四つの体温と、顕現する『虚無の主(ディーラー)』
ごうごうと、耳元で南米の風が唸りを上げている。
ブラックチップによって己の魂をすべて燃やし尽くした代償は、あまりにも残酷だった。
漆黒の炎を纏っていた俺の右腕は、肉が崩れ落ち、炭のように黒く変色している。全身の神経が原初の熱量に焼かれ、指一本動かすことすらできない。
視界はかすみ、意識は闇の底へと急速に沈んでいく。
(……わりぃ、レヴィ。……俺の命じゃ、テメェのツケを半分しか払えなかったみたいだ)
俺は、空の彼方から真っ逆さまに墜落していく己の運命を、どこか冷めた頭で受け入れていた。
だが、目を閉じた俺の身体を打ち据えたのは、硬い岩盤の衝撃ではなかった。
「……捕まえたッ!! バカ統ッ!!」
ドンッ、と。
空中で、誰かが俺の身体に強くぶつかり、その勢いを殺しながら荒野を数メートル転がった。
「が、はッ……!」
肺から空気が漏れる。目を開けると、そこには全身傷だらけになりながら、俺の炭化した身体を必死に抱きしめている紅刃の姿があった。
彼女の背中を、セリアの白銀の盾が支え、さらに両脇から雅と翠蓮が俺の身体の衝撃を逃すように膝をついている。
極東の女たちが、最後の力を振り絞って、空から墜ちてきた俺をキャッチしたのだ。
「……お前、ら……」
「喋らないでください、すばる様! これ以上の出血は……っ!」
雅が、震える手で自らの着物を裂き、俺の傷口を強く圧迫する。
翠蓮が、俺の焦げた身体を力強く抱き寄せる。その身体から武神の闘気を立ち昇らせ、迫り来る極寒の淘汰の余波から、己の体温と魔力だけで俺を必死に護り抜こうとしていた。
「……バカヤロウ。なんで命を全部ベットしたのよ……! レヴィが、レヴィがどんな思いで……ッ!」
セリアが、大粒の涙をボロボロとこぼしながら、俺の炭化した頬に自らの額をすり寄せる。
血と灰と、彼女たちの涙の匂い。
ああ、そうだ。俺はレヴィを失った絶望で我を忘れていた。
だが、俺のテーブルには、まだこんなにも温かくて、重くて、命を懸けて俺を護ろうとしてくれる『家族』が残っていたじゃないか。
「……泣くな、バカども。……イカサマ師は、まだ……死んでねえよ」
俺が掠れた声で笑うと、紅刃が「バカッ!」と泣き叫びながら、俺の胸に強くしがみついた。
『——美しいな。泥人形どもが寄せ合う、儚き命の残火よ』
頭上から、純白の剣の姿をした執行神・メタトロンの冷酷な声が降り注ぐ。
俺の一撃によって相方であるサンダルフォン(第5の執行者)を失ったメタトロンだが、その姿に怒りや焦りはなかった。
『我が半身たるサンダルフォンは砕けた。……だが、それこそが星の理。古き器が壊れねば、真なる主を迎え入れる隙間はできぬ』
メタトロンは、天空に開かれた巨大な『光の門』を見上げた。
そして、恐るべき言葉を紡ぐ。
『——我ら五柱の執行神は、主を迎えるためのただの「鍵」に過ぎない。五つの鍵がすべて星に還りし時、初めて天の門は完全に開き、真なる絶望がこの地に顕現する』
五柱の臣下がすべて討伐された時、真の黒幕が顕現する。
『残るは我のみ。……ならば、我が存在を最後の供物とし、主の御霊をここへ呼び降ろそう』
メタトロンは、純白の剣である自らの身体を、天空の『光の門』のド真ん中へと突き立てた。
ピキィィィィィィンッ!!!
執行神メタトロンの巨体が、自ら進んで美しい光の粒子となって砕け散り、門の内部へと完全に吸い込まれていった。
自死。
星の理を執行するためだけに、メタトロンは己の存在すらもアッサリと『無へ還した』のだ。
これで、五柱の執行神はすべてこの星から消え去った。
『…………』
『…………』
通信機から、イヴの音声は聞こえない。
警告のアラートすら鳴らない。ただ、ザー……という無機質なノイズだけが響いている。
俺たちをサポートしてきた高度なAIそのものが、これから現れる『何か』の規格外の質量を前に、演算を放棄して完全にフリーズしてしまったのだ。
バリンッ!!!
南米の空が、物理的なガラスのように無数の亀裂を走らせて『割れた』。
空間そのものが、その存在のあまりの重圧に耐えきれず、悲鳴を上げて砕け散ったのだ。
「な……んだ、ありゃあ……」
ガルドが、獣の本能を完全にへし折られたように、ガタガタと震えながら空を見上げた。
光の門の奥から、ゆっくりと『それ』が這い出してきた。
竜でもない。悪魔でもない。巨大な人型をしているが、顔はない。ただ、圧倒的な『虚無』と、星の海を思わせる漆黒の星々(光背)を背負った、途方もない巨影。
ズォォォォォォォォォォォォンッ……!!!
名もなき神が、南米の荒野にフワリと降り立った。
ただ、それだけ。攻撃の素振りすら見せていない。
だが、その足が大地に触れた瞬間、南米大陸の岩盤が、俺たちの周囲数キロメートルにわたって、一瞬にして数メートルも『沈み込んだ』。
「ぐ、がぁぁぁッ!?」
「あ、あああ……っ!」
すさまじい重圧。いや、重圧ではない。
それは「そこに存在しているだけで、周囲の概念が圧殺される」という、次元の違う天災の余波だった。
満身創痍の雅やセリアたちが、立っていることすらできず、血を吐いて大地に這いつくばる。翠蓮の持つ槍の柄が、重圧だけでメキメキとひび割れていく。
(……次元が、違いすぎる……)
炭化した身体で大地に縫い付けられた俺は、圧倒的な絶望に歯噛みした。
今まで戦ってきた原初神たちが、まるで子供の遊びに思える。
こんなバケモノを相手に、どうやってイカサマを仕掛けろって言うんだ。
その時だった。
『——久しいな。我らが作りし星のテーブルを、ことごとく灰にしてきた、愚かなる人の子よ』
顔のない巨影から、星の海を震わせるような声が響いた。
その声を聞いた瞬間、俺の脳内のすべてのパズルが、最悪の形で組み合わさった。
死王や原初神たちトップランカーが、なぜこの淘汰の嵐に怯えていたのか。
なぜ、五柱の執行神は、星を「無へ還そう」としていたのか。
そして、俺たちに神殺しのゲームを強要し、星の理を回し続けていた「真の胴元」の正体が、誰なのか。
『我は、星の律を紡ぐ者。膨張しすぎた世界の理を喰らい、再び白紙へと還すための、絶対なるシステム』
巨影は、ゆっくりと、その顔のない頭をこちらへ向けた。
『——我は、【根源の虚無 アペイロン】。さあ、盤面を片付ける時間だ』
アペイロン。この星のすべてを、無数の「可能性」として喰らい続ける、原初の無。
俺たちが歩んできた神殺しの旅路は、このアペイロンが配った、仕組まれた死のカードに過ぎなかったのだ。
終わる。
俺の命も、俺の愛した極東の家族も、この星のすべてが、あのアペイロンの口の中に飲み込まれ、一片の例外もなく『なかったこと』にされる。
圧倒的な絶望の前に、俺の意識が闇に沈みかけた、その時だった。
「……立ちな、アンタら」
俺の耳元で。
大粒の涙を拭い去った紅刃が、血に染まった大剣を杖代わりにして、震える足でゆっくりと立ち上がった。
「べ、紅刃……やめろ、お前も……もう限界だろ……」
俺が掠れた声で制止するが、彼女は聞かない。
大気圧で全身の毛細血管から血を流しながら、それでも彼女は、俺を護るためにアペイロンの前へ立ちはだかる。
「……ええ。レヴィ殿の誇り高き散り際を……このまま終わらせるわけにはいません」
雅が、漆黒のスーツを血で染めながら、再び刀を正眼に構えて立ち上がった。
「すばる君。お姉さんが、必ずあなたを護り抜きますからね」
翠蓮が、武神の闘気を極限まで振り絞り、折れかけた槍を握りしめて俺の前に立つ。
「私の特等席(隣)で、勝手に死ぬことは絶対に許さないわよ、統……!!」
セリアが、ヒビの入った白銀の盾を掲げ、不屈の瞳で巨影を睨みつける。
立っていることすら不可能な重圧の中で。
炭化した俺の身体を護るように四方を囲み、次元の違う絶望へ向けて、誰一人として武器を下ろさなかった。
「……お前、ら……」
馬鹿な奴らだ。俺に似て、絶望的な盤面ほど降りることを知らない、最悪で最高の共犯者たち。
彼女たちの背中を見て、俺の中で消えかけていた命の残火が、再び熱を帯びるのを感じた。
「……ハッ。そうだな。……勝手に店じまいさせられてたまるかよ」
俺は、砕けた岩盤に血まみれの指を突き立て、どうにか上体を起こした。
俺の魂を、文字通りすべて燃やし尽くすほどの、底知れぬ漆黒の殺意と共に。
根源の虚無だろうが、神だろうが……俺の家族の命を奪った落とし前……絶対に、許さねえ……!!
俺は、左手のポケットの奥。
残った【淘汰の抱擁】と【空白の断絶】のチップを鷲掴みにした。
「……来いよ、アペイロン。テメェが作ったこのイカれたテーブルを……俺たちの泥臭いイカサマで、根底からひっくり返してやる」
南米の赤き荒野。
己の命を「すべて」テーブルに投げ打ったディーラーは、絆という名の手札を握りしめ、人類最後の『死に物狂いの反逆』を開始するのだった。




