不可視の圧殺と、王の逃亡劇
ミシッ……メキメキメキッ!!
西東京市の裏病院。俺たちのいる病室の空間が、目に見えない巨大な万力で締め上げられるような異音を立て始めた。
点滴のスタンドが飴細工のようにぐにゃりと曲がり、コップの水が「真横」に向かってこぼれ落ちる。
「……ボスが、来た」
紅刃の顔は蒼白だった。彼女はガタガタと震え、獣のような凶暴さは見る影もない。ただ、絶対的な恐怖の前に平伏すことしかできない小動物のように、その場にへたり込んでいた。
「統、下がってください! 私が迎撃を……ッ!」
セリアが退魔の刀を引き抜こうと一歩前に出た、その瞬間。
「——馬鹿な真似はおやめなさい、騎士のお嬢さん」
イヴがセリアの肩を強く掴み、かつてないほど険しい声で制止した。
「歴150年の『重力支配』。あれはアレスのように刀で斬り結べる相手ではありません。右腕が使えない今の統くんが正面からぶつかれば、コンマ一秒で全員『肉塊』に変えられます。……逃げますよ。今すぐに!」
「逃げるって、どこからだよ! 廊下からは足音が……!」
「窓からです!」
イヴが分厚い魔道書を開き、詠唱を放棄して強引に魔力を練り上げた。
「【空間歪曲・硝子の門】!」
病室の窓ガラスが吹き飛び、外の夜空へと繋がる脱出口が開く。ここは地上五階だ。普通なら飛び降りれば無事では済まないが、俺たちには「イカサマ」がある。
「チィッ……行くぞ、ストーカー女!」
俺は動けない紅刃の腰を左手で強引に抱き寄せ、同時にセリアの肩を掴んだ。
ギプスで固定された右腕に激痛が走るが、構っている余裕はない。
「——権能解放!! 【1の目】!!」
俺、紅刃、セリアの三人の体重が「羽」のように軽くなる。
そのまま俺たちは、吹き飛んだ窓枠から夜の西東京市の空へと身を投げ出した。イヴも自身のローブをはためかせ、浮遊魔術で俺たちの後を追う。
フワリと、重力から解放された俺たちの身体が夜風に乗って滑空し始めた、まさにその直後だった。
ドゴォォォォォォォォンッ!!
背後で、凄まじい轟音が響き渡った。
俺が空中で振り返ると——俺たちがつい数秒前までいた五階の病室が、「外側」から見えない巨大な手で握り潰されたように、一瞬にして【直径1メートルの鉄とコンクリートの高密度な球体】へと圧縮されていた。
「……嘘だろ」
俺は背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒を感じた。
もし逃げる判断が数秒でも遅れていれば、俺たちもあのソフトボールほどの球体の中に、血肉ごと圧縮されて混ざっていたのだ。
圧縮された病室の跡地。ひしゃげた鉄骨の縁に、白スーツを着た金髪の男が立っていた。
【六王】の古参、アルテア。
彼は滑空して逃げていく俺たちを追おうとはせず、ただ夜風に金髪を揺らしながら、底冷えするような青い瞳でこちらを見下ろしていた。
『——逃亡を選択するか、新参の王。良い判断だ。だが、盤上から逃げ切れると思うなよ』
声は発していない。だが、重力の波に乗って、アルテアの直接的な「殺意」だけが俺の鼓膜を確かに揺らした。
俺たちはそのまま暗闇に紛れ、イヴの先導で西東京市の地下へと逃げ延びた。
圧倒的な敗北感。顔を合わせることもなく、ただ相手の「歩く余波」から逃げ出しただけ。これが、生きる次元の違う『古参の六王』の理不尽さだった。




