤバい奴の下で働いてたのか?」
俺の問いに、紅刃はゆっくりと首を振った。
「働いてたんじゃない。飼われてたんだ。……アタシたち孤児は、『庭』と呼ばれるオウルの地下施設に集められた。そこで毎日、無理やり神の眷属や下級神と殺し合いをさせられたんだ」
紅刃の震える声が、凄惨な過去を紡ぎ出す。
「生き残って、サイコロを振らされる。出目が【1】や【2】のハズレだった奴は、『データに価値なし』としてその場で処分された。強くて使い勝手のいい権能を引いた奴だけが、ボスの手駒として生きることを許された……」
彼女が俺たちに見せていた戦闘狂の姿は、そうしなければ自分が「処分」されてしまうという、極限の生存本能から生まれた虚勢だったのだ。
「アタシが【4】を引いた日……アタシを庇って、ハズレを引いた親友が潰された。アルテアの指先一つで、文字通り、肉の塊にされて……」
紅刃の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「だから、アタシが戻らなきゃダメなんだ。アタシがボスの言う通りに処刑されれば、オマエたちは見逃してもらえるかもしれない。これ以上、アタシのせいで誰かが潰されるのは……ッ!」
「馬鹿野郎」
俺はソファから立ち上がり、痛む足を引きずって紅刃の前に立つと、その赤い頭にコツンと拳を落とした。
「痛っ……何すんだよ!」
「お前が死んで助かっても、俺の寝覚めが最悪になるだけだ。それに、あの金髪野郎が『はいそうですか』と俺を見逃すわけねえだろ」
俺はわざと悪態をつきながら、紅刃の頭を乱暴に撫でた。
「俺の右腕が治るまでお前が矛になるって、自分で言っただろ。……今は休め。明日、作戦を練る」
は目を丸くした後、ポロポロと涙を流しながら毛布に顔を埋めた。
疲労と精神的な限界が来ていたのだろう。彼女はそのまま、泣き疲れた子供のように眠りに落ちた。俺も鎮痛剤を飲み、セリアが見守る中で泥のように眠った。
* * *
——翌朝。
俺が目を覚ますと、部屋の空気がひどく冷たかった。
「……セリア?」
ソファの横にいたはずのセリアの姿はなく、机の上に、見慣れない一枚の黒い羽根(フクロウの羽)が落ちていた。
嫌な予感がして飛び起きる。
「統くん。起きましたか」
結界の入り口から、イヴとセリアが険しい顔をして戻ってきた。
「紅刃が、いない。……結界を内側から解いて、自ら出て行きました」
イヴが差し出したのは、紅刃が残した短い書き置きだった。
『オマエの日常に、アタシは似合わない。今まで弁当、サンキュ』
「……あのバカッ!!」
深夜、俺たちが眠っている間に。彼女は俺たちの命を重力の化け物から守るため、単身、己の処刑場である『オウル』のアジトへと戻ってしまったのだ。
「イヴ、オウルのアジトの場所は分かるか!」
俺が怒鳴ると、イヴは静かに頷いた。
「……ええ。ですが統くん。右腕が使えないあなたが行けば、それは紅刃と共に『死』を選ぶと同義ですよ」
「上等だ。俺の【1】(ハズレ枠)が、150年の歴史に勝てないルールなんて、どこにもねえんだよ」
俺は、左手で制服のネクタイをきつく締め上げた。
不可侵の王との、頭脳と意地を賭けたダイス・マキアの第二ラウンドが、最悪の形で幕を開けようとしていた。




